イエス伝研究 年代記

イエスはいつ生まれたのか

イエスがいつ生まれたのかは、正確にはわかっていない。福音書の記述から、その歴史的裏づけを他の資料から見つけて、 推測するしかないのである。これには種々様々な意見があるが、いづれも推定の域をでない。

イエスの生まれた年を推定する手がかりのなるのは、聖書では『マタイ伝』と『ルカ伝』の以下の二箇所と思います。 ちなみに、『マルコ伝』と『ヨハネ伝』では、イエス生誕の話はまったく語られていない。

2 1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、 占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方で その方の星を見たので、拝みに来たのです。」 (『マタイ伝』2:1-2:2)
2 1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。 2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。 3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。 4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘム というダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。 6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。 (『ルカ伝』2:1-2:7)

ヘロデ王の在位は紀元前37年~紀元前4年で、これははっきりしているから、イエスが生まれたのは紀元前4年以前であるのは、 まず間違いないでしょう。ここが年代決定で一番はっきりしているところです。『マタイ伝』の記述は、一般に流布している クリスマスのイメージとして有名です。簡潔な表現で治世を記し、伝承と思われるが、 東方の博士たち(新共同訳:占星術の学者たち)が明るい星を見て、誕生したユダヤの王を祝福するためにやって来ます。 また『ルカ伝』では羊飼いたちがやって来て、飼い葉桶のなかに包まったイエスを見つけます。

東方の博士たち(占星術の学者たち)が見た明るい星は、ベツレヘムの星として有名ですが、これから年代を調べる方法があります。 色々な説がありますが、 一つは同じ星座で木星と土星が一年のうちに三回接近するというものです。これは非常に珍しい天体現象だそうで、 この時を含めて今日まで4回しか起きていない。ヨハネス・ケプラーが初めて計算して発表したものである。 天文学上の計算では紀元前7年であり、占星術の表では紀元前6年になり、ケプラーは前6年をとったという。 このように珍しい天体現象なので、あとで誰か物知りから聞いて、母のマリアあるいは父のヨセフがイエスの生まれた年と結び付けて 記憶していたとしても不思議ではない。この天体現象は、紀元前7年に魚座のなかで木星と土星が三回大接近している。5月29日と 10月3日と12月4日である。占星術の学者たちはこれらのどれかで輝く星を見つけて、ベツレヘムに来たというものです。 これはひとつの参考情報としてとどめておきましょう。聖書の記述自体がいかにも伝承に結びつけようとしていて意図的です。
追記 引用した『マタイ伝』の続きでは、ヘロデ王は、エルサレムに来た占星術の学者たちを呼び出し、 明るい星が現われた時期を聞き出し、幼子が見つかったら知らせよと頼んだ。しかし星占術師たちが知らせないで帰ってしまうと、 「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめて おいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。(「マタイ伝」2:16)」 と記しています。このことは、東方の博士たちは言葉をにごしてヘロデ王に答えたことになりますが、少なくとも二年前に見た 明るい星をたよりにベツレヘムに来たことになります。また、また「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に 止まった(同書2:9)」と書かれているのもおかしな話です。占星術の学者たちは二年前以内に見た星を頼りにエルサレムへ来た ことになる。
(この項『歴史としての聖書』ウェルネル・ケラー著 山本七平訳 山本書店1993年を参照しました)

皇帝アウグストゥスの在位期間は紀元前27~紀元14年で、在任中に徴税と徴兵のために、人口調査も行った ようです。ローマでは元来は5年毎に行われるものであったようですが、徐々に行われなくなっていった。しかし アウグストゥスはそれを復活し、特に属領において復活させたようです。ある記述では14年毎に行ったという説明もありますが、 それがパレスチナでいつ行ったかははっきりした記録がないようです。イエスが生まれた時代の大枠を特定するものでしょう。

キリニウスがシリア州の総督であったのは紀元6年~7年で、在任中にローマから派遣された初代ユダヤ総督コポニウスとともに 人口調査を行っています。このとき、それを不満としてガリラヤで暴動が起きています。キリニウスは皇帝の信頼厚く、 軍人としても官僚としても有能だったようです。紀元前12年にローマの最高位の要職にあたる執政官(2人)の一人に選ばれている。 キリニウスは紀元前5 - 3年に小アジア (現在のトルコ)を平定してそこの総督になり、その後も東方の地域に関わりをもっていたようです。紀元6年にユダヤ (ユダ・サマリア・イドマヤ地方)の領主アルケラオスが失政により追放となり、ユダヤ地方がローマの属州となると、 ただちにキリニウスがシリアの総督に任命されている。ある説によれば、シリア総督はサツルニウス(Saturninus、BC9/8-BC6)、 ヴァルス(Varus、BC6-BC4)、その後任でキリニウス(BC3-BC2)と続き、サツルニウスが始めた人口調査をキリニウスが完成させたのだと いう。またある説は、のちにアンテオケでローマの文書の断片が発見され、それによると、キリニウスは総督になる前の 紀元前10年~紀元前7年の間、軍司令官としてシリアに駐在していたことが判明したということである。いずれにしても、紀元前に キリニウスがシリアに在任したこと、そして人口調査したことが、歴史的資料で明らかになれば、イエスの生まれた年を特定できる のですが、現在では推定の域を出ないようです。キリニウスは、民衆が好む出世譚の典型であり、ローマの要人であり、 人口調査もしており、このことからパレスチナの人々にはシリアの総督としてキリニウスの名前が記憶されていたと推定されます。
追記 以上を書いた後で、次の記述を見つけましたので、追記します。
「クレニオ(キリニウスのこと)の国勢調査の時期は多くの研究者の論争の的になった。ルカがヘロデ 時代に国勢調査があったとするのにたいし、ヨセフスはその時期をユダヤがローマの属州になった後6年としているからである。 属州になるとき国勢調査が行われるという通例からして、ヨセフスが間違っているとは考えられない。それゆえに、現在では大半の 研究者がルカに誤りがあると結論している(もともとルカは、ヨセフスのような歴史家ではなかった)。国勢調査が二回行われた とか、クレニオがシリア知事を二度つとめたと想定する根拠は何もない」(『歴史の中のイエス』ガーリヤ・コーンフェルト著  岸田俊子訳 山本書店 1988年)

ここでは、イエスの生まれた年は、もっとも確実なものとして、ヘロデ大王の治世、すなわち紀元前4年以前としか推定できません。

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公開日2009年6月25日
6月28日更新