今月の言葉抄  2006年4月

On Dying 死ぬことについて

先日私は、われわれの伝説的祖先であるアダムについて、出処不明な話を読んだ。それによると、アダムは938歳のとき死期が近い事を感じ、子供達を枕元に呼び、これから目撃することになる事柄について説明をしたというのである。というのも、当然のことながら、子供達は人が死ぬのを見たことがなかったからである。

われわれはこの種のおとぎ話、死に対する無垢な立場をたしかに失ってしまったのであるが、私は思うに、誰もがこのテーマについて充分には知ることができない思っているのではないか。死に関する問題のひとつは、ほとんどの人がそれについてはっきりした意見を持っていないということである。いや、私は死についてはっきりしたまたは漠然とした意見を持っていないと言っているのではなく、死んでゆくことがどのようなことなのか、まったく感慨を持っていないと言っているのである。誕生に関してはどうだろうか、それと比較してみよう。今日われわれのほとんどは生涯において、わずかではあるが2〜3回の出産の場に立ち会っている、脇役かあるいは主役として。しかしどの場合も、常に冷静な観察が出来ないほど切羽詰った感情の高ぶりの中で。

同じことが臨終にも言えます:20世紀後半の平均的ヨーロッパ人は、死の過程を充分理解できるほど多くの臨終に立ち会っては いません。テレビに現れる何千という死は、かえって見方を歪ませます。画面上の死は、いつもおきまりのものです:死に瀕した婦人は、 ベッドカバーをまさぐり、あるいは上げるか傾けりるかなんらかの動作をし、そしてもう一度鋭い一瞥をこの世に向け、 文法的に正しい言葉を吐き、目を閉じる、頭を横に傾ける、そして彼女の人生に最後のピリオドを打つのである。

これはあまりにも実態からずれているので、見当違いだともいえない。それでもこの一連の動作は、世間一般に 広く受け入れられているので、多くの人たちは、現実に死につつある人のすぐ傍にいながら、なにが起きているのか理解できない のである。

父親が死にかけているその瞬間に、全く楽しそうにお喋りしている家族を、父親のその時に注目させようとしなければならな かったことを、私は何度も経験している。つまり、死ぬということは、ときには何日も何週間も何ヶ月もかかるので、むろんフィルに収めたり描写したり することなど不可能なのだ。

私がこうしたことを言うのは、安楽死を頼んだり考えたりする人々は、死ぬことがどんなことなのか全く知らないからだ、 とよく考えるからである。また、どうして知ることができよう。

ほとんどの人たちは、知られないままに死んでゆく。テレビで見た死に方を忘れて、ほとんどの人たちは誰にも気づかれずに 無意識のなかへと滑り込んでゆく、毎晩眠りのなかに落ち込んでゆくのと全く同じように。一般に人は、死というものを、 ほとんどの人びとにとって荷が重すぎる困難な旅路の、まさにその最後にやり遂げなければならない最も厄介な仕事、と見ている。

登ることのできないフェンス、無常な有刺鉄線が張られた障害物としての死。

通常はそのようなものではない。昔の箴言にある:死がいるときは、私はいない、私がいるときは、死はいない。誤解を避ける ために付け加えると、私がここで言っていることは、死の本然に関することではないことを強調しておきたい。 死ぬってどういうことかとか、死んだらどこへ行くのか、とかのことではない。また、こうした考えが、やがて死すべき者が共有 している恐れ、その死の恐怖の瞬間にどんな慰めになるのか、などと言っているのでもない。

ほとんどの場合、死ぬことは当人にとっては恐ろしい出来事とはいえない。そして、こう言っても軽率だと思われたくないが、、通常死ぬには時間がかかるのである。私はこの退屈な事実を強調したい、なぜなら安楽死について語る人たちは、この事実を考慮に入れていないと思うからである。

このことから言えることは、安楽死への要望は根拠のない恐怖に基づいており、最期の時の苦痛を軽減するという真摯な約束によって、ほとんど常に満足されるからである。

(From "On Dying")
An essay by Bert Keizer

Bert Keizerは1947年生まれのオランダの医師で作家。イングランドのNottingham大学で哲学を学び、その後アムステルダムで 医師としての研修を積んだ。現在、アムステルダムの300病床余りの終末医療病院で医師として働く。Dancing with Mr.D: Notes on Life and Death(著者自身による英訳 1997年出版)の著書がある。そのなかで、末期患者の様々な日常生活を語り、また安楽死の事例も書いている。日本語訳もあるようだが、私は見ていない。

この大変興味深いエッセイの原文はこちらのリンク(On Dying)に当たってください。部分訳であったのを、今回全訳し、英語の原文をリンクにまわしました。
またこの文章は「時事英語勉強会」の学習教材に使いました。(管理人)

登録2006年4月10日
   更新2007年1月8日