『パンセ』を読む

第七章 道徳と教義

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A.P.R.(1)始め。
不可解を説明したのちに。
人間の偉大さと惨めさとはこんなにも明らかであるから、真の宗教はどうしてもわれわれに、人間のなかには何らかの偉大さの 大きな原理が存在し、また惨めさの大きな原理が存在することを教えてくれなければならない。
すなわ、真の宗教は、われわれに、これらの驚くべき対立を説明してくれなければならないのである。
人間を幸福にするためには、真の宗教は彼に、神が存在すること、人は神を愛さなければならないこと、われわれの真の 至福は神のなかに在ることであり、われわれの唯一の不幸は神より離れていることであるということを示さなければならない。 そしてその宗教は、われわれが暗黒に満ち、そのために神を知り神を愛することを妨げられており、したがってわれわれの義務は われわれに神を愛することを義務づけるにもかかわらず、われわれの邪欲は、神を愛することからわれわれをそむかせているの であるから、われわれは不義に満ちているということを認めなければならない。その宗教は、神に対し、またわれわれ自身の 善に対してわれわれが持っているこれらの反対を説明してくれなければならない。その宗教は、われわれに、このような無能に対する 救済と、その救済を得る手段とを教えてくれなければならないのである。ここで世界じゅうのあらゆる宗教を吟味して、キリスト教 以外に果たしてこれらの点を満足させるものがあるかどうかを考えてみてほしい。
われわれのうちにある善を、いっさいの善であるといってわれわれに提示する哲学者たちが、果たしてそれだろうか。 真の善とは、そんなものだろうか。彼らは果たしてわれわれの悪に対する救済を見いだしたのだろうか。人間を神と等しい地位に 置いたことによって、人間の思い上がりを癒したというのであろうか。われわれを獣と同列に置いた人たち、そしてまた、 地上の快楽を、永遠においてさえもわれわれのいっさいの善であるとして与えたマホメット教徒たちは、果たしてわれわれの邪欲に 対する救済をもたらしたのでだろうか。
それならば、どの宗教がわれわれに傲慢(ごうまん)と邪欲とを癒すことを教えてくれるのだろう。いったいどの宗教が われわれに、われわれの善、われわれの義務、これらのものからわれわれを遠ざける弱さ、その弱さの原因、その弱さを癒し得る 手段を教えてくれるのだろう。これは、他のすべての宗教にできないことであった。では、神の知恵のなすところを見よう。
神の知恵は言う。「ああ、人よ、人間から真理をも慰めをも期待してはいけない。私はあなたがたを形づくったものであり、 あなたがたが何ものであるかを教えることのできるのは、私一人である。
「だが、今あなたがたは、私があなたがたを形づくったときの状態にはないのである。私は人間を清く、罪なく、完全に創造した。 彼を光と知性とで満たした。彼に私の栄光と驚異とを伝えた。そのとき、人の目は、神の威容を見ることができた。そのとき彼は、 彼を盲目にする暗黒のなかにも、彼を苦しめる死と惨めさとのなかにもいなかった。
「だが、彼はこれほどまでの栄光を、思い上がりに陥らないでは保つことができなかったのである。彼は、自分で自分の中心 となり、私の助けから独立しようと欲した。彼は、私の支配からのがれ出た。そして、自分のなかに幸福を見いだそうとの欲求によって、 自分を私と等しいものとしたので、私は彼をそのなすがままにまかせた。そして、それまで彼に従っていたもろもろの被造物をそむかせ、 彼の敵とした。その結果、今日では、人間は獣に似たものとなり、私からあんなに遠く離れているので、その創造主のおぼろげな光が かろうじて残っているのにすぎないものとなった。これほどまでに、彼のあらゆる知識は、消し去られるか、かき乱されてしまったのだ。 理性から独立して、しばしば理性の主となった感覚は、理性を快楽の追求へとかり立てた。すべての被造物は、あるいは彼を苦しめ、 あるいは彼を誘惑する。そして、あるいは暴力によって彼を従わせ、あるいは優しさによって誘惑しながら、彼を支配する。この 魅惑による支配のほうは、いっそう恐ろしく絶対的なものである。
「私があなたがたに啓示するこの原理によって、あなたがたは、すべての人を驚かせ、あんなにさまざまの意見に分かれさせた、 あのように多くの対立の生じた原因を知ることができるのである。今は、あんなにも多く惨めなことの試練に よっても窒息させることのできない偉大さと栄光とのすべての動きを観察するがいい。そして、その原因が、 他の本性になければならないものであるかどうかを考えてみるがいい」

A.P.R.明日のため。
擬人法。
「ああ、人よ、あなたがたが、あなたがた自身のなかに、あなたがたの惨めさに対する救済を求めても むだである。あなたがたのすべての光は、あなたがたが真理や善やを見いだすのは、あなたがた自身のなか ではないのだと悟るところまでしか到達できないのである。
「哲学者たちは、あなたがたにそれを約束したのだが、彼らにはそれができなかった。
「彼らは、何があなたがたの真の善であり、何が[あなたがたの真の状態]なのであるかを知らないのだ。
「彼らが知りさえもしなかったあなたがたの悪に対して、どうして彼らにその救済を講じることができた であろう。あなたがたの主な病は、あなたがたを神から引き離す傲慢、あなたがたを地上に縛りつける邪欲 である。それなのに、彼らは、これらの病のうちの少なくとも一つを保たせる以外の何もしなかった。もし彼らが あなたがたに神を目的として与えたとしたら、それはあなたの尊大を助長するだけであった。彼らは、あなたがた が、本性の上から神に似ており、神にかなっていると、あなたがたに思い込ませた。また、このような思い上がった 主張のむなしさを悟った人たちは、あなたがたの本性が獣のそれと等しいとあなたがたに悟らせることによって、 あなたがたを他の断崖に投げ込んだ。そして、あなたがたの善を、動物の分け前である邪欲のなかに求めるように、 あなたがたをしむけた。こうしたものは、あなたがたの不義—これらの賢者たちの知らなかったあなたがたの 不義を癒す道ではない。あなたがたが何であるかを、あなたがたに悟らせることができるのは、私一人である・・・」

