今月の言葉抄  2006年5月

漢訳『法華経』と漢文について

漢訳『法華経』には三種の異訳が存在することはよく知られていますが、私どもが毎日拝読している『妙法蓮華経』は、五世紀の初め鳩摩羅什によって翻訳されたものであることも、周知のとおりであります。そして、『妙法蓮華経』は名訳の誉れが高く、我が国でも長い間人びとに親しまれてきましたので、単に『法華経』といえば、それは『妙法蓮華経』のことであります。
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『法華経』は梵語(サンスクリット)即ちインド古典語から中国語−それも古典文章即ち「漢文」−に翻訳されたものですが、漢文もまた日本人から見れば外国語であります。
漢訳『法華経』が我が国に伝来した当初は、おそらく中国音で読まれたと思われます。つまり字音による棒読み、すなわち真読しんどくであります。その習慣が現在まで続いているため、お経を読むのを聞いていても、意味が一向にわからないという嘆声が出るわけです。また、もっとわかりやすい日本語にならないものだろうか、いやそうすべきだ、というような意見も出てくるわけであります。
もちろん『法華経』は棒読みだけでなく、一般世間の漢文と同じように日本語読みをします。いわゆる訓読くんどくですが、これとても原文をなるべく忠実に直訳する方法であり、しかもその日本語は文語体を用いる習慣が確立していますから、訓読のお経もただ耳で聞いただけでは、程度の差こそあれ、今の多くの人たちにとっては、意味が分からないという点では、五十歩百歩でありましょう。

漢字の形と音と意味との関係

『法華経』の文章を構成する基本単位は一つ一つの漢字ですが、『法華経』がわかりにくいとかむずかしいとか言われる最大の理由は、今の若い人々には概して漢字の知識がとぼしい、という所にあると思います。
漢字はいわゆる表意文字ですから、原則として一字に字形と字音と字義とが備わっています。即ち一字が一語であって、表音文字のカナとはまったく性質が異なります。
山や川という字は、やまやかわの形から出来たいわゆる象形文字しょうけいもじですし、明や家は日と月、宀とぶたという意味をもつ二つの字を合せて作られた字で、会意文字かいいもじと名づけられ、花・財などは意味を表す部分(くさかんむりや貝)と発音を示す部分(化や才)とから成る字で、形声文字けいせいもじと呼ばれています。
文字の音は、時代や地域によって大きく変わります。日本に最初に伝えられた漢字音は、今の揚子江下流地方の音で、この辺りは昔の呉という国があったところなので、後世になって漢音が伝わると、漢音に対して呉音と呼ばれるようになりました。奈良朝から平安朝の初期にかけて、中国に渡った遣唐使や留学僧が目指したのは、唐のみやこ長安(今の西安)でした。この都会の新しい字音が伝えられると、長安が昔の漢の都のあった処であることから、これを漢音といいました。そして若干の例外はありますが、同じ漢文でもお経は呉音で読み、一般の漢籍は漢音で読むということがならわしとなって、今日に及んでいます。この二つの音の区別がよくわからぬことが、『法華経』をむづかしいと思う第一の理由でしょう。
お経では自然を「じねん」、敬礼を「きょうらい」と読みますが、一般の漢籍では「しぜん」、「けいれい」と読みます。前者が呉音で後者が漢音です。しかし、どちらの音で読んでも意味に変わりはありません。また、すべての文字が呉音と漢音とで異なるわけではなく、呉音漢音が同じ文字も少なくないのです。
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中国語(漢文)は、言語学上単音節の孤立語に属します。日本語にもメ(目)・キ(木)などの一音節のことばはあり、英語にも big,hen などの一音節のことばが無いわけではありませんが、全体としては二音節以上の言葉が多いのに対し、漢語(漢字)はすべて単音節です。徳をトク (toku) と書くと二音節のように見えますが、中国語では te で一音節、発(ハツ-hatsu)も二音節のように見えますが、中国語では fa で、やはり単音節です。
しかも、英語やドイツ語に見られるような名詞や代名詞の性の区別も、単数複数の区別も、性や格の区別による語形の変化も、漢語(漢字)にはありません。また、日本語のような動詞や形容詞の語尾活用もありません。過去・現在・未来などを表す「時」の区別もありません。それらの区別は、すべてそれぞれの意味をあらわす数詞や形容詞、副詞・助動詞などをつけ加えることによって表現します。
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文法と訓読について

