阿弥陀経を読んで

あとがき

わたしはいま、悲しい気持ちでいる。
昔から多くの日本人の間で信じられてきたことが、真実はではないことが分かったからである。読み始めてすぐ、これは嘘を書いていると思った。 嘘とわかって最後まで付き合うのもつらいことである。しかし千年以上にわたって日本人は阿弥陀仏を信じ、南無阿弥陀仏をとなえ、 今日まで来たのである。日本人のなかの選りすぐりの人々がこれを信じ、講釈してきたのである。いまその人たちは、極楽にいるのだろうか。
経典には、極楽の様子がつぶさに書かれている。
極楽国土には七宝の池があって、そのなかには八種の効能に富んだ水があふれている。 その池の底は純金の砂がしかれ、 池の四辺の階段は金・銀・瑠璃(るり)・玻瓈(はり)からできている。
かの仏国土ではいつも天の音楽が鳴り、地面は黄金でできている。昼に三度、夜に三度、 曼陀羅華まんだらけがふっている。
かの仏国土ではそよ風が吹くと、宝石でできた並木や網飾りが妙なる音をだして鳴り響く。 たとえば百千種の楽器が同時に鳴るような ものだ。この音を聞く者は皆、自然に念仏・念法・念僧の思いがわいてくる。
この経典が作られたのは、一世紀の北インドと推定されている。その時代と風土に生きた人々のあこがれが、極楽の描写に現れていると 思わざるを得ない。大量の金や種々の宝石を所有し、飾りつけ、身に着けるのが最高の喜びであったようだ。大地は金でできているし、樹木は 宝石でできている。とても日本人が郷愁をおぼえるような処ではない。 それを普遍的な価値があるかのように極楽の属性として説いている。しかも経の出だしは 如是我聞にょぜがもんであるから、釈迦が自ら語ったとしているのである。 とても真実ではあり得ないし、普遍的価値があるとも思えない。その後の経典の伝播や信仰の盛衰も、他のもろもろの地上の事象と同じく、 歴史のなかで生成し展開したのである。
— 完 —
公開日2014年8月23日