源氏物語  あらすじ

HOME表紙へ あらすじ簡易版 源氏物語 目次

1 桐壺

(源氏1~12才)
光る源氏前史 生誕 成長 臣籍降下

ある御代に、桐壷という帝に、あまり身分は高くないが、格別に寵愛された更衣がいた。淑景舎しげいしゃに局が与えられ壺(中庭)に桐が植えられていたことから、桐壷の更衣と呼ばれた。多くの女御更衣たちから、嫉妬されいじめにあって、美しい第二皇子光源氏を産んで死んでしまう。以後源氏は父帝の膝下で育つ。天性の美貌に学問、音楽の才を発揮する皇子を帝は寵愛する。高麗の相人が

国の親となって、帝王の位に昇るべき相があるが、その方面からみると、国が乱れる恐れがある。朝廷の重臣となって天の下の治世を補佐するという面から見れば、その相もまた違うでしょう。
と占ったので、第一皇子(後の朱雀帝)を春宮にし、光源氏を、高麗の相人の占いに従って臣籍降下し、源氏姓を与えた。元服した源氏は左大臣の娘の葵の上と結婚するが、新たに入内した藤壺宮を思慕するようになる。藤壺宮は亡き母更衣によく似ていた。元服までは、藤壺の御簾に出入りして育った。

2 帚木

(源氏17才)
光る源氏十七歳夏の参議(宰相)兼近衛中将時代の物語

五月の長雨が降り続くある夜、宿直で集まった若手の頭中将、左馬頭、式部丞らが、それぞれの女性体験を語り女の品定めをする。〔雨夜の品定め〕源氏は聞き役にまわっている。その中で、中の品の女におもしろいのがいるという話が出る。その翌日、源氏は方違えで中川の紀伊守邸を訪れ伊予の介の後妻になった若い空蝉が目当てであった。空蝉は入内の話もあって、美しいと評判であったが、伊予の介の後妻になった。その夜源氏は、嫌がる空蝉を抱えて自分の局に運び、強引に契った。その後、しばしば文をやるが、空蝉は再びは逢おうとしない。自分が若い娘の時であれば、源氏の申し出は嬉しいが、今は伊予之介の妻であり、その節を守ろうとする。

3 空蝉

(源氏17才)
光る源氏十七歳夏の物語

源氏は空蝉と強引に契ったあと、空蝉が忘れられず、弟小君の案内で、再び紀伊守邸を訪れる。空蝉の継娘軒端萩と碁を打っている二人をかいま見る。たまたまその夜、軒端荻は自室に帰らず、空蝉の部屋で寝ることになり、源氏は空蝉の部屋に忍び込むが、空蝉は気配を感じ取り、薄物の衣をおいて、生絹の単衣のみまとって逃げ出した。源氏は潜り込んで人違いと分かるが、軒端萩と契る羽目になる。翌日、文も出さない。

4 夕顔

(源氏17才)
光る源氏の十七歳夏から立冬の日までの物語

源氏は六条辺りへ行く途中、五条の尼乳母を病気見舞いに寄る。惟光の母であった。その隣家の垣に夕顔の花が咲いているのを見て、源氏は一枝所望する。中から童女が出てきて扇子に乗せて歌が差し出された。「心あてにそれかとぞ見る白露の光そえたる夕顔の花」源氏は女に心惹かれて、覆面して通うようになる。女は方違えで市井の雑踏が聞こえるような長屋に住んでいた。女の飾らぬ素直さ、男を信じ切ったやさしさに、源氏は惹かれて通うようになる。ある夜、源氏は女を近くの廃院に伴うが、夜半女は物の怪に襲われて死んでしまう。惟光の助けで女を東山に葬った。女に幼女がいることも知り、頭中将が「雨夜の品定め」で語った女であることがわかる。
空蝉は、夫の任地へ下ることになり、軒端萩は、蔵人少将を通わせるようになる。

5 若紫

(源氏18才)
光る源氏の十八歳春三月晦日から冬十月までの物語

源氏は、瘧病わらはやみをわずらい、霊験あるとされる聖のいる北山に行く。そこで、ある僧都の庵室にやはり病気治癒を祈願して身を寄せていた尼君(僧都の妹)と出会う。そこに十歳くらいの孫娘がいた。源氏は一目見てその美しい少女を見そめる。少女は源氏が慕っていた藤壺にとても似ていた。その少女は藤壺の姪に当たり、尼君の亡くなった娘の処に兵部卿(藤壺の兄)が通っていたときの子であった。
源氏は少女を世話をしたいと尼君に申し出るが、まだ幼すぎるとして、断られる。京の邸宅に戻った後、尼君はまもなく亡くなった。しかし、死に際し、尼君は少女の後見を源氏に託した。少女は、父の宮邸に引き取られることになるが、その前日源氏は少女を乳母の少納言と共に、二条の自邸に連れ去った。
一方、源氏は恋いこがれている藤壺が里帰りした時、王命婦の手引きで藤壺と夢のような契りを交わす。藤壺は懐妊する。

6 末摘花

(源氏17~18才)
光る源氏の十八歳春正月十六日頃から十九歳春正月八日頃までの物語

ある時、大弐の次に大事にしている乳母の娘の大輔の命婦から、故常陸親王が晩年にもうけて大事に育てた娘が世話をする者もなく、荒れた邸にひとり琴を友として住んでいる話を聞く。源氏は命婦の手引きで、邸に入る。その場に頭中将も隠れて後をつけていて鉢合わせした。娘はそうとうに内気でなかなか姿を見せない。ある雪明りの朝、源氏は娘の容姿をかいま見ることになる。

まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。
驚いたことに、胴長で鼻が象のようであった、鼻の先が赤かった。末摘花は普通備えているべき教養もなく、琴も満足できるほどでなく、ただ内気だった。がっかりした源氏はそれでも世話をしようと決心する。末摘花とは紅花の異名である。中国から伝来し、染色に使われた。

7 紅葉賀

(源氏18~19才)
光る源氏十八歳冬十月から十九歳秋七月までの宰相兼中将時代の物語

朱雀院への行幸が行われる。その席で、源氏は頭中将と二人で青海波を舞うことになる。行幸に行けない藤壺の為に、帝は事前に宮中で試楽(予行演習)をさせることになった。二人並ぶと、

源氏中将は、青海波せいがいはをぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将。容貌かたち、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木みやまぎなり。
と描写される。源氏の謡いや舞いはあまりにすばらしく、帝は心配になり、禍が源氏に及ばないように寺々に祈祷をさせる程であった。
翌年、藤壺は子を産む。源氏にそっくりの子であったので、藤壺は心配したが、そのことに気がついたものはいなかった。 藤壺は后となり中宮とになる。その子は春宮(のちの冷泉帝)となった。
葵の上は、気位が高く、気軽にうちとけないので、夫婦仲はしっくりいっていない。それで源氏はつい左大臣邸には足が遠のくのであった。紫の上を二条院に迎えたと聞いて、葵の上は機嫌が悪いが、表には出さない。紫の上は源氏になついていた。
一方、源典侍という好色な年配の典侍がいて、源氏は高齢好色に興味を持ち、言葉をかけると典侍は周波をしつこく送ってくる。源氏はほんの遊びで、夜を共にするが、そこへ頭中将がきて、騒ぎになる、とうい一幕もある。

8 花宴

(源氏20才)
光る源氏二十歳春二月二十余日から三月二十余日までの宰相兼中将時代の物語

二月桜花の宴が開かれた。そこでは、舞いを舞い、詩文を作りして、遊ぶのであったが、そこでも源氏の秀でた天与の才は抜きんでていた。その夜、内裏の奥の藤壺のいる辺りをさ迷っていると、「朧月夜に似るものぞなき」とうたいながら来る女に出会う。誰とも知らず契るが、女も源氏を憎からず思った。どこの女かわからなかったが、三月になり右大臣邸で藤の花の宴が開かれて、源氏も招待され、そこで女と再会した。それは右大臣の娘、弘徽殿女御の妹だった。しかもその春東宮に入内予定だった。女は、有明の君または朧月夜と呼ばれる。