アダム、イエス・キリスト。
——
もしあなたがたが神に結ばれるとしたら、これは恩恵によるのであって、本性によるのではない。
——
もしあなたがたがへりくだせられるとしたら、それは悔悛(かいしゅん)によるのであって、本性に よるのではない。
——
このようにして、この二重の能力は・・・
——
あなたがたは、あなたがたの創造されたときの状態にはいない。
——
これらの二つの状態が啓示されたからには、あなたがたがそれらを認めないわけにはいかない。
あなたがたの動きについて行き、あなたがた自身を観察せよ。そして、そこに、これら二つの本性の生きたしるしを 見いださないかどうかを見よ。
——
こんなに多くの矛盾が、単一の主体に見いだされるものだろうか。
——
不可解。
すべて不可解なものは、それでも依然として存在する。無限の数。有限に等しい無限の空間。
——
神がわれわれに結びつくなどということは信じられない。
そのような考えは、われわれの卑しさを見ることだけによって引き出されたものである。だが、もし君たちがほんとうにまじめに 見ているのだったら、私と同じように遠くまで見ていき、神のあわれみが、果たしてわれわれを神に結ばれうるものとすることが 可能かどうかさえ、われわれ自身で知ることはできないほど、われわれは事実卑しいのであるということを認めるがいい。なぜなら、 自分自身がこんなに弱いことを認めているこの動物が、神のあわれみを計量し、自分で気まぐれに思いついた限界をそれにあてはめる 権利をどこから得たのかを知りたいものである。この動物は神が何であるかを知ることがあんなにも少ないので、彼自身が何であるかも 知らないのである。そして、自分自身の状態を見て困惑したあげく、自分と神との交わりにあずからせることなどは、神にできないと あえて言うのである。だが、私は彼にたずねたい。神は、彼が神を知って、神を愛すること以外の何を彼に求めておられるのだろう。 彼には生来、愛と認識との能力がある以上、どうして彼から知られ、愛される対象に神がなれないと決め込んでいるのだろう。 人が少なくとも、自分の存在していることと、何かを愛していることとを知っていることには、疑いがない。それならば、もし彼が、 自分がいる暗黒のなかで何ものかを認め、そしてもし地上の事物のあいだに何か愛の対象を見いだしているならば、まして神が彼に その本質の光をいくらかお与えになった場合には、神がわれわれと交わろうとなさるその仕方で、神を知り、神を愛することが、 どうして彼にできないというのだろう。したがって、この種の議論は、一見謙虚さにもとづいているように見えても、がまんのならない 思い上がりを伴っていることは、疑いえない。すなわちわれわれは、自分が何であるかを自分では知っていないので、われわれには それを神から教えてもらう以外のことはできないということを、われわれに告白させるような謙虚さでなければ、誠意あるものでも、 理にかなったものでもないのである。
——
「私はあなたがたが、あなたがたの信仰を理由なく私に従わせるようになどとは思っていない。そして私は、あなたがたを 圧倒的に服従させようなどとも思っていない。私はまた、あなたがたに、すべての事物の理由を説明しようとも思っていない。 そして、これらの相反するものを調和させるためには、私は、私のうちにある神性のしるしを、説得力のある証拠によってあなたがたに はっきり見せようと思っているのである。それらの神性のしるしは、私が何であるかをあなたがたに納得させ、そして、あなたがたが 拒むことのできない不思議や証拠によって、私に権威を与えるであろう。その上で、私があなたがたに教える事柄を、あなたがたが信じる ようにさせようと思っているのである。そのときには、それらの事柄が果たして存在するか否かを、あなたがた自身で知ることができない という以外には、それらを拒む別の理由を、あなたがたはそこに見いださないであろう」
神は人をあがない、神を求める人たちに対して救いを開こうとされた。だが人々は、みずからそれにあまりにも値しないものと なってしまったので、受ける資格のないものに対するあわれみによって、神がある人たちにお与えになるものを、他の人たちには、 そのかたくなさのために拒まれるというのは、正しいことである。
もし神が、最もかたくな人たちの強情を克服しようとのぞまれたのならば、神の本質の真理を彼らが疑いえないほどに明白に、 彼らに神自身を現すことで、それをなさったであろう。あたかも、世の終わりの日に、死人もよみがえり、盲人もそれを見るであろ ほどの激しい雷鳴と、自然の崩壊とによって現われるであろうように。
神はその柔和な来臨においては、そのような仕方で現われようとはのぞまれなかった。なぜなら、あんなに多くの人々が神の 寛大さに値しなくなっているので、神は、彼らののぞまない善の欠けたままで、彼らを放っておこうとされのである。したがって、 神が明らかな神の仕方で、すべての人を納得させうるほど絶対的な方法で現われたもうのは、正しくなかった。だが、神が、真心から 神を求めている人たちからも認められないほど隠れた方法で来られるのも、正しくなかった。神は、このような人たちからは完全に 知られるように、みずからなろうとのぞまれた。このようにして、全心で神を求めている人たちには明らかに現われ、全心で神を 避けている人たちには隠れようとのぞまれたために、神は、神についての認識を加減して、神のしるしを、神を求めている人たち には見うるように、求めていない人たちには見えないように、お与えになったのである。

(1)断章416の注(1)参照。

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最終公開日2008年4月19日