それならば、漢文は何を基本法則として成り立っているかと申しますと、それはもっぱら単語の配列の順序によって単語の品詞や格がきまるということです。たとえば「黒髪」とすれば<黒イ髪>という意味になりますが、「髪黒」とすれば<髪ガ黒イ>という意味になります。「安楽行品あんらくぎょうほん」の「説種種法=種種ノ法ヲ説ク」の「種種」は「法」という名詞に付く形容詞ですが、「薬草喩品やくそうゆほん」の「種種説法=種種ニ法ヲ説ク」の種種は「説ク」という動詞にかかる副詞です。ですから、村野宣忠師の英訳『法華経』にも、前者を "I expounded various teachings to them" 後者を "Since then I have expounded the Law variously" と訳してあります。英語では various という形容詞は副詞になると ly という語尾がついて形が変わり、日本語でも「種種ノ」・「種種ニ」というように助詞がついて、形容詞と副詞とは形の上でも区別がつきますが、漢文ではどちらの場合も「種種」の二字だけで、語形上の変化はまったくありません。それでいながら形容詞か副詞かの区別ができるのは、その前後にどんなことば(文字)が配置されているかによるのです。
漢文の語順は、日本語よりも英語などに似ています。最も典型的なものは、他動詞と客語との関係でしょう。まず、「提婆品」の「我宝珠=我、宝珠ほうじゅたてまつル= I offered a gem to the World Honoured One 」のように、他動詞(献)の客語(宝珠)は、日本語とは逆に他動詞の次におかれる点で、英語と全く同じです。「授学無学人記品じゅがくむがくにんきほん」の「阿難常侍者=阿難、常ニ侍者ト為ル」のように不完全自動詞)の補語(侍者)も動詞の次におかれます。「提婆品」の「太子=政ヲ太子ニ委ス」のように客語)と補語(太子)とを同時に取る場合でも他動詞)が先に来ます。日本語の語順と比較してみて下さい。
漢文では、受身の形・使役の形・否定の形・比較の形なども日本語と語順が異なるので、訓読する時は下から上に返って読むことが多く、願望の形や禁止の形にもこういう例がたくさんあります。
しかし、漢文の語順がすべて日本語とちがうというわけではありません。日本語と同じものもいろいろありますが、特に次の三つは全く日本語と同じ語順で、基本的なものとして覚えておくと便利です。
第一は、「何は(が)どうする」即ち「主語述語」という場合で、述語はむろん動詞です。「信解品」の「諸人侍衛=諸人侍衛ス」はその例です。第二は「何は(が)どんなだ」即ち主語述語という場合で、述語は形容詞です。「寿量品」の「我此土安穏=我ガ此レノ土ハ安穏ナリ」がその例です。第三は「何は(が)何々だ」即ちやはり主語述語という場合で、述語は名詞または代名詞です。「信解品」の「我子=此レハ実ニ我ガ子ナリ」がその例です。上から下へまっすぐに読む点で、日本語と少しも変わりません。

訓読法の考案

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外国語の読解は、まず表記された順序に従って原語の発音で読み、然る後に日本語に翻訳するのが常道であります。漢文のお経も、伝来当時は恐らくこれと同じ方法がとられていたはずですが、奈良朝から平安朝にかけて、経験的に修得した文章構成の法則を脳裏におきながら、漢文をにらんでその文意を理解し、日本語と語順の違う漢文をいきなり日本語の順序になおして読むという方法が考案されました。これが訓読と呼ばれるもので、以後、我が国では仏典も外典げてんもほとんどこの方法で読まれるようになりました。