9 葵

(源氏22~23才)
光る源氏の二十二歳春から二十三歳正月まで近衛大将時代の物語

花宴から二年がたった。桐壷帝が譲位し朱雀帝が即位した。藤壺の産んだ子が東宮になり、源氏が後見に指名される。
六条御息所は、源氏との絆を絶って、娘の斎宮と一緒に伊勢へ下ろうとしていた。賀茂の祭りの御禊の日、行列に供奉する源氏の姿を一目見ようと見物に来ていた六条御息所は、葵の上の車と下人たちが場所取りの争いになり、御息所の車は奥へ押しやられ車は壊されて、ひどいはずかしめを受けた。
一方お産に苦しんでいた葵の上は生霊に憑かれていると思われ、さかんに加持祈祷が行われた。源氏が御簾に入って葵の上に慰めの言葉をかけていると、いきなり懐かしそうな声で、

いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける (いえ、違います。この身がすごく苦しいので、しばし祈祷をやめていただきたいのです。こうして参り来るつもりはなかったのですが、物思う人の魂は、実に体を離れてさ迷うのです)
と生霊が現れ、御息所その人の仕草もして、彼女の生霊が葵の上に取り付いていたのだとわかった。御息所の方では、加持祈祷の芥子の香が衣や髪についてとれないのであった。
葵の上は、苦しんで男の子(夕霧)を産んだ。左大臣家一同の喜びもつかの間、司召しで皆が内裏に出かけているうちに、にわかに容体が悪くなり、死んだ。
源氏は悲しみのなかで左大臣家の皆と別れ、左大臣邸を出て、二条院へ戻る。葵の上の忌みが明けて源氏は紫の上と契った。
高木和子著『源氏物語を読む』(岩波新書)では、葵の巻を次のように紹介されている。

葵巻は、車争い、生霊事件、葵上の死と服喪、紫上との新枕と話題満載で、『源氏物語』の中で最も劇的で魅力的な巻の一つとなっている。

10 賢木

(源氏25才)
光る源氏の二十三歳秋九月から二十五歳夏まで近衛大将時代の物語

この巻で源氏は三人の女性の処に通う。六条御息所と藤壺中宮と朧月夜である。朝顔の君とは文を交わしている。
六条御息所は、源氏への愛情を絶とうとして、娘の斎宮とともに伊勢へ下ることを決意する。源氏は秋の風情のある神域の野の宮に別れの挨拶に行く。ここで源氏は、明け方まで逢っていた。六条御息所との逢瀬を遂げるのだった。場所柄、契ることはないと思ったが、源氏があえて逢いに行き、明け方までいて、契らずに帰ることはないと思い直した。
桐壷院は病になり、春宮と源氏を重んずるよう遺言して崩御する。譲位しても通常の政は全部やっていたので、気の弱い朱雀帝と弘徽殿女御と性格の悪い右大臣の後見で今後の政を懸念する声が多かった。司召しにあっても、藤壺方の関係者はことごとに昇進しなかった。朱雀帝は遺言を守ろうとするが、権勢は反源氏の右大臣方に移る。源氏はつれづれ侘ぶる日々を暮らす。
一方源氏は藤壺が忘れられず、隙を見て藤壺に逢おうとする。ある時は、首尾よく侵入し藤壺の閨にいるとき、急に藤壺の具合が悪くなり、周囲が騒ぎとなって人が集まり、源氏は終日塗籠に閉じこもって隠れるという事態になった。 藤壺は後見として源氏を頼りにしているが、源氏との密通が露見して、春宮の地位が危うくなるのをなによりも怖れ、法華八講を催して、その最終日に出家することを公にする。
朧月夜との関係は、懲りずに続いていた。いつもは内裏の朧月夜の部屋で逢っていたが、瘧病わらわやみのため里の右大臣邸に下がっている時、源氏と逢っているところを、右大臣に見つかってしまう。
右大臣と弘徽殿女御は源氏の追放を画策する。

11 花散里

(源氏25才)
光る源氏の二十五歳夏、近衛大将時代の物語

故院の麗景殿女御は院から格別のご寵愛を受けていたわけではなかったが、穏やかで品があり、親しみやすい人だった。院の没後は後見がなく、不如意であったので庇護していた。内裏でたまさか逢っていた妹の花散里と一緒に住んでいた。花散里訪問の途中、昔一度逢った女の邸の前を通りがかり、惟光に行かせたが、女は内心残念がったが、素知らぬ風をされて、もっとも思うのだった。その時の地の文に、

いかなるにつけても、御心の暇なく苦しげなり。年月を経ても、なほかやうに、見しあたり、情け過ぐしたまはぬにしも、なかなか、あまたの人のもの思ひぐさなり。(どんな女でも、源氏は心の休まる時がなく気を遣った。年月を経ても、会ったことのある女には、情けを忘れないので、多くの女たちの物思いの種であった。 )
麗景殿と昔話にふけり、夜遅くなって花散里の対を訪れ驚かすのであった。

12 須磨

(源氏26~27才)
光る源氏の二十六歳春三月下旬から二十七歳春三月上巳日まで無位無官時代の都と須磨の物語

桐壷院が逝去し、朝廷は右大臣派に牛耳られることになった。左大臣は嫌気がさして、官を辞して隠居した。源氏は、ここで語られていないが、まるで身に覚えのない罪を着せられ流罪になる前に、自ら須磨へ身を引こうと決意する。源氏はわずかなお供を連れて須磨に下った。家族と別れて、源氏に侍する決意をした供たちがいた。住まいは唐風の仮住まいで、現地の有り合わせの材料で作ったが、風流な装いだった。右大臣をはばかって、須磨を訪れる人はなく、源氏にとっては、都の人々と便りを交わすことだけが慰みであった。文の送り先は、紫の上、花散里、藤壺、朧月夜、伊勢へ行った六条御息所等々である。それぞれ別れを惜しんだ人たちであった。
太宰の大弐が上京の途次、須磨へ寄って挨拶をした。娘の五節は思慕の情に乱れた。
時流を怖れず、頭の中将が見舞いにきて、一日旧交をあたためた。
明石入道は、源氏が須磨にいることを知り、千歳一隅の時とばかり、娘を源氏に差し上げる決意する。
海辺で禊をしていると、何の気配もなく、突然海が荒れ雨が激しく降り、雷が鳴り、夢のなかで、怪しい者が現れるのであった。龍王が源氏の美しさに魅入られたようであった。

13 明石

(源氏27~28才)
光る源氏の二十七歳春から二十八歳秋まで、明石の浦の別れと政界復帰の物語

須磨を突然世の終わりかと思わせる大嵐が襲う。都も荒れた天気らしい。ようやく嵐がおさまり、夢に故桐壷帝が現れ、このような所にいては駄目だ、この浦を去りなさいと告げる。それに呼応するように明石から舟をしたてて、明石入道が源氏を迎えに来る。入道も夢に、迎えの舟を出せとお告げがあったのだ。源氏はこうして入道の邸のある明石へ移った。海辺の館は堂々たる造りだが、岡辺のほうに数寄屋造りの瀟洒な住まいがあって、入道の娘が住んでいた。娘は父ゆずりで箏の琴の名手だった。入道はなんとかして娘を源氏にさし上げようとしていた。源氏は岡辺の住まいに通うようになり、源氏も紫の上を気にしながらも気位の高い明石の君に惹かれるようになった。やがて明石の君に懐妊の兆しが現れる。そうこうするうちに、帰京の宣旨が下った。都でも天変地異が起こり、朱雀帝は眼病を患い、大后も病がちだったのである。

大暴風雨に襲われた夜、亡き父帝が夢にあらわれ、そのお告げで源氏は明石へ移った。その後、明石入道の娘明石上を知り、結ばれる。一方、朱雀帝の一族にも相次いで不幸が起こり、帝はこれを源氏を苦しめた報いと考え、源氏召還の宣旨を下された。源氏は懐妊中の明石上を残して帰京した。

