源氏物語  柏木・注釈

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36 柏木

しひてかけ離れなむ命、かひなく、罪重かるべきことを思ふ、心は心として/ 無理にも、この世を離れ去ってしまおうとするこの自分の命は捨てたところで何の甲斐もなく、親に先立つ不孝の罪が重いであろうことを思う気持ちは、それはそれとして。
思ふ心異にて、何ごとをも、人に今一際まさらむと< 人とは違った高い望みがあって。人より一段と立ち勝ろうと。
一つ二つの節ごとに、身を思ひ落としてしこなた ひとつ二つのつまずきのたびに、やはり自分は駄目な男だと思うようになってこのかた。
なべての世の中すさまじう思ひなりて、後の世の行なひに本意深く進みにしを 全体にこの世間というものがおもしろくなく思われるようになって、後世安楽のための仏道修行に気持ちが深く傾いたのだが。
なほ、世に立ちまふべくもおぼえぬもの思ひの とうとうやはりこの世で立派にやっていけそうもないような心の悩み。
我より他に誰かはつらき、心づからもてそこなひつるにこそあめれ 自分より他に誰を咎めよう、自分の不届きな料簡から何もかも駄目にしてしまったであろうと思うと。
人にも、すこしうちしのばれぬべきほどにて、なげのあはれをもかけたまふ人あらむをこそは、一つ思ひに燃えぬるしるしにはせめ こうして(女三の宮)にも多少は思い出してもらえるようなことで。自分が今死んだら、恋ゆえにということで宮にも思い出してもらえるだろう。ほかならぬ恋の思いに身をこがしたあかしとせめてしよう。
なめしと、心置いたまふらむあたりにも、さりとも思し許いてむかし (源氏が)不届き者と不快にお思いであろうとも、いくらなんでも大目にめてくれるだろう。「なめし」無礼だ。無作法だ。
などかく、ほどもなくしなしつる身ならむ どうしてこう明日をも知れぬことになってしまった身の上かと、
今はとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ もうこれが最後と燃える私の荼毘の煙もくすぶって空に立ち昇らず、いつまでも諦めきれぬあなたへの思いがこの世に残るでしょう。(新潮)/ もうこれが最期と燃えるわたしの荼毘の煙もくすぶって空に上らずあなたへの諦め切れない思いがなおもこの世に残ることでしょう(渋谷)
心のどめて、人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもしはべらむ (そのお言葉に)気持ちを安んじて、誰のせいでもない煩悩の闇にさ迷うわたしの行く手を照らす光ともいたしましょう。「のどむ」のどかにする。気持ちを落ち着かせる。
いと心憂きことと思ひ懲りにしかば、いみじうなむつつましき (あの人とのことは)ほんとに情けないことと、もう懲り懲りしましたので、とても進んでその気になれません。
御心本性の、強くづしやかなるにはあらねど、恥づかしげなる人の御けしきの、折々にまほならぬが、いと恐ろしうわびしきなるべし ご性格が、しっかりしていて重々しいといったお方ではないのだが、宮にとっては気の置けるあの源氏のご機嫌が、折々によろしくないのがつらく思われるのだろう。「ずしやか」慎み深く、重々しい。
けにくく心づきなき山伏どもなども 不愛想で恐ろし気な山伏たち
まぶしつべたましくて まなざしも冷酷な光を放って
厭はしき身をひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ 愛想の尽きたこの身も打って変わって、大切なものと思われるだろう。
世にながらへむことも、いとまばゆくおぼゆるは、げに異なる御光なるべし 生きながらえるのも大それた分不相応のことと思われるのは、格別のご威光なのであろう。
