今月の言葉抄 2015年7月

メルエンプハタ碑文の「イスラエル」

いずれにせよ、エジプトで強力な第十九王朝が成立すると、カナンの地での混乱はひとまず沈静化する。この王朝の初期の王たち、 セティ(セトス)一世(在位前1290-1279)やラメセス二世(在位前1279-1213)がパレスティナ・シリアに遠征を繰り返し、この地の支配を 再強化したからである。特にラメセス二世が、この時期にアナトリア(小アジア)で強大化し、北からシリア・パレスティナに勢力を拡大してきたヒッタイト帝国のムワッタリ二世とオロンテス川畔のカデシュで一大決戦を行い(前1275年)、引き分けて和を結んだエピソードは有名である。
ラメセスの息子メルエンプタハ(在位1213-1203)もシリア・パレスティナに遠征を行ったが、この遠征(前1207年頃)を記念した石碑(カイロ博物館蔵)中の、征服したとされる地名リストの中に、「イスラエル」の名が見られる。
カナンはあらゆる災いをもって征服され、アシュケロンは連れ去られた。
ゲゼルは捕らわれの身となり、ヤノアムは無に帰した。
イスラエルは子孫(ないし種)を断たれ、フルはエジプトにために寡婦とされた。
これは、カナンの地におけるイスラエルという集団の存在に言及する最初の聖所外資料である。しかも興味深いことに、他の地名とは異なり、このイスラエルという集団には、都市(国家)や地方ではなく民族集団を表す決定詞(語句の意味を示す、発音されない記号)が付けられている。このことはこの集団がはっきりとした国家の態をなしておらず、またその領土も明確でなかったことを示唆している。なお、前章でも述べたように、いわゆる出エジプトに当たる出来事は、このメルエンプタハかその前任者ラメセス二世の時代に起こったと考えられるが、このことと、メルエンプタハ碑文に「イスラエル」と呼ばれる民族集団が言及されることが、直接歴史的に関連するとは限らない。出エジプト集団が少数で、後のイスラエル全体の一部にすぎないとすれば、出エジプト以前に、すでにカナンの地に「イスラエル」という集団が存在したとしてもおかしくないからである。

『聖所時代史 旧約篇』 山我哲雄 岩波現代文庫 岩波書店 2003年2月

更新2015年7月7日