今月の言葉抄 2006年8月

物質とエネルギー

物質はものであって、ある実質があるものである。物質の“実質”あるいは“量”を物理学では“質量”という。それは、物質(物体)が持っている本来の特性(“実質”)の一つであり、日常用語の“重さ”の元である。質量をmとすれば、重さはmに重力の加速度gを掛けたmgである。gは場所によって変化するから“重さ”は場所によって変化する。それに対し、“質量”は物質が持っている本来の特性であるから場所によって変化することがない。

いい方を換えれば、質量を持つものが物質である。

生物であれ無生物であれ、すべての物質・物体の活動あるいは運動の源がエネルギーである。時代や社会や経済などが動く場合にもエネルギーが必要である。世の中には精神的エネルギーを含む多種多様なエネルギーがあるが、自然科学におけるエネルギーは「自然界に起こるさまざまな現象の原動力になる能力」と考えればよい。

あらゆる自然科学の分野で最も重要な概念は、このエネルギーと物質(質量)である。宇宙、自然界は物質とエネルギーの組み合わせで構成され、動いている。物質が構成要素であり、その構成要素を動かすのがエネルギーである。自然科学が扱うエネルギーには、その“源”の種類や性質によって、力学的エネルギー、光エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギー、化学エネルギー、核(原子力)エネルギーなどと呼ばれるものがある。

物質は具体的であるが、エネルギーは抽象的である。エネルギーそのものを人間の五官で“形”として認識することはできない。エネルギーという“能力”の結果は“形”としてみることができても、能力自体を“形”として見ることはできないのである。

従来、具体的には二十世紀の初頭の「自然観革命」が起こるまで、この質量とエネルギーは互いに“別次元のモノ”つまり“別モノ”と考えられ、それぞれ、自然科学上の重要な法則である「質量不変の法則」と「エネルギー不変の法則」が知られていた。

前者は、物質は形や状態がどのように変化しても、その総質量は不変であるという法則である。また後者は、前述のようにエネルギーは多種多様であるが、それがどのようなものに変わり、どのように分散されたにせよ、その総量は不変・不滅であるという法則である。

ところが、アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論から、「物質(質量)とエネルギーとは相互に転換され得る」という、まさに革命的な結論が導かれた。そのことを表すのが、「E=mc²」という有名な式である。(Eはエネルギー、mは質量、cは光速)。

つまり、物質(m)は恒存、不変なものではなく、時には消えてなくなることもあるのである。しかし、その場合にはE(=mc²)というエネルギーが出現する。逆に、エネルギーも不滅なものではなく、エネルギーが質量m(=E/c²)の物質に変わることもあるのだ。例えば1グラム(1g)の質量(ほぼ一円硬貨一個の質量)はおよそ10 14ジュールという膨大な量のエネルギーに相当する。一グラム重の水(体積一立法センチメートル)の温度を一度高めるのに必要なエネルギーが約4.2ジュールであることを考えれば、10 14ジュールというエネルギーがいかに膨大なものかが理解できるだろう。日常感覚の一グラムといえば極めてわずかな質量であるが、それが消えると膨大なエネルギーが出現するのである。実は、発電などに利用される原子力というのは、このようにして生まれるエネルギーである。

E=mc²という式は、従来の「質量不変の法則」も「エネルギー不変の法則」も成り立たないことを示している。そして。それが導く新たな法則は「質量とエネルギーの総和は不変である」ということになる。

いまここで、物質とエネルギーについいて述べ、E=mc²という式によって「物質(質量)とエネルギーは互いに転換され得る」ということを示したのほかでもない。私は、このE=mc²が、「物質から生命へ」を解く鍵になるような気がするからである。

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長年、自然科学に分野で仕事をしてきた私自身が感じる「科学の限界」は第3章で述べた通りであるが、「E=mc²」は、そのような限界がある科学的にせよ、「物質から生命へ」の理解にかなりの光明を与えてくれるように思える。と同時に、所詮それも、大きな壁に限りなく近づいているだけのことで、その壁を越えることは決してできないのではないか、とも思う。私は次に引用するベルグソンの「たとえ」が好きである。

曲線のきわめて小さな一要素は、ほとんど直線に近い。この要素を小さくとればとるほど、ますますそれは直線に類似してくるであろう。極限までいけばこの要素は直線の一部であるとも、曲線の一部であるとも、好きなように言うことができよう。事実、曲線はその各点において接線と見わけがつかない。同様に、《生命性》はどの点においても、物理的、化学的な力に接している。けれどもそれらの点は、要するに、曲線を生み出す運動のあれこれの時点を一時停止させてみる精神の眺めでしかない。事実、曲線が多くの直線から成りたっているのではないのと同様に、生命も物理―化学的な諸要素からできているのではない。 

結局、われわれは、科学(物理、化学)の力で曲線を極限まで刻んだ直線片をいくら集めてみても、その曲線を真に理解することはできないのではないか。ベルグソンがいみじくもいうように、曲線は多くの直線から成り立っているのではないからである。同様に生命も物理―化学的な要素だけでできているのではないとすれば、われわれが、物理学と化学、すなわち科学をもって生命を理解するのも不可能であろう。

そこで、「物質から生命へ」を理解する光明と思われた「E=mc²」に立ち返ってみると、この“E”は物理―化学的なEではなく、ベルグソンがいうところの“生命の躍動(エラン・ヴィタール)である、というほかはない。

(「第7章物質から生命へ」から)
『こわくない物理学 物質・宇宙・生命』(新潮社 2002年)志村史夫著 
更新2006年8月5日