深き過ちもなきに、見合はせたてまつりし夕べのほどより、やがてかき乱り、惑ひそめにし魂の、身にも返らずなりにしを、かの院のうちにあくがれありかば、結びとどめたまへよ ひどい間違いを犯したというわけでもないのに。(相手は皇后ではない)そのままおかしくなってうろうろするようになった魂が、もとの身体に帰らなくなってしまったのだが、煩悶あるいは病気では魂が体から遊離すると考えられていた。六条の院の中をあてどなくさ迷ったら、魂の結びをして戻してください。
殻のやうなるさまして 脱け殻。魂の脱穀。
今さらに、この御ことよ、かけても聞こえじ もう今となっては、この宮のこともすべて終わり。一切何も申し上げますまい。
心苦しき御ことを、平らかにとだにいかで聞き置いたてまつらむ 気にかかるお産のことを、無事にすまされたとお聞きしてからあの世に行きたいと思う。
見し夢を心一つに思ひ合はせて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるかな わたしの見た夢を、自分の胸の内ひとつだけでそうだったのかと思うだけで、ほかに打ち明ける人がいないのが、何とも心残りであった。女三の宮が自分の胤を宿していることを、誰にも知らせることができない。
 
立ち添ひて消えやしなまし憂きことを思ひ乱るる煙比べに 私も一緒に、煙となって空に立ち昇って消えてしまいたい思いです。情けない身の上を嘆く悩みの競いに。「後るべうやは」おくれを取りません。/
 
行方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ 行方も知らぬ大空の煙となってしまいましょうとも、いとしいお方の側を離れることはありますまい(新潮)/ わたしも一緒に煙となって消えてしまいたいほどです辛いことを思い嘆く悩みの競いに(渋谷)
 
かひなきあはれをだにも、絶えずかけさせたまへ<死んでしまっては詮ないことですが、かわいそうな者よとだけでもいつまでもお心におかけください。
 
人あやしと思ひ合はせむを、わが世の後さへ思ふこそ口惜しけれ (私が死んだら)こと改めて世間の人は不審なことと思い当りもしようが。女三の宮への恋ゆえに死んだのだと、疑惑を招くかもしれないが。
思ひまずる方なくて見たてまつらましかば、めづらしくうれしからまし 余計なことを思うこともなくて宮のお産のお世話をするのであったら、めったにないことに心も弾む思いであろうに。/
 
かく忍びたることの、あやにくに、いちじるき顔つきにてさし出でたまへらむこそ苦しかるべけれ このように秘密の事情がある子が、あいにくなことに、実の父の面影がはっきりそれと人目につくであろう男の子としてお生まれになったことは、困ったことであろう。
 
心苦しき疑ひ混じりたるにては、心やすき方にものしたまふもいとよしかし しかしまた胸の痛む疑いがある子は、世話のやけない男子もいいかも知れない。
 
わが世とともに恐ろしと思ひしことの報いなめり 自分が今までずっと恐ろしく思っていた罪業(藤壺との密通)の応報なのだろう。
人はた知らぬことなれば、かく心ことなる御腹にて、末に出でおはしたる御おぼえいみじかりなむと、思ひいとなみ仕うまつる 周囲の人に事情は分からぬことなので、こうした格別のご正室のご所生で、晩年にお生まれになった若君のご寵愛は大したものであろうと、気を入れてご奉仕申し上げる。
さばかりひはづなる御さまにて いかにもきゃしゃな身体で
さのみこそは、思し隔つることもまさらめ(宮が思うに)これからは、もうずっとこんなふうに、よそよそしいお仕打ちもひどくなるばかりだろう。
さてながらへぬわざならばこそあらめ それで命がもたないというのであれば話は別ですが、
まことにさも思し寄りてのたまはば、さやうにて見たてまつらむは、あはれなりなむかし 本当にご本心から出家を望んで仰るのなら、出家をさせてお世話申すのは、しみじみと心深いことであろう。