14 澪標

(源氏28~29才)
光る源氏の二十八歳初冬十月から二十九歳冬まで内大臣時代の物語

明石から帰京後、源氏は父桐壷院の法要を催し、孝養を尽くした。翌年2月、病がちであった朱雀帝は退位し、冷泉院が無事即位した。ここで右大臣一派の勢力は退潮する。源氏は内大臣になり、致仕の大臣は摂政太政大臣になり、すべて復権を果たした。
明石では、明石の君に姫君が生まれた。さっそく源氏は、宣旨の娘を説得して乳母として手配した。宿曜すくようで、

「御子三人、みかどきさきかならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」
源氏は、占いは当たっていると思うのだった。この時点で明石の幼子が后になる道筋がみえていただろう。
源氏が住吉神社に願果たしにお詣りに行くと、たまたま明石の君が例年の通り、住吉参りに行って、源氏一行とかち合った。源氏一行の圧倒的盛儀に気圧されて、あまりに身分の違いを思い知るのであった。源氏はそれに気づいて、明石の上に和歌を送るのだった。
六条御息所は斎宮退下により帰京し、病のため出家する。やがて、源氏に斎宮のことを託して亡くなる。源氏は斎宮を養女にして冷泉院の後宮に入れようと画策する。朱雀院も斎宮の美しさにご執心だったが、源氏は藤壺の賛同を得て、入内させようとする。藤壺の兄であり、紫の上の父である兵部卿の宮も入内させるべく娘を大切に育てていたが、はからずも冷泉帝の後宮に入れる争いになった。兵部卿の宮は、源氏が須磨退去の時、右大臣の一派に気をつかって、見舞いに来ることもしなかったので、かっては一緒に遊んだ仲であったが、源氏は快く思っていなかった。

15 蓬生

(源氏28~29才)
光る源氏の須磨明石離京時代から帰京後までの末摘花の物語

源氏が須磨・明石に退去していた間また都に帰ってからも、末摘花のことはすっかり忘れていて、末摘花はひどい困窮の状態になっていた。

もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の棲みかになりて、うとましう、気遠き木立に、梟の声を朝夕に耳ならしつつ、人気にこそ、さやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしからぬものども、所得て、やうやう形を現はし、ものわびしきことのみ数知らぬに、
末摘花の不如意を見かねて、叔母が大弐になった夫の赴任にともなって太宰府に行くので同行するよう誘うが、末摘花は同意しない。乳母子の侍従が長年献身的に仕えていたが、大弐の甥と一緒になったので、叔母に同行して離れることになった。
源氏は、ある時花散里訪問の途上、ひどく荒れた邸の木立に見覚えがあって、常陸宮の邸と確認すると、姫がまだ独りでいるか惟光に確認させて訪問する。末摘花はひどい不如意にたえて、ひとりで源氏に気づかれるのを待っていたのである。
それからは源氏が援助して、邸も修理して、宮家は見違えるようになった。造営中の二条院の東の邸に移すようにした。

16 関屋

(源氏29才)
光る源氏の須磨明石離京時代から帰京後までの空蝉の物語

伊予の介が常陸の介に任じられ、空蝉も一緒に下向したのであるが、任期あけて上京することになった。折しも源氏はお礼参りで石山寺に参拝するところであり、関屋で出会うことになるが、すれ違いで過ぎてしまう。昔文使いの役で召されていた小君は衛門の佐となり、また空蝉との間を往復する。
やがて伊予の介は年を重ねて、亡くなってしまう。下心がある継子の紀伊守は空蝉にやさしく接するが、空蝉は出家する。

17 絵合

(源氏31才)
光る源氏の内大臣時代三十一歳春の後宮制覇の物語

六条の御息所の忘れ形見は斎宮の任を解かれ、帰京した。前斎宮は美しく、朱雀院は伊勢へ送り出す時に、見初めていたが、源氏は藤壺と計って、冷泉帝に入内させることになり、梅壺を賜った。すでに頭中将の娘の弘徽殿が若い帝と年頃も合い、帝の寵愛を受けていたが、前斎宮は絵が得意で、同じ嗜好の冷泉帝と馬が合った。帝の寵愛が移るのではないか、頭中将は心配する。こうして、どちらがいい絵を持っているか競争になった。左右にわかれて、帥の宮が審判になった。源氏はいつものように梅壺側に肩入れし最後は、源氏が須磨の絵を出して梅壺側が勝利した。兵部卿の宮も大切に育てている娘がいて、入内させようと願っているが、この二人の間に割って入る余地はなかった。

なお、この年、冷泉帝13才、弘徽殿女御14才、 梅壺女御(前斎宮)22才

18 松風

(源氏31才)
光る源氏の内大臣時代三十一歳秋の大堰山荘訪問の物語

源氏は、二条院の東院を造営している。花散里はそこに移ってもらった。部屋もたくさん用意した。明石の君と姫君を明石に残したままなので、都に来るように勧めるが、明石の君はあまりの身分の違いに躊躇して決心がつかない。結局姫君の養育も考え、上京することになった。入道は、大井川のほとりに、母尼君の祖父中務の宮の別邸があって放置していたので、そこを改装して住めるように手配した。入道は明石に残り、尼君と明石の君と姫君の3人が上京して、大井川のほとりに住んだ。 源氏は、嵯峨野に御堂を造営中であり、また近くに桂の院といって、別荘もあった。源氏はそれらの造作を監督する口実で、大井を訪れたりした。紫の上に明石の君の上京を説明し、姫君を養女として、養育を頼むのであった。

19 薄雲

(源氏31~32才)
光る源氏の内大臣時代三十一歳冬十二月から三十二歳秋までの物語

源氏は、姫君の将来を思って、姫君を二条院に引き取り、紫の上に預けて養育することになった。幼子と明石の君の悲しい別れがあった。紫の上はたいそう可愛がって育てた。
源氏の舅の太政大臣(左大臣)が亡くなり、母后の藤壺入道も37才の厄年で亡くなる。朝顔の君の父の式部卿の宮も亡くなった。
帝は、藤壺の宮家に古くから仕える夜居よいの僧から、源氏が実の父であることを知る。しきりに続く天変は、父源氏への礼を尽くしていないことが原因と思い、帝位を源氏に譲ろうとするが、源氏は硬く固辞する。秋の司召で太政大臣への推挙も固辞する。
故六条御息所の娘の女御(元斎宮)が二条院に里下がりすると、源氏の好色がまた頭をもたげるのだった。

20 朝顔

(源氏32才)
光る源氏の内大臣時代三十二歳の晩秋九月から冬までの物語

父式部卿の宮が亡くなり、朝顔の君は斎院を退下し、式部卿の宮の旧邸桃園の宮に移った。そこに斎院の叔母にあたる五宮も住んでいて、そのお見舞いを口実に、源氏は桃園の宮を訪れ、邸がすでに荒れはじめているのを感じる。 女房の宣旨の案内で、朝顔の君と面談するが、源氏の求愛に対し、朝顔の君は容易に応ずる気配がない。そこで、尼になった源典侍に偶然会ったりする。こちらの邸に仕えていたのである。

21 乙女

(源氏33~35才)
光る源氏の太政大臣時代三十三歳の夏四月から三十五5歳冬十月までの物語

冷泉帝に立后の時期がきて、誰を后にするかの競合があった。三人の女御がいた。先に入内させた頭の中将の娘の弘徽殿、式部卿の娘の女御、そして源氏が押した故六条立御息所の娘の前斎宮である。その中で、源氏の推した前斎宮が立后して中宮になった。源氏の一族が隆盛を極めていく。源氏は太政大臣になり、頭の中将は内大臣になる。
一方、源氏は夕霧の世話を花散里に委託する。母親代わりである。・・・
夕霧は12歳で元服するが、源氏の意向で、六位という低い位に止めて、学問に専念させるべく、大学に入学させ、学問所を設けて、勉学に専念させた。翌年春、帝の御前の試みで、進士に合格し、侍従に任じられる。
夕霧と雲居の雁は、大宮に可愛がられ、大宮の邸で何時も一緒だった。幼いながら二人は恋心をもっていた。頭の中将は女房たちのうわさ話でそのことを知り、大宮の所に行って、苦情を申し立てて、雲居の雁を引き取った。
冬、源氏は五節の舞姫に惟光の娘を推挙する。夕霧は、舞姫の美しさにひかれる。舞姫の兄に頼んで文を届けてもらう。娘は喜ぶ。惟光がそれを知って、夕霧からの文を喜ぶ。内裏に出さず、夕霧にさし上げようと思う。
源氏は、故六条御息所の邸の一部を含め、六条に四町の大きな邸を造作し移転する。。そこに女たちをみんな集める。移った女たち。紫の上、花散里、明石の君、秋好中宮(前斎宮)。
年が明けて、源氏は太政大臣となり、六条院御息所の旧邸を修理して、六条院を造営する。六条院には四つの町があり、源氏と紫上は春、花散里は夏、秋好中宮は秋の景色を配した御殿に住み、少し後に、明石上が冬の景色の御殿に移り住んだ。

