今月の言葉抄 2014年2月

原罪とは何か?

池澤 「エデンの園」というと「原罪」が問題になってくる。 原罪というのがなかなかわかりにくい概念で、ぼくは今の日本に生まれる子供が自動的に一人当たり数百万円の国の借金を負わされるという事態を想像してしまいますが。
秋吉 人間はよきものなのだけれども、知恵の実を食べてしまったのだから、際限なくしりたくなる。そうなると、 知ること自体苦しいわけですね。だから知ることの罰則として苦しみが与えられた。異性を知ることを含めて、知識欲はすべて代償を伴う。それはそれでいいのですけど、 しかしそれが原罪だとはぼくは思いません。原罪というのはキリスト教の用語で、ユダヤ教では原罪と言わないと思います。強いて言えば、生きるべく造られていた にもかかわらず、死を選んでしまった、ということですね。これがぼくの原罪の理解なのです。知恵を得て、死を宿命づけられ、エデンを追われた人間。 エデンならぬ現世では死ぬ者として生きなければならない。この宿命が原罪だと思います。
池澤 死すべきものという運命をおしつけられたのではなく、人の方が死を選び取った。それが原罪であるとすると、 永遠のいのちはその原罪からの解放ということになりますか。
秋吉 聖書のなかで「キリストは罪ある方となられた」(コリントの信徒への手紙2 5:21大意)と言っている わけですから、イエスが死ななければキリストにならないという矛盾の中に、キリスト教という宗教はあるわけです。だから人間イエスとして生きずに神の子として 生きていたのだったら、死なないでいいわけです。人間として人間の苦しみをもって死ななければ、あの宗教は出てこない。その点についてパウロは「キリストは 罪ある方となられた」と解釈するわけです。だから「罪ある」というのは「死すべき」存在ということで、何か盗んだとかそういったことじゃないわけです。
ユダヤ教では死に急ぐことを許しません。人(死すべき者)に許された最高の幸福は天寿をまっとうすることです。病人、身に障害を持つものは不浄な者などは、 悪霊に憑かれた者とされ、一般の民は接触を禁じられることになります。不浄な食物(コーシェルでないもの)は健康を害する食物ともいえます。
エデンから追放された人間にとっては、現実にいかに対処するかが問題で、エデンへの回帰は考えられない。
他方、キリスト教の方では、アダムの暮らしていたエデンの園をあまりにも理想の世界として考えすぎている。われわれは苦しみから逃れてエデンの園に帰りたい。 帰してくれるものは者は死に打ち勝ったキリスト以外にいないと。こういう考えはギリシャ語訳の方から来たわけで、その根源はプラトンのイデア論だと思います。 現世の方がむしろ仮の姿であって、本来の姿はエデンのイデアの世界であった。そういうギリシャ的二元論の図式に乗せられて考えたんだと思います。
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ユダヤ教では、人間の世界というのはたしかに苦しい、しかし、実際にあるのはエデンの園ではなくて、こちら側の現世の方だという考えをします。 実存主義が出てくるのは、そこからです。人が死を引き込み、苦しみながら、罪を犯し(死に向かい)ながら生きているという、そういう土壌から、人間の生きるための 方法を考え直したほうがいいのじゃないかというのが実存主義で、それが出てくるのには、やはりスピノザ(17世紀オランダの哲学者)あたりに端を発するユダヤ的背景が Sると思います。

『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』(小学館 2009年11月著者 池澤夏樹著 秋吉輝雄との対談)

更新2014年2月20日