今月の言葉抄 2007年4月

諸行(サンカーラー)

人生の盛時に一切皆苦と観じた釈迦は、並外れて、豊かな感性と強い知性の人だったと思う。しかしそれは一般的な真実ではなく、釈迦の個性あるいはインド的な環境の中で形成されたものではなかったのか、と思うときもあったが、『仏教入門』(平川彰著 春秋社 2003年)を読んで、ある程度納得した。それは世間智のレベルではなく、般若の智慧によって初めて「一切皆苦」と了知できるのである、と説明されている。この書は、読者をいきなり仏教の本質に誘い込んでくれる。難しい本だ。(管理人)



五蘊とサンカーラー

第一に「無常・苦・無我」の教説を取り上げたいと思います。この教説はすでに示したように、次のように説かれています。
諸比丘よ、しきは無常なり。無常なるものは苦なり。苦なるものは無我なり。無我なるものは、我がものにあらず。われにあらず。われのアートマンにあらず。このごとく、正しい般若によって如実に見られるべきである。
と。これと同じ教説が、色の次ぎに、じゅそうぎょうしきについても説かれています。すなわち受は無常であり、苦であり、無我である。想も無常であり、苦であり、無我である。同様に、行についても、識についても、無常であり、苦であり、無我であることが説かれています。
この受・想・行・識は「五蘊ごうん」といいまして、有名な教説でありますので、その内容を簡単に示しておきます。五蘊の「蘊」とは「あつまり」の意味でして、色にも種々の種類があるので、それらを集めて「色蘊」となし、受にも多くの受があるので「受蘊」、同様な意味で、想蘊、行蘊、識蘊があり、あわせて五蘊となっています。
五蘊のうち、第一の色蘊の色は、形のあるもの、こわれるものなどの意味がありますが、簡単にいえば色とは物のことでして、直接には自己の身体を指し、あわせて外界の物質をも意味します。
次ぎに、「受」は感受の意味です。外界を感受すること、すなわち自己の身体を含めて外界を認識して、心に内在化する認識の過程の、最初の段階が「受」(感受)であります。これは、苦受・楽受・不苦不楽受と説明されています。
次にこの感受したものを、「表象する」のが、第三の「想」であります。そしてこの表象された対象に、記憶や好悪の感情、欲望、性格などの心理作用が作用して、認識内容がその人特有の内容に形成されます。この心理的な形成作用を「行」(サンカーラ)といいます。この場合は、サンカーラを心理的な側面に限定していますが、しかしサンカーラは、心理的な形成力ばかりでなく、物理的な形成力も含むものでして、広義のサンカーラは、五蘊の全体を含むものです。しかしこの場合は、色・受・想・識の四蘊は別出されていますので、四蘊に含まれないサンカーラ、主として心理的な形成力を、この場合の「行」としているのであります。
なお五蘊の最後の「識」は「判断」の意味でして、「了別りょうべつ」(区別して認識する作用)と説明されています。識はいわゆる認識主観を意味するのです。
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ともかくサンカーラは形成する力ですが、それが無常であるというのが「諸行無常」の教説です。「無常」(アニッチャ)とは「常住でない」ということで、たえず変化しているという意味です。この場合、「諸行は無常である」といって、形成する力を無常の主語にしているのは、流動的でない存在は無常の主語にはなり得ないからです。西洋でも「万物流転」といって、流転する主語には「万物」 というような把捉できないものを立てています。これを厳密にいえば、「無常」には個別的な主語を立てることができないということです。
例えば「私は無常である」といっても、その「私」を、変わらない形・・・・・・で考えているとしたら、「私は無常である」という立言は、まったく意味を持たないことになると思います。しかし私が変わるとしたら、変わるものを「私」と言いうるでしょうか。そのことは、「私は無常である」という立言を「私は死んだ」と言いかえて見ると、はっきりすると思います。すなわち「私は死んだ」とは立言できないのです。私が存在する限りは、私は死んでいないわけですし、しかも死んでしまえば、私はもはや存在しないのですから、「私は死んだ」と立言できないことは明らかです。
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以上のように自分を見る時は、自分を固定的に見てるのでして、若い時の自分と老人になった自分とは「同じである」と見ているのです。このような自分の理解は、識の立場の理解でして、般若の理解ではないのです。般若の理解は、生まれた時の自分が刻々に変化して、現在の自分になったのであり、その間には、つながりがありながら同時に変わっていることを「ありのままに」知ることです。しかし「つながっていながら同時に変わっている」という表現は、論理的には明らかに矛盾です。論理的な理解は「識」(ヴィジュニャーナ)の理解でして、これは対象を割り切って理解します。・・・すなわち人間の心の中において、善悪は分けられるものであると同時に分けられないものでもあるのです。この「善悪不二」の在り方は、識の理解では理解できないのです。同時に青年が老人になるときのその「つながりと断絶」も、識の理解では届かない暗黒が残ると思うのです。・・・われわれの人格は分裂もしませんし、少しの不安も感じていません。それは、その時の「変わりつつ、つながっている自己」とは、縁起のよって成立している自己存在を意味するのでありますが、この縁も般若の智によって知られるものです。

