今月の言葉抄 2008年11月

家守綺譚

家守綺譚いえもりきたん』 (梨木香歩なしきかほ著 新潮社 2004年1月発行) を読んだ。まったく時代離れした小説である。読んでいると、現代の喧騒・ストレスから離れて、奇妙に静謐な時、 ゆったり時間の流れる時を味わうことができる。
時代設定は明治の中頃であろうか。表紙の裏に「左は、学士綿貫征四郎の著述せしもの。」と記され、 古い著述の体裁の形をとっている。登場人物は、大学を出たばかりで作家志望の綿貫征四郎と犬のゴロー、 気のいい隣のおばさんと裏山の寺の和尚、それに大学時代の友人で湖でボートの練習中に死んだ高堂、河童、 小鬼、狸、等々異界の者たち。京都郊外の四季折々のなかで、これらが交流する日常を書き綴ったものである。
文章は簡潔で美しい。そのなかの「ホトトギス」と題する一章をここに引用します。(管理人)

ホトトギス

外の明るさに、和紙を濾過したような清澄さが感じられる。いいか、この明るさを、秋というのだ、と共に散歩しながらゴローに 教える。ゴローは眼を閉じ鼻面を高く上げ、心なしその気配を味わっているかの如く見えた。私がゴローで一番感心するのは、 斯くの如く風雅を解するところである。犬は買い主に似るというのは、まことにもって真実であると感じ入る。
疎水べりの土手にかなりの数の茸が出てきている。食えるものなら採ってみるが茸の毒は恐ろしいと聞いているので ―  登山部の誰某が以前それで死んだ ― 未練たらしく横目で見ながら通り過ぎる。
疎水に掛かる橋の上を和尚がこちらに向かって歩いてくる。
― おう、久しいなあ。
― 野分けの前に会いましたよ。
― そうだったか。おおそうだ。裏の赤松林に今松茸が湧くようにでている。採っておいてくれ。どうせ暇だろう。 今日は晩飯を驕ろう。松茸のすき焼きだ。
どうせ暇だろう、は引っかかったが、すき焼きには思わず生唾が出てくる、それを飲み込んで、
― けれど、すき焼きといえば肉も入っているのでしょう。和尚がそういう生臭いものを、いいのですか。
― 生臭いものも食わねば衆生の気持ちは分からんじゃろうが。衆生の気持ちに近づかねば衆生は救えんよ。
思わず納得するが、考えれば力ずくな理屈である。
― けれど、そのなりで肉を買うのですか。よければ私が。
― それには及ばん。今日の法事は駅前の肉屋だ。
それを見越しての誘いだったのか、だがまさか法事の礼に肉を頂戴するのだろうか。想像するだに気味の悪い絵である。 あまりその辺のことは追求しないでおこうと、
― じゃあ、裏山で松茸を採って待っています。
とうなずきあい、二手に分かれた。
狸に化かされた一件から、山寺へ上る坂道は多少緊張するが、狸も犬に弱いに違いないのでゴローがいると心丈夫である。
境内に入り、そのまま裏へ回る。厨の裏に無造作に掛けてある籠を一つ手に取り、裏木戸を開け、赤松林というよりは、赤松 の混じった雑木林の小径を踏んで行く。
秋の野山の空気は格別である。ことに木々の中に松が入っていると、清新の気が鋭さを増し、心地よい。夏の野山は その生命力でこちらをとって食わんばかり。冬は厳しくて跳ね飛ばされるよう、春は優しく柔らかでもやもやとしている。 何といって、透明度の高さで秋の野山に如くはない。時折空気を震わすような鹿の鳴き声など響くのを聞くと、日本人なら誰でも 百人一首中の鹿の声に寄せたあの歌を口ずさみたくなるだろう。
さて松茸である。
まだ学生の頃、友人と連れ立って松江まで行く途中、丹波の友人の実家で松茸狩りをしたことがある。松茸狩りはそれ以来 だが、吉田山を散策中にそれとおぼしきものを発見、匂いもたぶん間違いなかろう、というので食うてみたら違っていた。 そのときは一両日の腹痛ですんだが、あれは猛毒の何とかいう茸で、松茸とは似ても似つかないではないか、しかも腹痛だけで すんだとは、ずいぶん野蛮な内臓であると、菌類が専門の友人から馬鹿にされた。それ以来茸の判別には多少自身を失っている。 しかし和尚がああもしっかり裏山に出ていると断言したのだから、まあ、まず間違いなかろう。たとえ間違えたにしても、 食べる段になって和尚がそれは違うと云ってくれるだろう。
松茸というのはこういうところに生えるのだ、とゴローに云って聞かせながら、足先で赤松の根方の、腐葉土の積もった ところなどを掘ってみせる、すると黒っぽく丸い、明らかに茸の仲間ではあるのだが、松茸とはとても云えない何かが飛び出して くる。茶色い粉などを吹きながら。