現代語訳された『法華経』

ここで、今日までに出版されている現代語訳の『法華経』をが概観してみましょう。
日本語訳の『法華経』は私の狭い視野に入っているものだけでも十数種を下りませんが、それらの大部分は漢訳『妙法蓮華経』の訓読書き下し文か、さもなければ梵本からの日本語訳であって、私どもが依用している鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』二十八品を全部現代語訳したものは極めて少ないようです。
即ち、大正八年に出版された江部鴨村氏の『口語全訳妙法蓮華経』は最も早いものかと思いますが、次いで昭和十九年刊の江南文三氏訳『日本語の法華経』があり、更に紀野一義氏訳『法華経』(筑摩書房世界古典文学全集7仏典2、昭和40年刊)・三枝充悳博士訳『法華経現代語訳』(昭和49年刊)・武田海正師訳『心訳法華経』(昭和51年刊)などがあるくらいでしょうか。部分的な訳としては、山上ゝ泉教授の『寿量讃』・本田義英博士訳『法華経新訳要集』・布施浩岳博士の『如来寿量品偈讃歌』・持田貫道師の『お自我偈の歌』・長井弁順師の『現代語の法華経要典』などが私の手許にありますが、管見の及ばぬものも多いことと思います
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しかし、『法華経』の現代語訳がいかにむずかしいかを証明するために、上記の諸書が「お自我偈」の末章「毎作是念、以何令衆生、得入無上道、速成就仏身」(つねに自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして、無上道に入り、すみやかに仏身を成就することを得せしめんと)の四句をどう訳しているかを見ることにしましょう。
1 江部鴨村訳
げに束の間も、かく我は念へり「この身いかにして、世のもろびとを、最勝の道に入らしめ、すみやかに、ほとけの身をば成就することを得しめむ、得しむべき。」
2 江南文三訳
しょっちゅう思っているのだよ
どうやったらば、ほんとうの
ことをみんなに分からせて、
早く仏に出来るかと。
3 紀野一義訳
常にわたしはこう念じているのだ−どのようにしたら、生けるものたちを無上道に入らせ、早く仏の身となれるようにすることができるであろうか、と。
4 三枝充悳訳
わたくしは、つねにみずから、このように考えている、「どのようにして、生あるものたちをして、最高の仏道に入らせて、速やかに仏身を成就することを獲得かくとくさせようか」と。
5 武田海正訳
つねに自ら思うよう
どうしたならば、人々を
悟りの道にはいらせて
早く如来にしようかと。
6 山上ゝ泉訳
世尊は毎に念ずらく
同胞群生はらからうから速やかに
菩提の道を相践あひふみて
永劫とは耀かがよふ身とも成れ
7 布施浩岳訳
嗚呼ああ、いかにして汝等いましら
無上のどうに引き入れて
仏の身とはなさしめむ
これわが悲願なるぞかし
8 持田貫道訳
つねづね やまぬ おもい には
どうした ならば ひとびと を
うえなき みち に ひきいれて
いきたる ほとけ と すぐなさん
9 長井弁順訳
どうしたら人々をして立派な仏の道に入れ、速やかに仏になさしめんか、これが我れ仏の念願である。

付記 なお、漢訳法華経を更に勉強してみたいという方には、まず次の二書をお読みになるようお勧めいたします。
一 戸田浩暁著『法華経文法』(昭和40年山喜房仏書林刊)
ニ 金岡照光著『仏教漢文の読み方』(昭和53年春秋社刊)
昭和60年8月、金森天章氏の『現代訓読法華経』が東邦出版から刊行された。(追記)
(「『法華経』の姿」から)
『法華経の世界』(日蓮宗新聞社 1988年11月)共著 引用部分 戸田 浩暁 著 
更新2006年5月27日