無常とサンカーラー

無常を無常と正しく知ることが般若の作用でありますが、サンカーラー(諸行)はどうして無常であるのかという問題が残っていますので、この点について一言しておきます
さきにサンカーラーは「形成力」であるといいましたが、これは同時に「こわれる力」であるということもできます。無常の力には、この作ることとこわれることとの二面性があります。これは無常がしばしば「死」によって示されることからも、無常がこわれる力であることを示しています。
存在(サンカーラー)に無常の力があるという見方は、世界の変化の原因を存在自身の中に認める考え方であります。キリスト教のように「創造神」を立てる宗教では、世界の生滅変化の原因は神にあると見るわけです。あるいはサーンキャ学派のように、世界成立の第一原因を立てる立場では、世界を変化させる力は、この第一原因から出てくると見るわけです。しかし釈尊は、世界を創造する造物主や、世界変化の第一原因を認めなかったのですから、現実の生滅変化する力は、どこから生ずるかを考えて、存在そのものに無常の力が内在していると考えたのです。すなわち「諸行無常」という場合に、一切を変化せしめる無常の力は、サンカーラーにそなわっていると見るのです。むしろサンカーラーが無常力そのものであると考えるのです。すなわち存在自身に、その存在をこわす力があると見るのです。
したがって、現象世界は、結果の側面から見れば「諸法の集まり」であり、一切が法であります。これにたいして、この世界を原因の面から見れば、一切はすべてまさに変化せんとする位置にありますから、一切はサンカーラーであり、諸行無常の世界であります。すなわち法には無常の力がそなわっており、その力が潜在的であるときが法であり、顕在化したときがサンカーラーであるということができます。
そしてサンカーラーを立場として立言するときには、「諸行無常」といって「無常」が表面に出ますが、法を立場として立言するときには、「諸法無我」といって「無我」が表面に出てきます。無我とは実体がないということであります。このように同一の存在に、動的な面と静的な面とがあるのは、時間に動と静との二面があることとも関係します。

その他の言葉

○これは、四聖諦でいう苦諦(苦の真理)とは、凡夫の理解している苦ではなく、聖者の理解する苦であるからです。真の苦を知るのは、般若の智慧でありますから、般若の智慧によって苦を洞察するとき、真の意味の苦が知られるという意味です。そして真の苦を知ったとき、苦は断ぜられるのです。

○・・・空とは「虚無」という意味ではないのでして、あらゆるものに変わりうる「融通性」のことです。


(「第一章 仏教の基本的立場とは 二 般若の意味)から
『仏教入門』(春秋社 2003年)平川彰著 
 
更新2007年4月21日