これは松茸、ではない。念のため、ゴローに断っておく。ゴローは最初から興味なさそうにしていたのだが、ふいっと そばを離れると、どこかに消えてしまった。仕方がない。こうなれば自力で何とか、と眼を皿のようにして辺りを見ていると、 今行ったはずのゴローが帰ってくる。一匹ではない。連れがいる。犬ではない。人のようだ。尼さんだ。なんだか足許が ふらついている。
― 具合でも悪いのですか。
思わず声を掛ける。
― 苦しいのです。吐き気がして。頭が割れんばかり。
― 大丈夫ですか。
おろおろして思わずそう云ってしまったが、馬鹿なことを云っていると自分でも思った。見るからに大丈夫ではないし、 本人もそう訴えているのに。
― 少し、お堂で、休ませていただけませんか。
年若い尼さんはそう云ってよろよろと近づいてくる。
― 和尚は留守ですが、お堂で休むくらいならかまわんでしょう。
そう応えて、とりあえず尼さんを抱えるようにして林を抜け、お堂に回る。何とか段を昇り、中に入る。隅に置いてある 檀家用の座布団を敷く。
― 横になったほうが楽ですか。
顔色悪く顔をしかめ、肩で息をしている尼さんにそう云うと、尼さんは阿弥陀如来像の座しておられる方へ一礼し、失礼、 と云って横になった。それからこちらがぎょっとするほどの七転八倒の苦しみ。どうしたらいいのだろうと、おろおろしていると、
― 後生ですから、南無妙法蓮華経、と唱えながらさすってはいただけませんか。
これだけ云うのを、何度も息を継ぎながら、ようやくの思いで云うのである。
― 分かりました。
と、背中をさすってやる。南無妙法蓮華経、と呟く。一つ呟くと、驚いたことに、尼さんの姿がだんだんに変化し、手で 触っている繻子(しゅす)の手触りが、木綿のざらざらしたものになってくる。農夫のようなのだ。ひえっと、思わず手を 引っ込めようとすると、
― 続けてください。
と野太い声で嘆願する。おそるおそる、同じように、南無妙法蓮華経、と、呟きながらさすってやると、今度は硬い鱗の ようなものに変わった。落ち武者のようだ。不意にも後ずさりすると、
― 続けてくださらんか。
と、必死の声で訴える。仕方なく、同じように続けると、南無妙法蓮華経とさするたび、次から次へと、風体を変えていった。
これは人間のはずはない。しかしいかな化け物であっても、このように目の前で苦しんでいるものを、手を差し伸べないで おけるものか。
終いには汗みずくになって、必死でさすり続け、称え続けていると、七転八倒も少しずつ治まってきて、やがて化け物は元の 尼さんの姿に戻った。尼さんは大きくため息をつくと座り直し、深々と礼をした。そして何も云わず、立ち上がり、そっと出ていった。
あまりのことに私は後を追うこともせず、ただ呆然と見送った。
気が付けばもう日は大分傾いていた。
― なんだここにいたのか。
和尚が庫裏の方へ続く戸を開いて、びっくりしたように云った。私はようやく、今起こった顛末を述べた。和尚は別に 怪しむ風もなく、淡々と聞いていたが、
― それはやはり狸の類じゃ。比叡の山には信心深い狸がおっての、山を回る間に畜生の身でありながら、成仏できない 行き倒れの魂魄を背負ってしまうのだ。終にはどうしょうもなくなって寺へ駆け込んでくる。そうか、ゴローが手引きしたのか。 徳を積んだな。あれはなかなかどうして大したやつだ。
狸も健気なやつではないか。
― そういうわけで、松茸がまだなのです。
― いや、籠にいっぱい、入って置いてあったよ。そこにもってきた。
和尚が指さす方を見れば、戸の傍らに、確かに山に置いてきたはずの籠がおいてあった。松茸がいっぱい入っている。 その上に斑(ふ)の入った花の一茎が挿してある。
― あの花は。
― ホトトギスだ。あの斑点が鳥のホトトギスの腹に似せているのを見なして、付いた名前らしい。化かして悪かった ということだろう。粋なことをする。
私はなんだか胸を突かれたようだった。回復したばかりのよろよろした足取りで、律儀に松茸を集めてきたのか。 何をそんなことを気にせずともいいのだ。何度でもさすってやる。何度でも称えてやる。
思わず和尚を振り向くと、そこにはもう誰もいなかった。
― 肉を貰ってきたぞ、葱も豆腐もある。早く食おう。腹が減った。
和尚の大声が、厨の方から響いた。
更新11月30日