22 玉鬘

(源氏35才)
玉鬘の筑紫時代と光る源氏の太政大臣時代三十五歳の夏四月から冬十月までの物語

夕顔の遺児玉鬘は、乳母の夫が太宰の少弐になって任地に赴任するため、母夕顔の安否がわからぬまま、乳母と一緒に任地へ行った。任期の5年が終わるころ太宰の大弐が亡くなり、姫君の美しさは評判になり、なかでも、大夫の監といってこの地域に権勢のある者が、求愛してきた。弟たちを味方につけた大夫の監たゆうのげんは、結婚の日取りを決めて迫ったが、長男の豊後の介ぶんごのすけは父の遺言を守り、一家で京へ上る決断をした。妹も夫子どもを置いて上京した。豊後の介一行は、逃げるように早舟で上京した。
知り合いの所に落ち着いて、寄る辺なく、石清水八幡に詣で、初瀬の寺に詣でて願掛けをする。そこへたまたま初瀬詣でに来ていた夕顔のかっての侍女の右近に出会う。右近は今、源氏に引き取られ、紫の上に仕えていた。
右近から話を聞いた源氏は、六条の院に玉鬘を迎える。長男の豊後の介は家司となった。源氏は、夕霧同様、花散里に玉鬘のお世話をお頼みになる。

23 初音

(源氏36才)
光る源氏の太政大臣時代三十六歳の新春正月の物語

源氏 36才 太政大臣
年が改まり、朝の空の気配、晴れ渡ったうららかな空模様に、邸の玉砂利も美しく、若葉も芽生え始め、磨き上げた邸うちは、実に晴れやかに新年を迎えた。紫の上の春の御殿は次のように評される。年末に贈った衣裳が晴れの日にどのように栄えある様になっているか、見る楽しみもあった。六条院だけでなく、正月過ぎて二条院にもわたって、末摘花やの空蝉の処にも行った。

春の御殿の御前、とりわきて、梅の香も御簾のうちの匂ひに吹きまがひ、生ける仏の御国とおぼゆ。
正月の一日は源氏はそれぞれの邸にいる女たちに、挨拶に回るのだった。夏の町には花散里が住み、次のように描写される。
夏の御住まひを見たまへば、時ならぬけにや、いと静かに見えて、わざと好ましきこともなくて、あてやかに住みたるけはひ見えわたる。
美しい玉鬘の処にも寄って、冬の町明石の君の住まいに行き、この日はここに泊まり、夜明け前に紫の上の処に帰るのだった。
暮れ方になるほどに、明石の御方に渡りたまふ。近き渡殿の戸押し開くるより、御簾のうちの追風、なまめかしく吹き匂はして、ものよりことに気高く思さる。正身は見えず。いづらと見まはしたまふに、硯のあたりにぎははしく、草子どもなど取り散らしたるなど取りつつ見たまふ。
六条院の正月二日は、殿上人や親王たちの来客が多くにぎわう。男踏歌が内裏から朱雀院を経て、六条院へ廻ってきて、明け方まで賑わうのだった。源氏の絶頂期の正月の模様であった。

24 胡蝶

(源氏36才)
光る源氏の太政大臣時代三十六歳の春三月から四月の物語

今をときめく源氏の六条院では、池に舟を浮かべて楽を奏するなど、楽しみを極めていた。
一方、玉鬘を引き取った邸では、男たちから文が多数来るようになった。中でも熱心だったのは、玉鬘が父の子と知らない内大臣の子息の柏木、北の方と不仲な状態にある髭黒の右大臣、今は独身だが召人をたくさんかかえている兵部卿の宮の三人だった。
そのうち、親代わりどころか、源氏自身の好き心が出て、美しい玉鬘に恋心をだくようになるのだった。

25 蛍

(源氏36才)

源氏 36才 源氏の太政大臣時代三十六歳の五月雨期の物語 玉鬘は養父としてではなく、男として玉鬘に言い寄ろうとする源氏の態度に悩んでいた。玉鬘への熱心な求婚者の中でも、源氏は、それとなく異母弟にあたる兵部卿の宮を推薦して邸に招くのだった。宮の求愛のやり方を拝見しようとして、御簾の奥の玉鬘を蛍の明かりでの許で見させようとして、事前に蛍を集めて放つなど演出をする。 一方、女房たちにも気づかれぬように、源氏は玉鬘に何とかして近づこうとする。 内大臣は玉鬘の素性をまだ知らない。

26 常夏

(源氏36才)
光る源氏の太政大臣時代三十六歳の盛夏の物語

源氏 源氏は相変わらず玉鬘への恋慕が止まず、折々に玉鬘を訪れていた。
真夏の暑い日、源氏は釣り殿にでて、夕霧や右愛大臣の子らも皆来て涼んでいる。近頃噂になっている近江の君が話題になった。近江の君は、柏木が近江の田舎で、父内大臣の子だという娘を見つけて、邸に引きとったのだった。人々は、近江に君の破天荒な振舞に、あきれ、扱いかねていた。内大臣は、弘徽殿女御が里帰りの間、女御に預けて、しつけてもらおうと思った。

27 篝火

(源氏36才)
光る源氏の太政大臣時代三十六歳の初秋の物語

季節は秋。残暑の折源氏は釣り殿に涼んでいる。夕霧の処に頭中将の子息、柏木と弟の弁少将が来て、集っている。
三人と源氏が楽を奏で始める。玉鬘は御簾の奥で聞いている。
源氏の近寄りも危険なほどではないと、玉鬘は馴れてきて、一線を越えない程度で、相手をしている。

28 野分

(源氏36才)
光る源氏の太政大臣時代三十六歳の秋野分の物語

庭は秋色で鮮やかになり、中宮は色が変わってゆくのを惜しんでいた。春を愛でる人も、この秋には及ばないと心変わりするほどだった。強い野分がやって来た。風の強い日、夕霧が何気なく紫の上の対を通ると、妻戸が開いている隙からおくが見通せて、明らかにその人が見えた。普段から、近づかないように注意されていたので、はっきり見たことはなかったのである。夕霧にうつった紫の上は、つぎのように描写されている。

御屏風も、風のいたく吹きければ、押し畳み寄せたるに、見通しあらはなる廂の御座にゐたまへる人、ものに紛るべくもあらず、気高くきよらに、さとにほふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。 あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。

野分が激しく吹いた翌朝、夕霧は大宮のいる三条院へ見舞いに上がり、それから源氏のいる六条院へむかった。源氏は怖がりの中宮を見舞うように指示し、その様子を聞いてから、順に中宮、明石の君、玉鬘、花散里を、野分見舞いに尋ねる。

