今月の言葉抄 2015年2月

死ぬということ

そこで、死の恐怖について、死にともなう肉体的な苦痛と、死そのものとをわける。そして、ここでは、死の、より中心的な問題として、 生命を断たれるということをめぐる問題だけに、焦点をおいてみる。
生命を断ち切られるということは、もっとくわしく考えると、どういうことであるか。それが、人間の肉体的生命の終わりであることは、 たしかである。呼吸はとまり、心臓は停止する。もはや肉体は、個体としての機能的活動をしなくなる。その結果、肉体はあるいは腐敗し、 あるいは焼かれ、自然的要素に分解する。
このように、死によって肉体が分解するというところまでは、近代文明の中では、だれの考え方も一致する。
しかし、生命体としての人間の構成しているものは、単に、生理的な肉体だけではない。すくなくとも、生きている間は、人間は、 精神的な個と考えるのが常識である。生きている現在においては、自分というものの意識がある。「この自分」というものがあるのである。 そこで問題は、「この自分」は、死後どうなるのかという点に集中してくる。これが人間にとっての大問題となる。
死後の生命の存続如何という問題は、さまざまな表現形式をとりながら、結局、この点に集中してくる。天国や浄土の存在に対する信仰は、 そのもっとも単純明瞭な形である。もちろん、天国や浄土における死後の生活様式として描き出されているものは、 単にそれだけではない。もっと複雑で具体的な感覚や感情生活をともなった未来が描かれている。ただ、それは、主として、 前近代的な時代のことであって、近代的な社会においては、すでに、それをそのまま信じようとする人の数が少なくなっていることは うたがいのない事実といってよいであろう。しかし、天国や浄土を具体的に信じることをやめた近代の人々も、「この自分」 というものの意識の存続を簡単に否定しようとはしない。そこにはいろいろな見解がある。諸説紛々というところである。
なぜ、それが、そのような問題になるのか。それは人間にとって何より恐ろしいのは、死によって、今持っている「この自分」の意識が、 なくなってしまうということだからである。死の問題をつきつめて考えていって、それが「この、今、意識している自分」 が消滅することを意味するのだと気がついた時に、人間は、愕然(がくぜん)とする。これは恐ろしい。何よりも恐ろしいことである。 身の毛がよだつほどおそろしい。死後の生命の存続ということが、煎じつめると、その一点にかかっている。何とかして、「この自分」 はいつまでもその個体意識をもちつづけうるということを確かめられればとねがう。これが近代の来世観である。
しかし、どうであろうか。死によって肉体が崩壊すると、感覚器官や神経系統も消滅する。脳細胞もまったく自然要素に分解してしまう。 生理的構造が何もなくなった後で、「この自分」という意識だけが存在するとすることが可能だとするのは、相当に無理があるのではなかろうか。
これは近代人においても、人によって、その見解が異なるところがあるように思われる。私自身は、はっきりいえば、 そうしたことは信じることはできない。そのような考え方はどうも、私の心の中にある合理性が納得しない。それが、たとい、 身の毛がよだつほど恐ろしいことであるとしても、私の心の中の知性は、そう考える。私には、死とともに、すなわち、肉体の崩壊とともに、 「この自分の意識」も消滅するものとしか思われない。私自身は死によって、この私自身というものは、 その個体意識とともに消滅するものと考えている。
私は、実は子供の時には、敬虔なキリスト教の家庭に育った。私自身も子供らしい熱心な信仰をもっていた。しかし、青年時代に、 私は奇跡をおこなうことのできるような伝統的な人格神信仰は、どうしても信じることができなくなった。その意味で、 神を捨てたのである。そして、同時に死後の理想世界としての天国や浄土の存在は、またく信じないようになった。そして、 しだいに私は肉体の死によって、私という意識する個体は、物質的にも、精神的にも、解消するものと考えるようになってきている。 そう考えているというよりは、むしろ、私の近代的な知性が、私をして、そう考えさせずにはおかないという方が、より正確であろう。
かように、生死の問題に関しては、私は、きわめてむつかしい立場にたっている。私は、十年来思いもかけず、生命飢餓状態におかれてきた。 したがって、死の問題は、その死にたち向かうにあたって、もっとも有力な武器である死後の生命の存続という信念をもっていないのである。 素手で死の前にたっているようなものであろう。
私は、かって、まだ癌に冒される以前、健康であった時、しばしば死についての上述のような見解を述べた。そして、 伝統的な宗教家に批判されたものである。「あなたは、今は健康で死などというものの実感がないから、そのような強いことがいえるが、 実際にしに直面してごらんなさい。きっと、多くの人々と同じように、神にすがり、来世を信じてゆくにちがいありませんよ。」
その頃、私は、そういわれると、それに抵抗する根拠をもっていなかった。もし、実際、そういう場合がくれば、 そうなるかもしれないと思うよりほかなかった。しかし、はからずも癌になり、生命飢餓状態におかれた場合に、私は、 そうはならない自分を発見した。
まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫ってくる前に、私はたっていた。私の心は、生への執着ではりさけるようであった。 私は、もし、自分が死後の理想世界を信じることができれば、どれほど楽だろうと思った。生命飢餓状態の苦しみを救うのに、 それほど適切な解決法はない。死後も、生命があるのだということになれば、はげしい生命飢餓の攻勢も、 それによって鉾先をやわらげるに相違ない。