かつ見つつも、ことに触れて心置かれたまはむが心苦しう、我ながらも、え思ひ直すまじう、憂きことうち混じりぬべきを、おのづからおろかに人の見咎むることもあらむが、いといとほしう (このままでは)一方でお世話しながらも、(宮が)事あるごとに、疎ましく思われるのがお気の毒だし、(かといって)自分としてもどうしても宮への不快の念は改められそうになく、嫌な仕打ちも折々はまじるだろうから、自然宮へのお扱いが疎略だと人目に立つこともあるだろうから。
いとあたらしう、あはれに、かばかり遠き御髪の生ひ先を、しかやつさむことも心苦しければ いかにも残念だし、おいたわしく、こんなにお若くて行く末長い宮のお髪を、尼姿に削ぎ捨てるのも痛々しいので。「あたらし」[可惜し]惜しい、惜しむべきである。もったいない。「やつす」見すぼらしくする。
けしうはおはせじけしう-は-あら-・ず 【異しうはあらず・怪しうはあらず】 そう悪くはない。さほど不自然ではない。まあまあだ。
さばかり弱りたまへる人の、ものを聞こし召さで あれほど身体の弱っておられた方が、何も召し上がらないので。
もし後れ先立つ道の道理のままならで別れなば、やがてこの恨みもやかたみに残らむと もし親子の順が逆になって(宮に)先立たれでもしたら、そのまま、会うこともなく死別した怨念がお互い後まで残ろうかと。
患ひたまふ御さま、ことなる御悩みにもはべらず。ただ月ごろ弱りたまへる御ありさまに、はかばかしう物なども参らぬ積もりにや、かくものしたまふにこそ 宮のご病状は、格別どうという具合ではございません。ここ幾月も弱った身体でお食事なども召し上がらないことが続いた、こんなにお弱りになったのです。
限らぬ命のほどにて、行く末遠き人は、かへりてことの乱れあり、世の人に誹らるるやうありぬべき そうは言え人間いつ死ぬとは限らぬ身の上にて、先の長い若い人は、かえって、あとで間違いが起こって、世間の批判を浴びることになりかねない。若い尼には異性問題が起こりやすい。
かくなむ進みのたまふを、今は限りのさまならば、片時のほどにても、その助けあるべきさまにてとなむ、思ひたまふる このように、ご自分から仰るのだだが、もうこれが最後といった容態なら、ほんの一時のことにせよ、出家の功徳を受けられる身にしてやりたい、と存じます。
かかる折に、もて離れなむも、何かは、人笑へに、世を恨みたるけしきならで、さもあらざらむこうした機会に出家してしまうのも、なんの、外聞悪く、夫婦仲を恨んでのことのようでもなく、それで不都合があろうか。
おほかたの後見には、なほ頼まれぬべき御おきてなるを、ただ預けおきたてまつりししるしには思ひなして、憎げに背くさまにはあらずとも、御処分に広くおもしろき宮賜はりたまへるを、繕ひて住ませたてまつらむ 一通りのお世話役としては、今後も十分信頼のおけるお気持ちの方であることを、宮の身柄をお預けしたそのかいはあったのだと強いて思い慰めて、面当てがましく源氏から背き離れるといったふうではなくとも、宮は、形見分けとして広く趣のある邸を拝領しているので、修理して住まわせよう。
わがおはします世に、さる方にても、うしろめたからず聞きおき、またかの大殿も、さいふとも、いとおろかにはよも思ひ放ちたまはじ 自分の生きておいでのうちに、尼の暮らしながらも、よそながら安心できるようにしておき、まさかあの源氏もそうはいっても、ひどく疎略によもや宮をお見放しになることはあるまい。
さらば、かくものしたるついでに、忌むこと受けたまはむをだに、結縁にせむかしそれでは、こうして出かけたついでに、出家の戒をお受けになることだけでもして、仏道に縁を結ぶことにしましょう。
つれなくて、恨めしと思すこともありけるにやと見たてまつりたまふに、いとほしうあはれなり 表面はさりげなくしていても、(自分の仕打ちを)恨めしいとお思いのこともあったのであろうかと、お察し申されるにつけ、おいたわしく不憫に思われる。宮の思いつめた様子に、源氏も悔恨に似た思いを抱く。