29 行幸

(源氏36~37才)
光る源氏の太政大臣時代三十六歳十二月から三十七歳二月までの物語

その年の師走、冷泉帝の大原野への行幸あった。源氏も乞われたが、玉鬘も大勢の見物人とともに見学した。源氏は物忌みのため参列を辞退した。
玉鬘に求愛している兵部卿の宮も髯黒の右大将も参列していた。父の内大臣もいた。玉鬘は宮中の上達部たちが一堂に会した行列を見て、帝にまさる美し人はいないと思った。
源氏が勧めている宮仕いは、帝の寵を受けことなく、一般職として側に仕えてお目通りできるなら、その方がよいとも思うのだった。
一方、玉鬘の裳着の儀が源氏によって計画されていた。この際、やはり内大臣に玉鬘が娘だと告げてが腰結いを内大臣のやってもらおうと源氏は計画したが、事情をよく知らない内大臣はいったんは断った。
一方、高齢な大宮は病がちになり、夕霧は頻繁に見舞って世話を焼いていたが、源氏も見舞いに上がったことを聞き、無沙汰をしていた内大臣は慌てて母を見舞うことになり、三条邸で面談することになり、玉鬘の裳着の儀の腰結い役を内大臣は引き受けるのを承知した。
裳着の儀でな、内外から多くの祝いの品が寄せられた。
近江の君は、玉鬘の厚遇を聞いて、嫉妬するのだった。内大臣邸では、近江の君は、笑い者、厄介者扱いされていた。

30 藤袴

(源氏37才)
光る源氏の太政大臣時代三十七歳秋八月から九月の物語

時間が経過し、玉鬘は内侍の職に推薦され、十月から出仕の予定になっている。大宮が亡くなって皆喪に服している。蛍兵部卿の宮と髭黒の大臣が玉鬘に熱心に求愛している。柏木は腹違いの妹になるとわかって、引いた。夕霧も心を寄せている。様々な人が玉鬘に文を寄せてくるのだった。典侍の出仕までの間のことが書かれる。

31 真木柱

(源氏37~38才)
光る源氏の太政大臣時代三十七歳冬十月から三十八歳十一月までの物語

玉鬘は、誰もが意外に思うが、無骨な髭黒の手中に帰した。意に染まぬ結婚に玉鬘は打ち沈み、髭黒は大喜びだった。
髭黒の北の方は、ますます乱心がちになり、玉鬘の処へ出かけようとする髭黒に後ろから灰を浴びせたりするのだった。
父の式部卿の宮は、娘を自邸に引きとることにする。髭黒と北の方の間には十二三歳位の姫君と十才と八才の男子があ り、姫君は北の方が連れて行くことになった。姫君は父が大好きで、邸を離れるとき、歌を詠み、真木柱の隙に挟み込んだ。

今はとて宿かれぬとも馴れ来つる  真木の柱はわれを忘るな
この巻の漢名はこの歌による。
年が明けて、玉鬘は宮中へ出仕する。帝は人妻になって出仕した玉鬘の美しさに打たれ、恨みごとを言うのだった。
玉鬘は一度出仕して、その後は自邸で尚侍の仕事をこなすのだった。
一方、源氏は玉鬘への好き心を抑えきれず、相変わらず文を出すのだった。

32 梅枝 

(源氏39才)
光る源氏の太政大臣時代三十九歳秋一月から二月までの物語

年が明けて、明石の姫君の裳着の儀式の準備に余念がない。二月には春宮の加冠の儀が予定されており、それに合わせて姫を入内させる計画である。裳着の当日、なぜか、明石の君は呼ばなかった。秋好む中宮に腰結いの役を頼んだ。
正月の暇な折、源氏の邸では、太宰の大弐の献上品も加え、薫香比べを企画した。二品以上の品を組み合わせるのである。兵部卿の宮が来たので、薫香比べの判者を頼んだ。その後は、内大臣の子息たちも来て、宴游が行われた。
入内の準備のひとつとして、草子が集まられた。また装丁をした冊子をよういして、知りうる名筆に製作を依頼した。その中で、源氏は、近世の名筆として、六条の御息所を挙げていて、手習いの時みて衝撃を受けたと語っている。当代の、名筆として朧月夜と朝顔の君と紫の上を挙げる。また自分も負けないものを書くと自負している。

33 藤裏葉

(源氏39才)
光る源氏の太政大臣時代三十九歳三月から十月までの物語

大宮のもとで育った、夕霧と雲居の雁は恋仲になったが、父内大臣は別に雲居の雁を入内させようと思っていたので、大宮の教育を叱って、雲居の雁を自邸の引き取ってしまい、二人は離れ離れになる。夕霧は文は折々に出していたが、長いあいだ辛抱して、自分から内大臣に懇願しなかったので、内大臣は、自分の処置を反省し、大宮の命日の法要にでて、夕霧に侘びを入れるのだった。後日、御前の藤が美しく咲いているからと、夕霧を自邸に招待した。それが二人の間を認めるしるしだった。その日、夕霧は、酔ったので宿を貸してほしいと頼み、雲居の雁と契るのだった。雲井の雁は女らしく美しくなっていた。
明石の姫君が入内し、明石の君が後見として、宮中にでる。
源氏は四十になり、世はこぞって四十の賀祝う雰囲気になる。源氏は太上天皇の位を賜る。内大臣は太政大臣に、夕霧は中納言になった。
夕霧と雲居の雁は、住まいを大宮が住んでいた三条殿とした。昔から仕えていた女房達も残っていて、喜ぶのだった。
冷泉帝は朱雀帝を誘って、源氏の六条院へお越しになった。源氏の繁栄は今を盛りだった。

夕霧は長い間の恋が実って、雲居雁と結婚することになった。同じ月、・・・

34 若菜 上

(源氏 39才~41才)
光る源氏の准太上天皇時代三十九歳暮から四十一歳三月までの物語

源氏は准太上天皇になり、その周辺の日常が淡々と語られる。

朱雀院は病気がよくならず、出家を希望している。しかし皇女たちを見捨てて出家するわけにもゆかず、特に可愛がっている女三の宮の後見を探していた。しかるべき人を婿にと心を砕く。夕霧も候補にあがったが、結婚したばかりで除外され、源氏に白羽の矢が当たる。源氏は当初辞退したが、朱雀院を見舞い、懇切に頼まれて、藤壺中宮や紫の上の血筋にもつながることもあり、結局女三宮の後見を承諾する。
年が明けて、玉鬘は源氏の四十の賀を祝い、若菜を献じた。冠名はこの時の歌の言葉による。この年は、源氏の四十の賀の祝いが次々と続き、紫の上が嵯峨野の御堂によせて祝い、秋好む中宮が奈良・京の寺々に祈祷を頼んで祝い、冷泉帝が、夕霧に主催させて四十の賀を祝い、それぞれそのあとの宴や管弦の遊びが続いた。
二月十日過ぎ女三の宮は六条院に輿入こしいれする。紫の上は悲しみを抑え夫の婚儀の支度を務める。女三の宮はただ若いだけの姫君で源氏はいたく失望する。源氏の相手をするには幼すぎるのだった。
明石の女御は待望の男子を出産、明石の入道は、長文の文を送り、その中で自分が昔夢見た宿願が実現したことを語り、それ故に、山深く入ると伝える。文ちゅう入道は、明石女御が生まれた年に見た夢を次のように語る。

自分は須弥山を右手に捧げています。山の左右から、日月の光が明るく世を照らしています。自分は山の下の蔭に隠れて、その光が当たっていません。山を広い海に浮かべて、自分は小さい舟に乗って、西の方を指して漕いでゆく
朱雀院の出家を後追いしようとした朧月夜は、院に思いとどめられる。源氏は朧月夜を訪問して、昔のよりを戻すのだった。
一方、柏木は、当初から女三の宮を望んでいたが、六条院に招かれ蹴鞠の遊びをやっていた時、猫が逃げたはずみに御簾をひっかけて、奥の女三の宮の姿をかいま見てしまう。それから悶々として、この恋にが叶えられないかと心を乱していた。

