今月の言葉抄 2006年10月

憲法第9条の修正

いよいよ(憲法)草案を衆院に上程する段取りとなる。それに先立ち、枢密院の審議がある。吉田(茂)はこれに望み、「憲法改正をなぜ急ぐのか」と問われて答えている。
「日本としては、なるべく早く主権を回復して、進駐軍に引き揚げてもらいたい。GHQをゴー・ホーム・クイックリー(go home quickly)の略語だなどと言う者もいる。そのためには、連合国に対し、再軍備の放棄、民主化の徹底という安心感を与える必要がある。それらが一刻も早く憲法の上で確立することが望ましい」
 草案は枢密院をパスしたが、衆院では紛糾した。

・・・

先の徳田といい、志賀、野坂といい、共産党が最も激しく新憲法に抵抗した。のちに「護憲政党」に衣替えするのは首尾一貫しない。面妖である。吉田は野坂に答える。
「自衛権による戦争は正当だとおっしゃるようだが、私はかくのごとき考えを認めることが有害であると思うのであります。(なぜなら)近年の戦争の多くは、国家防衛の名において行なわれたことは、顕著な事実であります。ゆえに正当防衛権を認めることが、たまたま戦争を誘発するユエンであり、それ自身が有害であると思うのであります」
 憲法担当相・金森はこのやり取りを聞いてハラハラする。
「これは困った。政治というものは、時の勢いで言葉が強くなる」
 案の定、新聞は大きく報道した。
「草案は自衛権を否定」
 吉田と幣原にしてみれば、自衛権は当然のことながらある、しかしそのための戦力は当面は持たない。持てばアメリカに使役される―それが二人の真意だ。
 のちに東西冷戦が緊張の度を加えたとき、マッカーサーはその“真意”に気付く。マックは当の幣原に向かって慨嘆する。
「日本に戦力放棄を認めたのは、なんとしても早すぎた」
 幣原がニガ笑い応えたくだりは前述した。

草案は特別委員会の質疑応答を経て、小委員会に付託され、これまでに出された修正要求を非公開のうちに検討した。委員長芦田均は第二項に修正を加える。いわゆる「芦田修正」である。

憲法九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

傍線部分が芦田の修正である。修正の狙いについて、のちに芦田は憲法調査会で証言した。
「竹槍を用いようが石ころを投げようが、いずれも自衛権の作用であります。そうなれば自衛のために武力を用いることを、条約をもってしても憲法をもってしても禁じ得るものではない。その証拠に、いかなる条約や憲法にも、自衛のための武力を禁止したものは世界に存在しておりません。九条の原案第二項は、この点についてきわめてアイマイであり、いかなる場合にも武力の行使を禁じたもののごとく映る。これを明白にするには、この修正が多少なりとも役立つと考えた。
 修正の辞句はまことに明瞭を欠くものでありますが、しかし私は一つの含蓄をもって、この修正を提案した。『前項の目的を達するため』という辞句を挿入することによって、原案では無条件に武力を保有しないとあったものが、一定の条件下に武力を持たないということになります。日本は無条件に武力を捨てるものではないということは明白であります」
 芦田も自認するように、修正は明瞭を欠く。『前項の目的』とは、『国際紛争の手段としては武力行使を放棄する』である。修正の狙いは、『前項の目的を達するために限り』あるいは『達するためには(武力を持たない)」と読んでくれ、とする含意だった。芦田としては、そこに自衛権を認める解釈を残した(つもりだった)。

ところが日本語として普通・素直に読む限り、そうは読めない。読んでくれない。むしろ前段(戦争放棄)の目的を補強して、戦力も交戦権も放棄すると読める。すなわち自衛権すら認めぬ完全武装放棄である。これが一般に通じる顕教となった。一方、芦田の含意を無理やり汲めば、これなら戦力も交戦権も持てると読める。これは要路の政治家・高級官僚だけに通じる密教となった。

芦田修正は無用のものだった。なぜなら自衛権は万国共有の自然権であり、敢えて言い立てる必要もない。ひそかに含意を込める必要もない。原案のほうがまだしもスッキリする。いずれ時が来たら変えればいい。幣原、吉田にすれば、
(原案のままでいいのに、余計なことをする)
 苦い思いだったのではないか。要は当面は戦力を持たない(いずれは自衛権の発動として持てる)。それが肝心要の「策」なのである。芦田は「当用」の意を解しない、と二人は思ったことだろう。
 案の定、GHQの幕僚らは芦田の含意に気付いた。
「in order to accomplish the aim of the preceding paragragh」
 この加筆をみて、
「この修正で、日本は自衛権を持つ。将来、軍隊が持てることになる」
 と解釈し合った。ならばと、GHQ 「文民条項」を要求する。「すべての国務大臣はシビヴィリアンたるべきこと」である。対して日本側は反論する。戦力放棄で軍隊も軍人も存在しないのだから、わざわざ文民たることを憲法に謳うのは整合性に欠けると。対してマッカーサーは言う。
「イギリス、ソ連が要求している。聞き入れてくれ」
 かくして文民条項は第六十六条に挿入された。幣原と吉田にすれば、
(だから言わんことじゃない)
 と思ったことだろう。二人の回想は芦田修正に(意地になってか)触れていない。無視している。この修正問題は、のちに民主党と進歩党の合併のおり、芦田と幣原に確執が生じた遠因でもあろう。
 憲法九条は芦田修正を加えて、さらにアイマイさを増し、判じ物のようになった。

(第六章頑固爺ィ・吉田茂の登場)から
『昭和の三傑』(集英社インターナショナル 2004年)堤堯著 
更新2006年10月28日