夢のやうに思ひたまへ乱るる心惑ひに、かう昔おぼえたる御幸のかしこまりをも、え御覧ぜられぬらうがはしさは、ことさらに参りはべりてなむ<夢かと思うばかりの悲しみに取り乱しておりまして、このように昔が思い出されるお成りの御礼も、お目にかけられません不行き届きの次第は、後日改めて参上の上、お詫び申し上げます。九年前、帝とともに朱雀院は、六条の院に行幸した。/ 夢のように存じられて心が乱れておりますので、このように昔を思い出させます御幸のお礼を、御覧に入れられない御無礼は、後日改めて参上致しまして(渋谷源氏)
世の中の、今日か明日かにおぼえはべりしほどに、また知る人もなくて、漂はむことの、あはれに避りがたうおぼえはべしかば、御本意にはあらざりけめど、かく聞こえつけて、年ごろは心やすく思ひたまへつるを< わたしの命も今日か明日かに思われます時に、他に面倒を見る人もなく、寄る辺なく暮らすことが、ほっておけないように思われましたので、お気も進まなかったでしょうが、このようにお願いして、今までずっと安心しておりました。
御もののけ出で来て 女三の宮にとりついた物の怪がよりましに駆り移されて。
かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつと、一人をば思したりしが、いとねたかりしかば、このわたりに、さりげなくてなむ、日ごろさぶらひつる。  うまく取り返したと、先のひとりについてはお思いだったのが。紫の上のこと。女三の宮の出家は、六條の御息所の死霊のしわざだった。
かの宮に落ち葉の宮、柏木の北の方、二の宮。
母御息所 落ち葉の宮の母御息所 。
二品の宮/二品の宮(女三の宮)の身の上に心を痛めていた折に、源氏との仲が思わしくないらしいことに心を痛めていた時、の意。
何事にて重りたまふとだに、え聞き分きはべらず 何が原因で病が重くなられたとも、私ははっきり伺うこともできないでおります。
さらにかすめはべらむも、あいなしかし (いろいろ事情があって)それとなく打ち明けるのも、憚られることです。
女御をばさらにも聞こえず女御は言うまでもない。「女御」冷泉院の弘徽殿の女御。柏木の同腹の妹。
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心おきての、あまねく人のこのかみ心にものしたまひければ  柏木は、気立てが、誰にも分け隔てせず、兄貴分然とした面倒見のいいお方だったので。「人のこのかみ心」で一語。「このかみ」は、年長者。「心掟」心の持ち方。心配り。
尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて 尼になった三の宮は、柏木の大それた恋心も心底忌まわしく思ったが。
すぎすぎ見ゆる鈍色(濃い鼠色)ども、黄がちなる今様色など着たまひて、まだありつかぬ御かたはらめ 次々と重なって見える鈍色の袿に、黄のかかった紅色の表着などを召して、まだ尼姿が身につかない横顔は。「今様色」は、『河海抄』に紅色。『花鳥余情』に濃い紅梅色とする。
古りがたうわりなき心地する涙の人悪ろさを、いとかう思ひ捨てられたてまつる身の咎に思ひなすも 相変わらずどうにも抑えられない涙の未練がましさを、ほんとうにこうして見捨てられ申した私の悪い点と思ってみますにつけても。未練がましいところがあるから、あなたから見捨てられたのだろう、の意。「ふりがたし」[旧り難し」昔の様と変わらない。
今はとて思し離れば、まことに御心と厭ひ捨てたまひけると、恥づかしう心憂くなむおぼゆべき。なほ、あはれと思せ もうこれきりとわたしをお見限りになるのでしたら、本心から世の中をお捨てになったのだと、顔向けもならず情けなく思われることでしょう。やはりいとしい者とお思いください。
思ひなしにや、なほ、いとようおぼえたりかし そう思ってみるせいか、やはりとてもよく柏木に似ている。