35 若菜 下

(源氏 41才~47才)
光る源氏の准太上天皇時代四十一歳三月から四十七歳十二月までの物語

源氏は准太上天皇になり、その周辺の日常が淡々と語られる。六条院で、競射を催したり、女神楽を催したりするのだった。
柏木は猫好きな春宮の処に行き、女三の宮の猫と血統の同じ猫をもらい受けて、女三の宮を偲ぶのだった。
冷泉帝が退位した。
源氏は願果たしで住吉神社へお礼参りに行くが、何ごとも控え目に準備したつもりが、自ずから、その盛大な権勢を見せることになった。
六条院では、女神楽を計画し、その練習に明け暮れるのだった。女三の宮へ源氏は、琴の演奏を直接伝授するのだった。
柏木は、三の宮を諦められず、姉の二の宮と結婚するが、本命ではなく、適当なあしらいであった。
朱雀院の五十の賀が、それぞれで執り行われた。 
三の宮お付きの女房は、小侍従といって、柏木の乳母の姉妹で三の宮の乳母の娘であった。柏木は小侍従を説得して手引することを承諾させた。
一方、紫の上が病になり、一度は息絶えるが、源氏が生霊のなせることだと喝破し、祈祷を続けさせると、紫の上は生き返った。六条御息所の生霊だった。
柏木は、小侍従の導きで女三の宮の寝屋に入り、強引に、長年の思いを遂げるのだった。
女三の宮は妊娠した。柏木は体の具合が悪くなり、邸にこもりがちになった。
源氏は、紫の上が死んでしまう懸念の中、女三の宮を訪問した時、柏木が不用意にも遣った文を、敷物の隙から見つけ密通を疑うのだった。

36 柏木

(源氏48才)
源氏 48才 准太上天皇  光る源氏の准太上天皇時代四十八歳春一月から夏四月までの物語

柏木の病は回復の兆しはなく、病に伏しながらも、三の宮に文を出す。源氏が対にきたとき、あわててその文を敷物の下に隠したが、源氏はたまたまそれを見つけて、柏木が三の宮に密通したことを疑う。
女三の宮は妊娠する。
朱雀院は三の宮のことを心配し、ある夜、密かに、宮を訪問する。三の宮は、院に出家を願いでる。源氏は反対するが、院は許可し、僧を呼び、その場で剃髪し出家させる。急きょそうさせたのは、宮にとりついた六条御息所の死霊のしわざであった。
三の宮は男の子(薫)を産む。
柏木は見舞いに来た親友の夕霧にそれとなく事情をほのめかし、落葉の宮に対する配慮を頼み、遺言めいたことを残して、亡くなる。
夕霧は柏木の遺託を口実に、しばしば弔問に一条の宮を訪れる。母御息所と落葉の宮が住んでいる。落葉の宮の地味な存在に惹かれるようになる。

37 横笛

(源氏49才)
光る源氏の准太上天皇時代四十九歳春から秋までの物語

柏木の一周忌になった。源氏は内心密かに薫のぶんとして、黄金百両を別に包んで奉納したので、柏木の父の到仕の太政大臣は訳も知らずその厚志に喜ぶのだった。
朱雀院は、山寺の周辺の筍や山菜を三の宮に贈るのだった。
夕霧は、柏木の遺志をふまえ、一条院に御息所と落葉の君を訪問する。落葉の君と想夫恋を合奏する。御息所は柏木の遺愛の笛を夕霧に贈る。
邸に戻って、女房達が夕霧が落葉の君にご執心の由の話をし、北の方の雲居の雁は機嫌が悪くなる。夕霧は夢に柏木が現れ笛を手に取っているのを見る。
六条院の源氏を訪問し、一条院へ行ったことを源氏に報告する。笛の由来を知っていた源氏は笛を自分が預かる。夕霧が、柏木に何があったのか、それとなく源氏にほのめかすが、源氏は明かさないのだった。

38 鈴虫

(源氏50才)
光る源氏の准太上天皇時代五十歳夏から秋までの物語

女三の宮の持仏開眼供養が行われる。源氏が建設中の念誦堂の調度類もついでに一緒に供養する。
出家した三の宮が三条の院へ移りたがっているので、源氏は必ずしも賛成でなかったが、三条院の整備をする。
秋になり、虫の音を楽しむべく、秋の虫を集めて庭に放つ。それを、三条院で愉しみ、六条院でも楽しむのだった。
十五夜では、集まって合奏して楽しむのだった。
秋好む中宮は、冷泉帝が退位して、気楽な立場であったが、母六条御息所の生霊の噂を聞き、母の霊が苦しんでいるのを知り、出家を希望するが、源氏にたしなめられる。

39 夕霧

(源氏50才)
光る源氏の准太上天皇時代五十歳秋から冬までの物語

夕霧は、柏木の親友として、後の面倒を見ようとしている。朱雀院の子の女二の宮と、御息所が残された。御息所は病がちで、修行僧が山を下りやすく、祈祷に便利なように、二の宮ととに小野の山荘に移った。夕霧は二の宮の後見人のように思って、二人を訪問するのだった。また御息所に承認をもらおうとも思っていた。病の中で、御息所は夕霧に後見を託そうと心迷う時があり、一度その種の返事をした。
御息所は、あっけなく亡くなった。
落葉の宮は喪中で無理を通そうとして迫る夕霧を嫌がって、塗籠に籠ってしまうのだった。
日を改めて、夕霧は訪問し、女房の出入り口から塗籠に入り、思いを遂げ、契りをはたすのだった。
雲居の雁は、嫉妬に駆られ、実家に帰ってしまった。

40 御法

(源氏51才)
光る源氏の准太上天皇時代五十一歳三月から八月までの物語

紫の上の病状は芳しくなく、よくならない。紫の上は再三出家を願うが源氏は許可しない。
紫の上は、書き溜めた法華経を千部供養すべく、二条院で行うことになった。紫の上は事細かに準備するのだった。
紫の上が伏せる二条院に、明石の中宮や花散る里が来て、それぞれ別れをして、紫の上は明石中宮に看取られて死んだ。
夕霧は昔かいま見てその美しさに驚いた紫の上の死顔をゆっくり見てその美しさに打たれるのだった。

41 幻

(源氏52才)
光る源氏の准太上天皇時代五十二歳春から十二月までの物語

紫の上亡き後、源氏は籠って拝賀の人々にも合おうとせず、悲しみの日々を過ごしている。わずかに蛍の宮に対面したほかは、女房たちと故人の思い出にふけるのだった。何ごとにつけ、源氏は悲しみに沈み、法事を行い、自身の出家の心の準備をするのであった。

大空をかよふまぼろし夢にだに
見えこぬたま行方ゆくへたづねよ
この巻の巻名となった源氏の歌である。玄宗皇帝が、神仙の術を使う方士に、楊貴妃の魂魄を求めさせたことを踏まえた歌。「幻」は自在に天空を巡る方士(妖術士)のこと。

12月末、仏名会 ぶつみょうえに、源氏は人々の前に姿を現し、導師をもねぎらった。つごもりの日、年の終わりとともに、わが一生も終わったことを源氏は悟るのであった。そして、読者も、来年は源氏は出家するであろうと思い、この巻は終わるとともに、光源氏の物語が終わる。この後、「雲隠」の巻名だけがあり、文章のない巻があり、源氏が死んだことが暗示される。
幻の巻は、翌年の出家を控えた源氏の一年間の動静を描く。この年、薫は5歳である。次の巻匂兵部卿に、薫が14歳で元服したことが見えるのでこの間8年間の空白がおかれている。

42 匂宮

(薫14~20才)
薫君の中将時代十四歳から二十歳までの物語

光る源氏が亡くなり、紫の上も亡くなり、昔の頭中将の致仕の大臣も亡くなった。今まで舞台を占めていた人々がなくなり、ここから源氏の孫の時代になる。
世間では、源氏亡きあと、世に優れた将来ある若者として、今上帝の中宮の明石腹の三の宮である匂宮と、女三の宮の子の薫が双璧だった。二人は同じ邸で育ち幼少時から仲がよかった。薫はいつの頃からか、自分の出自に疑問を感じ、誰も教えてくれる人はなく、どことなく内省的な性格だった。薫は、自分の体からいい香りが香っていて、どこにいてもわかるのだった。匂宮はそれにまけじといろいろな香を調合して対抗した。