しかし、私の心の中にある知性は、私にするどくよびかけてきた。そんな妥協でお前は納得するのか。それは、 苦しさに負けた妥協にすぎないではないか。その証拠に、お前の心自身が、実はそういう考え方に納得していないではないか。 そのするどい心底の声をききながら、私は、自分の知性の強靭さに心ひそかな誇りを感じ、そして、 さしあたりの解決法のない生命飢餓状態にさいなまれながら、どこまでも、素手のままで死の前にたっていたのである。
しかし、今にして思えば、そのようなはっきりした態度をとることができたのは、苦しい中にも、私にとってむしろ幸いであった。 もっと悲惨なのは、心がはっきり定まらず、疑惑の雲の中でもだえる場合であろう。天国はあるのだろうか、ないのだろうか、 死に直面しながら、それをいずれとも決めかねて、ああでもないこうでもないと思いわずらう。そうなると、自分というものが、 二つにも三つにも割れる。しかも、生命飢餓状態が深刻になるほど、疑いに拍車がかけられ、自己の分裂はますます深くなる。 私はのちに、多年、他人には浄土往生を説いた高僧といわれた人が、 自分の死に直面したときにはほんとうに自分をまっている浄土があるのかどうかという疑いを生じ、 浄土はあるかないかという二つの考えの間を彷徨して、狂い死にをしたという話をきいた。
その点、私の立場は、きわめて困難なものではあったけれども、はっきりとした一つの方向に定まっていた。私は、その方向に向かって、 捨身に自分を投げつけていくことができたのである。
もう一度くりかえしていえば、死後の生命の存続を信じない私が、癌というような思いもかけない病気のために、生命飢餓状態におかれ、 死の暗闇の前にたたされたのである。天国や浄土などの理想世界を信ずるものにとっては、死後の世界は、暗闇ではない。一つの実体である。 しかも、輝かしい世界である。しかし、私にとっては、それは、真黒の暗闇であった。
私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持ちで凝視しつづけた。そうしているうちに、私は、一つのことに気がつきはじめた。 それは死というものは、実体ではないということである。死を実体と考えるのは人間の錯覚である。死というものは、そのものが実体ではなくて、 実体である生命がない場所であるということだけのことである。そういうことが、理解されてきた。
生と死は、ちょうど、光と闇との関係にある。物理的な自然現象としての暗闇というのは、それ自体が存在するのではない。 光がないというだけのことである。光のない場所を暗闇という。人間にとって光にもひとしいものは、生命である。その生命のないところを、 人間は暗闇として感じるのである。
死の暗闇が実体でないということは、理解は、何でもないようであるが、実は私には大発見であった。これを裏返していえば、 人間に実際与えられているものは、現実の生命だけだということである。人間は、日々の生活をくり返して生きている。これは、 疑いのないことである。人間にとっては生命は実体である。しかし、人間にとってあることは、今生きているということだけである。 人間には、生命がある。五十年か六十年か生きているが、その寿命の中の一日々々は、どの一日も、 すべて人間にとっては同じように実体としての生命である。どの一日も同じように尊い。寿命がつきて、死が近づいたとしても、 その死に近い一日も、健康の時の一日と同じように尊い。そのいのちのなくなる日まで、人間は生命を大切によく生きなればならない。 死というのは別の実体であって、これが生命におきかわるのではない。ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。
このような考え方がひらけてきた後の私は、人間にとって何よりも大切なことは、この与えられた人生を、 どうよく生きるかということにあると考えるようになった。いかに病に冒されて、その生命の終わりが近づいても、人間にとっては、 その生命の一日々々の重要性はかわるものではない。つらくても、苦しくても、 与えられた生命を最後までよく生きてゆくよりほか、人間にとって生きるべき生き方ははない。
このようにして、死の暗闇の前に素手でたっていた私は、このギリギリの限界状況まできて、逆に、大きな転回をして、 生命の絶対的な肯定論者になった。死を前にして大いに生きるということが、私の新しい出発になった。
それ以来、私は、一個の人間として、もっぱらどうすれば「よく生きる」ことができるかということを考えている。しかし、 そう生きていても、そこに、やはり生命飢餓状態は残る。人間は、一日々々をよく生きながら、しかも同時に、 つねに死に処する心構えの用意をつづけなければならない。私は、生命をよく生きるという立場から、死は、 生命に対する「別れのとき」と考えるようになった。立派に最後の別れができるように、平生から、心の準備を怠らないように努めるのである。
生命飢餓状態に身をおきながら、生命の肯定をその出発点とする。私は、ここまで論じて、ようやく、その出発点まできた。しかし、 私はもはやこの稿を終わらなければならない。いかにしてよく生きてゆくか、いかにして、「別れのとき」である死に処するか、 このような問題をすべてあとに残して、しばらく筆をおく。

『わが死生観』 岸本英夫著『死をみつめて』松田哲夫編 あすなろ書房2012年5月所収 


中野好夫氏は、『人間の死にかた』(新潮選書 昭和44年6月発行)のなかで、この岸本英夫氏の『わが死生観』を紹介し引用して次のように書いている。なお中野氏自身も中学3年のときキリスト教に 入信し、20代後半に離教したと書いている。理由は書かれていない。
おそらく、彼は立派に最後の別れをしたであろうことを深く期待する。そして静かに生の光が消えて、 いっさいが虚無に帰したのであろうと思う。それでよいではないか。
更新2015年2月9日