誰が世にか種は蒔きしと人問はばいかが岩根の松は答へむ一体、昔、誰が種をまいたのか、と人が聞きましたら、岩の上に育った私は何と答えるのでしょう。「岩根の松」は歌語。ここは若君をさす(新潮)/ いったい誰が種を蒔いたのでしょうと人が尋ねたら誰と答えてよいのでしょう、岩根の松は(渋谷)
かの心に余りて、ほのめかし出でたりしを柏木が思い余ってそれとなく口に出したことを。
いかなることにかありけむ。すこしものおぼえたるさまならましかばどんないきさつがあったのだろう。もう少し意識がはっきりしていたら。
さばかりうち出でそめたりしに、いとようけしきは見てましを< あれほど一旦言い出したことなのだから、十分事情は察しられたであろうに。
いふかひなきとぢめにて、折悪しういぶせくて どうしようもない今際の極みにて、折も悪く、(事情もはっきり呑み込めず)自分としても気がかりのまま別れてしまった。
なほ、昔より絶えず見ゆる心ばへ、え忍ばぬ折々ありきかし やはり昔からずっとうがわれた気持ちを、折々抑えかねることがあった。夕霧は蹴鞠のとき以来、柏木の恋心も気づいていた。
いとようもて静めたるうはべは、人よりけに用意あり、のどかに、何ごとをこの人の心のうちに思ふらむと、見る人も苦しきまでありしかど、すこし弱きところつきて、なよび過ぎたりしけぞかし 至極冷静に構えている表面は、人にすぐれて折目正しく、落ち着き払って、一体どんなことがこの人の心の中では考えているのだろうとはたの人も気づまりなほどであったが、少し情に溺れるところがあって、やさし過ぎたためにこんなことになったのだ。
いみじうとも、さるまじきことに心を乱りて、かくしも身に代ふべきことにやはありける どんなに切なくても、道に外れた恋に心を苦しめて、このように命にかえてもよいことであろうか。
人のためにもいとほしう、わが身はいたづらにやなすべき。さるべき昔の契りといひながら、いと軽々しう、あぢきなきことなりかし 相手の人にとっても、不都合なことだし、わが身は滅ぼすということでよいものだろうか、これもそうなる前世の因縁とは言いながら、いかにも身分柄をわきまえぬ、つまらぬことなのだ。
一条の宮には 落葉の宮。二の宮。柏木の正室。
あはれなることは、その常なき世のさがにこそは。いみじとても、またたぐひなきことにやはと 死別の悲しみと申すものは、仰せの、無常な世の中の習いでございましょう。どんなに悲しくても、世間に例のないことではございますまい。
年積もりぬる人は、しひて心強うさましはべるを 年をとっている私などは、無理にも気強く思い静めようといたしますが、
さらに思し入りたるさまの、いとゆゆしきまで、しばしも立ち後れたまふまじきやうに見えはべれば すっかり悲しみにくれた宮のご様子は不吉なほど、すぐに柏木の後を追いかねない程に見えたので、
皇女みこたちは、おぼろけのことならで、悪しくも善くも、かやうに世づきたまふことは、え心にくからぬことなりと 皇女みこたちは、よくよくのことでなければ、良くも悪くも、このように夫を持つのは、感心できないこと、
何かは、かかるついでに煙にも紛れたまひなむは、この御身のための人聞きなどは、ことに口惜しかるまじけれど いっそ、こうした折にでも、後を慕って亡くなってしまうのでは、宮にとっては、世間体などは別に不体裁でもありません。「煙」は、柏木の火葬の煙。
時しあれば変はらぬ色に匂ひけり片枝枯れにし宿の桜も時節はめぐってくるので、変わらぬ美しい色に咲いていることです、片方の枝(柏木)の枯れてしまったこのお邸の桜(落葉の宮)も(新潮)/ 季節が廻って来たので変わらない色に咲きました片方の枝は枯れてしまったこの桜の木にも(渋谷)
この春は柳の芽にぞ玉はぬく咲き散る花の行方知らねば 今年の春は、柳の芽に露の玉を貫くように、涙にくれております、咲いて散る桜の行方(落葉の宮)も分かりませんので(新潮)/ 今年の春は柳の芽に露の玉が貫いているように泣いております咲いて散る桜の花の行く方も知りませんので(渋谷)
