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死後の世界はあるか

二十世紀の二大哲学者の見解

唯物論者ではないが、バートランド・ラッセルは「感覚資料」sense-data によって精神を説明し、人間を構成している記憶や慣習は死によって頭脳とともに解消されると考えている。彼は哲学者としてそれが証明できるとは断定しないが、そう考えた方が確からしいというのである。ラッセルは「来世に生命ということについて信仰をおこすことは、合理的な議論ではなくて、感情である」と言う。この見方は現代の、ことにわが国の一部の人たちの共感をかちえるであろう。それにもかかわらず、彼のこうした考え方そのものが「合理的な議論ではなくて、感情である」という議論もまたおなじように成り立ちそうである。ラッセルと同じように二十世紀前半の最大の知性を代表する一人としてアンリ・ベルグソンの意見を聞いてみよう。

ベルグソンは「霊魂と肉体」を論じた講演の中で、次のように述べている。 「もし頭脳の働きが意識全体に相当するとしたら、もし頭脳に属ずるものと精神に属するものとが対等であるとしたら、意識は頭脳と運命をともにし、死が万事の終わりであるということにもなろう・・・・・ところが前に説明を試みたように、もし精神の生命が頭脳の生命からはみ出るとしたら、もし頭脳は意識の中で行われていることの一小部分だけを運動に移すにすぎないとすれば、死後の存続は確からしいということになり、それを肯定する人よりもむしろ否定する人の方が証明を必要とするということになる。なぜかというと、死後に意識が消滅すると信ずるための唯一の理由は肉体が破壊されるというだけのことなのだが、もし意識の大部分が肉体から独立しているということが確証されるとすれば、そういう理由はもはや価値がない。」

今から約半世紀前に言われたベルグソンのこの言葉は、その後科学的な方法で実験的に確かめられた(P198)。とにかくここでは、肉体から独立して精神の働きがあり得るかどうか、またしたがって肉体の死んだ後に精神が存続し得るかどうかという問いに対して、今世紀の二大哲学者が二つの相反した答えを出しているという事実を指摘するにとどめておこう。しかも数先年前と同じく、今でもそれを一方的に断定してしまうきめ手のないことも注意しておかなけばならない。

以下は、上記P198 の紹介。

実験的方法

またこれとは別に、「実験的」な方法で霊魂の存在を確認するという一種の科学が十九世紀中頃以来ヨーロッパやアメリカで行われた。霊魂を通じて、または写真の乾板に写すことによって、死者の存在が確認されるという実験なのである。これらの実験のうちにはたしかにインチキも発見されたが、またそのすべてがインチキであると断言することもできない。死者の存在をわれわれの知覚のうえで認めるという考えは古くから、広く世界の各地で信ぜられていた。死人の霊を呼び出して霊媒の口を通じて語らせる口寄せは日本各地で今なお行われている。これらの現象にどれだけの信憑性があるかということになると、実は確実な断定をくだせないと言う外はない。

死者の霊が実在するかしないかということを断定するきめ手がないのである。実をいうと、われわれにしても、超感覚的な体験をした覚えがないわけではない。親しい人が遠くで死んだときに超感覚的な方法で知らせを受けたという体験を持っている人が案外多い。ただしそれが本当に超感覚的体験であったのか、それともあとからの思いなしであったかということは、必ずしも確実ではない。こういう例をいくつ集めても厳密な理論を構成することはできない。

そこでもっと基本的な問題に戻って、感覚器官を通じない精神活動が可能かどうかという実験を試みたのが米国のJ・Bラインたちのとった方法で、超心理学と呼ばれている。従来の心理学は肉体の感覚器官に基づく自然法則よって説明される心理現象のみを扱ってきたが、超心理学ではそれ以上の現象を実験的に研究する。これらの現象をプシ現象とよび、知覚現象と運動現象とに分類し、知覚現象のうちには透視や未来の予見があり、運動現象は遠くにある物体に対して精神活動が影響を与えることである。

超心理学はもちろんはじめのうちは正統派の心理学者たちから白眼視されたが、以前の心霊学などとは違って、偶然性を排除する厳密な実験方法を確立したので、最近十年以来その科学的価値を疑うものがだんだん少なくなってきた。ただしライン自身も言うように超心理学はすでに解決した問題よりも、今後の研究を待つ問題の方がずっと多いのである。死後の生存についても超心理学はまだ断定する段階には達していない。しかし、少なくとも肉体的感覚を離れた知覚が可能であるという超心理学の実験は、すでに一般心理学者の承認を得たものと考えられる。この原則が確立されたとすれば、死後の存在を否定する説の有力な根拠ー肉体を離れて知覚はないとする説ーはもはや成り立たないことになる。このことは数十年前にベルグソンやH・ドリーシュたちが予言したところでもあった。しかし否定説の根拠が崩れたからといって、ただちに死後の存在を確認するわけには行かないのはもちろんである。

なお注目されることは、これらの超感覚的知覚の能力を認めることはインドのヨーガとも、またはヨーロッパの秘教とも内面的につながってくることである。この問題はまた改めて論ずる他はない。

最期に一言つけ加えておきたい。それはキリスト教の側の学者がすでに注意しているように、これらの心霊現象や超感覚的知覚はたんなる心理学的の問題にすぎず、生命や死の本質的な問題から見れば、派生的な第二義的な意義のものにすぎない。これらの実験によって、物質万能主義を粉砕することができるとしても、本質的な生死の問題はさらに崇高な生活体験を必要とすると言わなければならないであろう。仏陀がヨーガの濫用をいましめたのもこの意味であろう。

われわれの立場

以上のことを考えに入れて、一応ここにしめくくりの言葉を述べておきたい。

死を驚き恐れる気持ちはすべての人間に共通である。死に関する思念が人間の視野を広くしたことも事実であろう。目に見えるものの他に目に見えないものについて考え、限られた生涯を越えてはるかに拡がる時間を認め、人間的な存在以上に霊的な存在を感じとることを学ぶには、死の問題が絶好の機会を提供したのではなかったろうか。もちろん、かって一部の学者によって主張されたように、死者信仰がすべての宗教の起源であると断定するのは無理であろう。しかし少なくとも死の問題が宗教的思惟を発展させるための一つの重要な契機になっていたことは否定できないと思われる。

昔から人間は多く不死を求めて失敗した。中国の皇帝の偉力をもってしても不死の薬は手に入らなかった。神々のみが不死であり、人間は必ず死ぬべきものという真理をインド人もギリシャ人も認めないわけにはいかなかった。来世における肉体生活の存続を信ずることができない人々は、霊の不死を求めた。それは肉体的のもの、現世的のものを否定して不可見、永遠、神的なものが不死として認められた。生老病死の苦悩を脱却するために家を捨てて修行したゴータマの発見した不死はまさにそれであった。仏陀となってもその肉体は老い、病み、死んだ。それにもかかわらず仏陀は不死の甘露を獲得していたのであった。イエスも「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命をい愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」(ヨハネ伝12:24-25)と説いた。これらの言葉は今日もなお真理である。

(『死後の世界』岩波新書 渡辺照宏著 昭和34年6月20日第1刷発行)

気になる一言

最後の仏陀に関する記述は、違うのではないか。仏陀は不死の甘露を獲得したと思っていなかったであろう。自らの肉体が老い寿命がきて死ぬのを自ら知っていただろう。また、イエスの一粒の麦と永遠の命の説教は、今日でもなお真理であると思っているひとは、ごく一部の信者であろう。・・・管理人

   

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公開日2001年9月25日