43 紅梅

(薫24才)
匂宮と紅梅大納言家の物語

致仕の太政大臣家では、父と柏木亡きあと、次男の按察使大納言が跡を継いだ。北の方は二人いて亡くなった北の方との間に、娘が二人いた。大君と中君と呼ばれていた。大君は東宮の妃として宮中に上がり麗敬殿に住んでいた。大納言は中君を匂宮にと心ざしている。
一方、北の方亡きあと、大納言は、蛍兵部卿の宮の未亡人真木柱に通い、今は、晴れて大納言の北の方になった。大納言と真木柱の間には童殿上している子が一人いて、若君と呼ばれている。
真木柱には、故蛍兵部卿との間に、琵琶の巧みな宮の御方という連れ子があった。異母姉妹は分け隔てなく習いものも一緒にして育てられた。宮の方は控えめな性格で、結婚など考えていなかった。
大納言は庭に美しく咲く紅梅を摘み、匂宮に歌をおくり、宮の気をひこうとするが、宮は気乗りがしない。巻名はこの場面による。

44 竹河

(薫14~23才)
薫君の中将時代十五歳から十九歳までの物語

この巻の冒頭に次のように記されている。

これは、源氏の御族にも離れたまへりし、 後の大殿わたりにありける悪御達わるごたちの、落ちとまり残れるが、問はず語りしおきたるは、紫のゆかりにも似ざめれど、かの女どもの言ひけるは、「源氏の御末々に、ひがことどもの混じりて聞こゆるは、我よりも年の数積もり、ほけたりける人のひがことにや」などあやしがりける。いづれかはまことならむ。
(これは、源氏一族から離れて、後の太政大臣の髭黒に仕えていたおしゃべりな女房のなかで、生き残った者たちが、問わず語りしたもので、紫の上の話に似ていないが、彼女たちが言うには、「源氏の一族については、間違ったことが混じっているのは、年寄りの女房がぼけて喋ったものです」などと言っている。どちらが本当なのか。)

これからは、前とは別の物語だと語っているのである。源氏も紫の上も亡くなったので、自ずから異なった物語だと言っているのである。
髭黒が亡くなって、玉鬘は一人で子供たちを育て、邸を仕切っていた。髭黒と玉鬘の間には、子息3人、姫君2人がいた。前の北の方との間には、藤中将と真木柱がいた。真木柱は右大臣家の頭領になった紅梅の北の方である。姫君2人は大君、中の君と言われ、二人とも美しかった。故髭黒は大君の入内を志していた。薫も大君を好ましく思い、夕霧の子息の蔵人少将も大君に恋いこがれていた。母の雲居の雁を通じて、玉鬘に文をさし上げて頼むのだった。一方冷泉院は若い頃の玉鬘を望んで入内が果たせなかった恨みが残り、玉鬘もそれを気にしていて、院は大君を望んでいた。
結局、大君は冷泉院に、中の君は玉鬘から尚侍の職を譲られて今上帝に入内するのだが、大君の方は、姫君、皇子と子をもうけたが、院には一の宮の母の弘徽殿の女御がおり、秋好む中宮がいて、先に入内した女御たちとの関係がうまくゆかず、玉鬘はなやむのであった。

45 橋姫

(薫20~22才)
薫君の宰相中将時代二十二歳秋から十月までの物語

薫は、いつも呼ばれる冷泉院の御前で、ある阿闍梨から、仏典に詳しく聖のような生活をしている宇治の八宮のことを聞き、ぜひお会いして教えを請いたいと思った。
八宮は、一時、弘徽殿の女御の画策により、帝の後継に祭り上げられそうな事件に巻き込まれたが、とりわけて後見もなく、その後は俗世が嫌になって、宇治でひっそり暮らしていた。
薫は、宇治へ通って、三年がたった。ある日、宇治を訪問すると、八宮は寺にこもって修行中であった。薫は、二人に娘、大君と中の君が合奏しているのを聞き、挨拶に伺った。
姫君や女房たちが戸惑っているところへ、弁という老いた女房が現れ、亡くなった柏木のことで、お告げしたいことがあり、改めてゆっくりお会いしたいという。
八宮はそれとなく、自分の死後の娘二人の後見をそれとなく薫に頼み、薫は承諾した。
一方、薫は匂い宮に宇治の姫君たちのことを話し、宮は興味をそそられるのだった。

46 椎本

(薫23~24才) ,
薫君の宰相中将時代二十三歳春二月から二十四歳夏までの物語

匂宮は、初瀬詣でに出かける。ずっと以前の願果たしのためだったが、ほんとうの目的は宇治の姫君たちだった。
匂宮は帝后に寵愛を受けていたので、殿上人がこぞってお供した。源氏から夕霧だ伝領した邸が、宇治の山荘の川向にあり、匂宮一行はそこに泊まって、管弦の遊びをした。八宮は昔懐かしく聞こえて来る楽の音を聞いた。
匂宮は川向こうに文を出した。八宮は中の君に返事を出すよういう。以後、匂宮と中の君の文のやり取りがなされる。
薫は八宮の山荘に出向いて、お迎えした。弁尼をよびだして、大君と歌の交換をする。
そうこうするうち、八宮は山寺で修行中、死んでしまう。
薫は八宮から、姫たちの後見を託され、約束を守ると誓った。
薫は後見を託さた立場ながら、何度か宇治へ行っていると、だんだん大君に惹かれ始めている。匂い宮は文の返事が誰が書いたのかわからないのであるが、いつも中の君が相手をしているので、何とか近づきたいと薫に仲介をせっつくのだった。

47 総角

(薫24才)
薫君の中納言時代二十四歳秋から歳末までの物語

八宮の一周忌に薫は宇治を訪問して、大君に恋慕の情を切々と訴えるが、大君は薫の後見としてのこれまでの気配りに感謝しているが、薫の慕情に応じない。大君自身は結婚する気はなく、中の君を薫にと考えていた。
ある夜、薫は大君の寝所に迫るが、大君は中の君と寝所を入れ替えて、自分は隠れて、中の君と薫が実事なく一夜を明かすこともあった。
秋の暮れ時雨れるころ、宮が気軽に宇治に出掛けることもできず、物思いに沈んでいた頃、薫がさそって、二人でひとつ車で出かけた。道々、宮は中の君への恋慕の情を薫に語るのだった。
匂い宮は夜の闇に紛れて入ると、弁は薫と思い込んで、匂い宮を中の君の処へ入れた。二人は契ることになった。一方薫は大君に恋心を訴えるが、大君は応じない。二人は実事なく朝を迎える。
第二夜第三夜と匂い宮は通い、第三夜には薫は祝いの品を用意するのだった。
そうこうするうち、大君は心労が重なり、病を得て、間もなく亡くなった。
薫は深く悲しんだ。
一方匂い宮は、夕霧の娘の六の君との縁談を勧められていた。宮は気乗りがせず、中の君を京の二条院へ迎えることを考えていた。中宮が、宇治に女がいることを知り、一の宮の付の女房に迎えたらと勧めた。

48 早蕨

(薫25才)
薫君の中納言時代二十五歳春の物語

山寺の阿闍梨から、いつもの様に、若菜の早蕨や土筆などが中の君に届く。父宮も姉の大君も亡く、宇治の邸はさびしいかぎりであった。阿闍梨との歌の贈答があり巻名となっている。
匂い宮は、后にも帝にも外出が過ぎると忠告されて、気軽に宇治へ出かけられず、中の君を京へ呼ぼうと考えた。薫も賛成し、宇治の山荘は、髭の宿直人と弁尼が残り、中の君は二条院へ移ることになった。二条院は、薫が三条院に住んでいるので、隣町である。
一方、夕霧は六の君に匂い宮を迎えるべく裳着の準備をするのだった。宇治から、思いもかけぬ女を呼び寄せる宮を、夕霧は不快に思うのだった。
移転も落ち着いたころ、薫は二条院の桜を見がてらに中の君を訪問するが、匂い宮は二人の仲を疑うのだった。