さらば、かの御契りありけるにこそはと、思ふやうにしも見えざりし御心ばへなれど、今はとて、これかれにつけおきたまひける御遺言の、あはれなるになむ柏木のお約束がございましたゆえと、思うようでもございませんでした故人のお気持ちのほどでしたが、今はの際に、誰彼にあとのことをお頼みになったご遺言が、身にしみますゆえ、つらい思いの中でもうれしいことはございました。
いとこよなくおよすけたまへりし人の (柏木は)申し分なく老成した人でして。「およすぐ」成長する。老成する。
げに、めやすきほどの用意なめり なるほどそつのない応接だった。
例は心強うあざやかに、誇りかなる御けしき名残なく、人悪ろし ふだんは、意志強くきっぱりした物越しでほがらかな様子なのが、その形跡もなく、体裁もない。
かう深き思ひは、その大方の世のおぼえも、官位も思ほえず。ただことなることなかりしみづからのありさまのみこそ、堪へがたく恋しかりけれ しかし私の深い悲しみは、そうした世間一般のの声望とか、出世のほどとか、そんなことはどうでもよいことなのです。格別人と変わったところもなかった日ごろの本人の有様だけが、たまらなく恋しく思われるのです。
何ばかりのことにてか、思ひさますべからむ 一体どんなことで、この悲しみが忘れられるのでしょう。
木の下の雫に濡れてさかさまに霞の衣着たる春かな 悲しみの涙に濡れそぼって逆に、親が子の喪に服して鈍色を身につけている春であるよ(新潮)/
亡き人も思はざりけむうち捨てて夕べの霞君着たれとは 亡き人も思ってもみなかったでしょう、先立ってみまかり、あなたに喪服をつけていただこうとは(新潮)/ 亡くなった人も思わなかったことでしょう親に先立って父君に喪服を着て戴こうとは(渋谷)
恨めしや霞の衣誰れ着よと春よりさきに花の散りけむ 恨めしいことです。霞の衣(喪服)を誰が着よと思って、春の逝くより先に花は散ってしまったのか(新潮)/ 恨めしいことよ、墨染の衣を誰が着ようと思って春より先に花は散ってしまったのでしょう(渋谷)
ことならば馴らしの枝にならさなむ葉守の神の許しありきと どうせのことなら、この連理の枝のように、わたしと親しくしていただきたい。亡きお方のお許しがあったこととおぼしめして(新潮)/ 同じことならばこの連理の枝のように親しくして下さい葉守の神の亡き方のお許があったのですからと(渋谷)
柏木に葉守の神はまさずとも人ならすべき宿の梢か 主人はおりませぬにしても、みだりに人を近づけてよいものでしょうか。御息所の歌と註。巻名の由来の歌とする。「枇杷殿より、とし子が家に柏木のありけるを、折りたまへりけり。折らせて書きつけたてまつりける。わが宿をいつかは君が楢柴の馴らし顔には折りにおこする、御返し、柏木に葉守りの神のましけるを知らでぞ折し祟りなさるな」(『大和物語』六十八段)(新潮)。落ち葉の宮の歌と註。古典大系(岩波)感名の由来。
この宮こそ、聞きしよりは心の奥見えたまへ この宮こそ、噂に聞いていたよりたしなみ深いお方のようだ。
あはれ、げに、いかに人笑はれなることを取り添へて思すらむ ほんとに、どんなにか世間の笑いものになることを、死別の悲しみに加えて、お悩みのことだろう。
容貌ぞいとまほにはえものしたまふまじけれど、いと見苦しうかたはらいたきほどにだにあらずは、などて、見る目により人をも思ひ飽き、また、さるまじきに心をも惑はすべきぞ (宮の)ご器量は、とても、十分にお美しくてはいらっしゃるまいが、ひどく見っともなくはた目にも気になるといってほどでなければ、どうして見た目が悪いといって、その人を嫌いになったる、また、道に外れた恋に前後を忘れたりしてよいものだろうか。
ねむごろにけしきばみて聞こえたまふ十分に気のあるところをほのめかして。
この君は、ゐざりなど 河内本は「この君、這いゐざりなどしたまふさまの、言うよしもなうをかしげなれば、人目のみにもあらず、まことにとかなしと思ひきこえたまひて、常にいだきもてあそびきこえたまふ」とある。
公開日2020年6月17日