今月の言葉抄 2009年12月

タルムードの理想と目標

しかし、タルムードの限りなく続く重要な意義は、いまここに挙げただけではない。もっとも大きな見方をすれば、 タルムードは、「良好な社会」、「神の都」、「神の王国のもとで完成された世界」、「倫理的な生活」といったさまざまな 言い方のできるものを築き上げようという、史上かってない感動的な試みの一つなのである。
経済的、社会的現実を忘れず、それに圧倒されることもなく、 自分たちが住んでいる時代のさし迫った必要性を無視する こともなく、しかも人間が受けついできた弱さを考えながら、ラビたちは類いまれな粘り強さで、道徳的な目的と規範に支配される 集団生活を送るという目標を追求していた。
この目標を達成するには、その共同体を構成する一人一人の人間を教育し、人格を高めることが必要だとわかっていた。 それだけでなく、その目的を支える社会的条件をつくり、制度を設けることが必要だということも、ラビたちは悟っていた。 彼らは求めるプログラムの遂行にあたって、全体主義と個人主義の板挟みにならないようにした。彼らの考え方は、今日で言えば、 神を中心とする考え方とでも言えるものだった。もっとも、彼らが人間的なものにどれだけ動かされ、関心をもっていたかということは いくら誇張してもしすぎることはない。ラビたちが使う言葉は基本的に宗教的なものであり、その根底をなす考えは神学的な枠に はめられたものだった。
ラビたちの目的は、すでに述べたように、社会的、実践的なものだったが、彼らの判断基準や原則は基本的に倫理的で道徳的な ものだった。命を究極的に高めるものは、義と正義に見いだされる、と預言者は言っている(『イザヤ書』5:16)。哲学者や小説家が 創造的な思考をめぐらせて描く理想郷(ユートピア)は、自分たちの社会の欠陥に気づいて、その改善を促す刺激をもとめる学生や 読者たちの心を捉えてきた。タルムードにおいては、法律的で倫理的な制度が、現実の共同体とかけ離れないで、しかも、常に 理想的な目標を前面にかかげているのである。
しばしば指摘されるように、聖書が西欧文明の中で尊重されても読まれないとするならば、なおさらタルムードは見向きも されず、研究もされていないと言えるだろう。人間の魂が産みだしたすぐれた古典の中で、世の人々にもっとも知られず、したがって 学問を修めた人たちの思想に与えた影響がもっとも少ないのがタルムードである。混乱やジレンマの中で本来なら与えてくれるであろう 刺激も、タルムードのページが開かれることもないために、隠されたまま表に出てこないのだ。タルムードに満ち溢れている倫理的な 教えや、そこに述べられ、具体的に示されている偉大な実験の記録は、人類がいま取り組んでいる問題に幾筋もの重要な光を投げ かけてくれるはずのものである。
さらに、タルムードの知恵にはもう一つ永遠の価値があることがうかがわれる。

学ぶ価値のあるタルムードの方法

タルムードは、われわれの前にその内容を見せてくれるだけでなく、方法にも重点が置かれていることを 教えてくれる。これまで見てきたように、タルムードが書かれた動機は、共同体とそこに住む個人の倫理生活を成就させることだった。 この目標がどのようなものであるかということと、そこに到達するのに用いられる方法とは、タルムードの中でさまざまに考察されて いる。
基本的に言えば、タルムードのアプローチは合理的なものである。むろん、信心深いラビたちは、合理的な証拠に完全に 従っているとはいえないことも心から信じていた。また、情に厚い彼らの、伝統を重んじる心や人々に対する思いやりは深く、 感動的なものだった。その熱い心を証明する事実はいくらでも挙げることができる。だが、彼らが知性を重んじる人たちだったことも 同様に確かなのだ。知的な考え方をし、彼らの用いる方法は合理的なものだった。
ある一人の思慮深い学者は、最近著した本の中でユダヤ教について次のように述べている。「ユダヤ教は合理主義にかたまっていた わけではなかったが、かといって非合理主義によって自らを正当化するようなことは決してなかった。
宗教が、宇宙の深い神秘の前に畏れもなく立ち、宇宙の創造主のまえで敬虔に頭を垂れることもなく、天の父に愛をもって 応えず、人間の弱さや無力さにうちひしがれた心に応えることもなかったら、そのような宗教には偉大な信仰の道しるべとなるものが 何一つない。しかしまた、宗教が、その前提を調べることもなく、理性を軽蔑し、あらゆる合理的な修練の目指すものや敬虔な行為を 認めず、知性の抑制作用を捨て、調査や分析に反対して、直感や怪しげに心に探りを入れることだけですすめられるものであったら、 その宗教は極端に走りすぎ、迷信におぼれやすく、たえずその精神も心も失う危険性がある。いかに合理的な秩序であっても、自身の 利益のためになる深い感情をくみ取る術を知らなければ、人々の感情を巧みに操る不合理な教義に打ち勝つことはできないだろう。 理性は、われわれ人間が感情やドグマの力に抑えこまれるのを防いでくれる。
感情は、頭で認識したものや心で洞察したものを個人の生活や社会機構の現実に置き換えさせる力を与えてくれる。いまここで 難しい学問の話をしているのではない。人間の知力を高めなければならないのなら、 心も高めなければならない。タルムードの世界で、 われわれがその教えに目を開いてみるならば、いうなればバランスのとれた人間になるためのすぐれたガイドブックがそこにある。