49 宿木

(薫24~26才)
薫君の中、大納言時代二十四歳夏から二十六歳夏四月頃までの物語

匂宮は、中君を京の二条の邸に移した。近くなったので、薫は時々は訪問し、昔話にふけるが、大君が中君を薫へと思っていたのに、何故自分のものにしなかったか、後悔するのだった。
薫は大君が恋しく、宇治に、大君の人形ひとがたを作る考えを中の君に漏らす。中の君は、ふと思い出して、大君にとてもよく似た姫がいることを薫に告げる。
夕霧は六君に匂宮を迎えるべく、強引にことをすすめるのだった。匂宮は、中君が気の毒で、口に出して言えないうちにその日がきた。
六君は、思ったより、かわいらしく穏やかで、匂宮は気に入るのだった。匂い宮は、六条の院に北の方の六の君の処に通わなければ、また中の君の処にも通わなければならない。
中君に男の子が生まれた。
薫は、宇治へ行き、弁尼と昔話をし、宇治の山荘を山寺に移築する考えを伝える。
移築の様子を見ようと、薫は宇治へ寄ったとき、初瀬詣でに立ち寄った姫君の一行に遭遇した。姫君を垣間見た薫は、大君に似たその気配に強く引き付けられた。浮舟であった。

50 東屋

(薫26才)
薫君の大納言時代二十六歳秋八月から九月までの物語

薫は、亡き大君に似るという浮舟を人形ひとがたとして自分のものにしたいと思うが、世間体を憚ってなかなか実行に移せない。浮舟の母も、弁の尼から薫の意向を伝えられ、うれしく思うものの、あまりの身分違いにためらっている。
国元では、たくさんの求婚者のなかで、左近少将という者が熱心で、浮舟の母もこの男がいいと結婚の準備をするが、左近少将が、浮舟が常陸介の直系の子ではないと知ると、すぐさま気持ちを替えて、常陸の介の厚い後見を望み、実子の娘との婚姻を望み、まだ幼い浮舟の異母妹にあたる娘との縁組を、常陸の介はよろこんで承諾した。
母の中将の君は、あきれてしばらく身を隠そうと思い、浮舟を中の君に預けることを思い立って、二条院にお願いに上がるのだった。中の君は大君に似た面影を持つ浮舟と懐かしそうに相手をした。
帰ってきた匂宮は、浮気な性分を発揮し、浮舟をたまたま新しい女房と思い、さっそく近づいて契ろうとするのだった。それに気がついた乳母が見とがめて、実事なく終わったが、このことが母の中将の君に報告され、母は仰天して、すぐ娘を引き取って、方違いの為に用意していた、小さな東屋に娘を移した。
薫は、弁の尼を使って、どうにかして浮舟に近づこうとしていた。ある時、弁の尼を宇治から、京の東屋にいる浮舟を訪問させ、その時を待って、薫が東屋を訪ね、いきなり浮舟を車に乗せて、宇治へ連れて行ってしまった。

51 浮舟

(薫27才)
薫君の大納言時代二十六歳十二月から二十七歳の春雨の降り続く三月頃までの物語

薫は、浮舟を宇治の邸に一時的に隠したのだが、いずれ京へ迎えようと思っていた。匂宮は垣間見た浮舟を忘れることができず、宇治から邸に来た女房間の文で察知して、宇治に女がいることを突き止めて、お忍びで宇治へ行った。 薫を装って近づき、契りを結んだ。匂宮はすっかり浮舟に夢中になり、浮舟も匂宮に惹かれて、京へはなかなか帰りたがらないのだった。その後も、忘れられない匂宮はこっそり宇治へ行き、右近には姿を見せるが他の女房たちには分からないように、逢引を重ね、向こう岸の仮屋にまで行って、二人で逢瀬を過ごした。 宮も浮舟を京へ連れて来るべき住まいの準備をした。薫は、浮舟を京につれてくる段取りをしていたが、匂宮の行いをそれとなく気づいて、宮が入れないように、宇治の警備を厳重にするよう、申し付けた。一時は浮舟を宮に譲ろうかとまで思ったが、浮気な匂宮が手を付けた女を、姉の一宮の侍女にしているのを思い、浮舟をそんな扱いにさせたくないと思うのだった。 匂宮と薫と、二人の男に愛された浮舟は、どちらか一方に思いを寄せることができず、身の置き所がなくなり、死を決意するのだった。
浮舟辞世の句

— 母に —
のちにまたあひ見むことを思はなむ
この世の夢に心まどはで
— 寺からきた読経の巻数の文に書きつけ、ものの枝にいつけて—
鐘のおとの絶ゆるひびきにをそえて
わが世尽きぬと君に伝へよ

52 蜻蛉

(薫27才)
薫君の大納言時代二十七歳三月末頃から秋頃までの物語

浮舟失踪の翌朝、宇治の人々は何がどうなったか分からず、右往左往するばかりだった。右近は昨夜の母君への手紙を開けてみて、入水の覚悟を知った。母からも宮からも使いが来たが、事情を伝えることもできない。
やがて母君もやって来て、入水の噂が世間に広まるのを恐れ、山寺の僧たちを呼び、亡骸のないまま荼毘に付し、葬送をすませてしまった。
薫は母の病気祈願で、石山寺に籠っていたが、御庄の人からの使いから聞いて、「このような一大事では自ら行くべきだが、今は参篭中で、身を慎んでいるので、葬儀などは日を延べてもよかったが、死んでしまってものはどうしようもない。御庄の田舎者に、人の一生の最後の作法を軽んじた、と批判されるのもつらい」と思い、四十九日の法事を手厚く催すのだった。
薫は、明石の中宮の法華八講にでて、中宮方の女房の小宰相に会うため訪れたとき、女一の宮をかいま見て、その美しさにひかれる。
一方、故式部卿の娘が、元皇族の身で、中宮の女房になった宮の君の運命を、薫はあわれむのだった。

53 手習

(薫27~28才)
薫君の大納言時代二十七歳三月末頃から二十八歳の夏までの物語

そのころ、横川の僧都という高徳の僧が比叡山に籠っていた。母尼が、初瀬詣でに行った帰り急病になり、妹尼からの連絡で急きょ下山し、近くの院に宿をとらせたが、そこの裏庭の大木の根元に意識を失った若い女が倒れているのを見つけて、部屋につれてきた。妹尼は、亡くなった娘の身代わりと喜び、大切に世話をするのだった。
母尼と妹尼は住まいにしている小野の山荘に、そのままその若い女も一緒に連れ帰った。浮舟は、決して身元を明かそうとしなかった。出家したい、死んでしまいたいと思うばかりだった。
妹尼の亡き娘の婿であった中将なる者が、浮舟を垣間見て、興味を示すのだった。
一の宮の具合が悪くなり、天台座主が祈祷したがよくならず、横川の僧都が呼びが出された。内裏に向かう途中、僧都は小野の山荘に寄った。その時を捉えて、浮舟は尼にしてくれるよう切に頼んだ。今夜内裏に行くので、戻ってからと僧都が言うのだが、妹尼君が初瀬詣でから帰ると反対されると思い、今すぐ、戒を授けてくれるよう頼み、髪をおろして、尼になった。
戻ってきた妹尼は、僧都を恨んだが、後の祭りだった。
一の宮の病は僧都の祈祷で良くなり、話好きな僧都は、不思議な若い女の話を、中宮にした。女房の小宰相も一緒に聞いていた。後にその話を聞いた薫は、真偽を確かめようと、横川の僧都を訪ねるのだった。

54 夢浮橋

(薫28才)
薫君の大納言時代二十八歳の夏の物語

薫は、叡山の根本中堂に経仏を供養して、その足で横川に寄り、僧都にあって、直に浮舟の発見された様子や出家に至った経緯を、直接僧都の口から聞くのだった。僧都は薫の気配を察して、出家させたことを後悔するのだった。薫は僧都に小野の山荘に案内してくれるよう頼んだが、僧都は 僧都はそれをやんわり断り、代わりに、浮舟に文を送って薫が来たことを知らせ、その中で還俗げんぞくを勧めるのだった。
薫は弟の小君を使いに出して、文を持たせたが、浮舟は小君に逢おうともしなかった。
小君は会うこともできず、空しく帰るのだった。
源氏物語はここで終わる。しりきれとんぼの感がする。


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公開日2020年11月26日