今月の言葉抄  2006年3月

文書を書く基本 伝えるべき内容があるかおよび土俵と額縁の必要性

(著者は昭和16年6月から昭和20年12月まで読売新聞の論説委員を務めた。このときの経験を踏まえて)
ここには、文章修行にとって二つの教訓があるような気がします。
第一に、大本営通達に従って書かれた部分、これは、どの新聞にもほぼ共通なもので、それだけ、読者にとっては強力な情報である わけですが、あの投書の山から察すると、実際は、この部分は読者によって軽く読みすごされていて、一向に目立たない一句や一語 だけが読者の注意を惹いているように思われます。それだけが新鮮なもの、意味のあるもの、重要なものと受け取られていたように 思われます。
逆に申しますと、読む人にとって本当に重要な事柄であるならば、どんな控えめな表現でも、読む人の心を強く捕らえるのでしょう。 表現の強弱や巧拙の問題より前に、他人に伝達すべき重要な事柄を自分が持っているかどうか、という根本問題があるのです。 それがあって初めて、文章の工夫というのも意味があるのです。それがなかったら、文章など書かずに、静かにしていた方がよいように 思います。
第二の教訓は、限定や限界の必要ということです。いいえ、別に難しい話ではありません。相撲の技術は、狭い土俵というものが あるから生まれたのだということです。もし直径100mというような土俵であったら、相撲は、到底、あの美しい緊張の瞬間を生み出す ことは出来ないでしょう。大自然を写すためにキャンパスを無限に大きくして行ったら、迫力のある絵を描けるでしょうか。そう 考えると、何を書いてもよい、どんな言葉を使っても構わないという言論の完全な自由というのは、実は、少し始末の悪いもの なのです。
なにも、戦争中の厳格な言論統制のほうがよいなどと言っているのではありません。しかし、どこかに土俵のようなもの、額縁 のようなものがあった方が、本当に重要な事柄が鮮明に浮かび上がり、文章に緊張が生まれるのだと思います。今日では、面倒な 話ですが、そういう限定や額縁を自分で作り出して、これを自分に課するよりほかはないでしょう。
(「第六話 言論統制下の文章」から)
『私の文章作法』(潮新書75 潮出版社)清水 幾太郎著
更新2006年3月15日