ユダヤ民族を守ったもの

シナゴーグの行事の進め方や個人の宗教的な慣行に見られるユダヤ人の生活形態は、大部分がタルムードから得たものだ ということはすでに見てきた通りである。宗教の儀式的な側面を愚弄することはいささか教養深く見えるかもしれないが、戒律や 象徴的なものはユダヤ教の存続の歴史に重要な役割を果たしてきた。ミルトン・スタインバークの言葉を借りれば、「一民族の 思想と理想がユダヤ教に意味をあたえている。しかしこの民族が守ってきた集団としての慣習がユダヤ教に命をあたえている」 のである。
周囲の社会から排除されたユダヤ民族は、自分たち独自の手続きや慣習によって自身の環境をつくりあげることができた。 離散の身となって、ユダヤ人は独自の、いわゆる「代償の文化」と呼ばれるものをもった。
ラビたちの律法が与えてくれた形式は空っぽの器ではなかった。その中に、習慣化されても完全には窒息しない精神が 注ぎ込まれていた。そうした形式が義務感を呼び起し、中庸な精神を築く道をつくった。それはまた、個人と伝統を結ぶ架け橋となり、 ユダヤ人に過去を思い起こさせ、未来に購いの約束があるという希望をかきたてさせた。
さらに、ラビたちの律法がもたらした形式が、耐え難いほどに無味乾燥になっていたかもしれない生活に祭りとシンボルの 詩的な潤いをあたえ、四方に散り散りになっていた共同体を一つにまとめた。最後の信仰の名残さえも消えてしまいかねない 状況の中で、民族が自尊心と尊厳を保ちつづける力となったのも、その形式によって相互扶助と責任感のある態度が培われてきた からだった。
戒律は、歴史的なアイデンティティーとそれが生き続いてきた証の表れだった。戒律があったからこそ、ユダヤ人は暗い 現実に押し潰されることもなく、より広い、自由な視野に立って自分を見つめることができたのだ。
だが、それだけではなかった。ユダヤ人の戒律は彼らに託された義務を表すものだった。ユダヤ人は、人間のさまざまな 事柄にかかわる神の存在と、人間の手による法規に優る神の律法のすばらしさを証言するために、歴史の舞台にすえられたのだ。 どのような社会的不備を押しつけられ、肉体的な堕落におとしめられたとして、ユダヤ人自身に与えられた広大無辺な意識が 消し去られるものではない。
ユダヤ人の社会的、肉体的運命がどのようなものであったとしても、民族が根こそぎにされることは決してなかった。 彼らは耐え抜き、いわば、自身の中に根を張ったのだ。彼らは新しい住まいの地をもとめなければならない運命にたびたび さらされた。しかし、こうして居所を変えたからといって、ユダヤ人がその歴史と伝統とともに維持してきたものが断ち切られる ことはなかった。宗教的な狂気や政治的な騒乱、あるいは経済的な危機によって、追放の身となるたびに、ユダヤ人は安定をはかる 体制とともに、生きる道を確立した。ユダヤ人が集まるところには、かならず秩序ある共同体が根をおろした。「さまよえる ユダヤ人」という言葉は、流浪の旅を強いられた姿を外から眺めただけで判断した人々がつくりだしたものにちがいない。
ユダヤ人の記憶に映るその歴史は、騒乱と不安定のただ中にあって、尊敬された指導者に支配され、万人に認められた規範と 手続きの則って、確立した律法に従いながら、共同体をつくりあげてきた記録なのである。

『タルムードの世界』モリス・アドラー著 河合一充訳 ミルトス 1991年7月 「十三章タルムードの永遠の価値」より


「イエス伝」を書いていて、紀元一世紀当時のユダヤ人たちがどのような考え方をしていたか知りたかった。 それはイエスの背景を知ることであり、またイエスが何故ユダヤ人たちに受け入れられなかったかを知ることでもある。 これを読んで分かった気がしたのである。ユダヤ人の理想は、地上に天の国を作ることだった。
「万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。」(『イザヤ書』5:16)
(管理人)
更新2009年12月15日