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死後の世界をかいま見る

何年もの間私は、臨死体験の生理学的説明を求めてきた。しかし、何の収穫も得られていない。

いわゆる説明なるものは、いずれも私には不完全か不十分なものでしかないように思われる。こうした説明をしている者は、 たいてい、臨死体験者と話すことも、顔を見ることも、その話に耳を傾けることもしていない。

もしこの人たちが体験者に会って話したとすれば、 哲学者ウィリアム・ジェイムズが神秘主義について詳述した中で到達したのと同じ結論に到達するであろう。

ジェイムズはこれを認識的な体験と述べている。これは、知識の一形態であるため、自明なものである。きわめて個人的なことなので、 言葉では表現できないが、人生を大きく変えてしまう力をもつものなのである。

これは、純然たる光の体験なのである。


私は二十年以上もの間、臨死体験の研究の先端にいた。その研究の中で、何千人という数の人たちに、きわめて個人的な旅について聞いてきた。 その旅はいずこへの旅なのか。あの世への旅なのか。自分たちの信ずる宗教が教える天国への旅なのか、それとも、 出口のない状況に追い込まれたときだけに姿を現す脳の領域への旅なのであろうか。

私には、科学がその疑問に答えられるとは思えない。あらゆる角度から検討を加えることはできるが、その結果得られる答えは、 決して完全なものにはなるまい。たとえ臨死体験が実験室で再現できたとしても、どうなるものなのであろうか。 科学は、自ら見ることのできない旅について、さらに情報を加える以上のことはできないであろう。

さまざまな研究者が、これまで以上に厳密に臨死体験を研究する方法を提案している。 その提案は、得られる可能性のある結果を考えると興味深いが、医学倫理に抵触するため実行に移すことはできそうにもない。 こういう方法を考えるのはかまわないが、それを実行に移すとなると、患者のプライバシーを侵害し安全を脅かすことになるかもしれない。

もし臨死体験を研究している私たちが、人間の生命が危機に瀕しているときに研究のことを言い出したとしたら、 悪いイメージを与えてしまうであろう。人生の中で最も私的な最期の瞬間に割り込むことになるからである。

いかなる形であれ、準備万端整っている臨床的な業務を妨げることは、倫理的に許されるものではない。 そのうえ、本書で紹介してきた優れた研究によって明らかにされた以上のことが明確にできそうな研究は、ほとんどないのである。

・・・

確個とした科学的証拠がない中で、私は、自分の考えを聞かれることが多い。臨死体験は、死後の生命が存在する証拠なのか、というわけである。 それに対して私は、「そうです」と答える。

臨死体験について強く感じていることがいくつかある。そのひとつは、前に述べた、事実であることが証明できる体験である。 肉体を抜け出し、自分の命を救おうとしている人たちの姿を目のあたりにする人たちがたくさんいるが、これは、 人間が肉体の死後も生き続けることを示す、この上ない証拠ではなかろうか。

体脱体験は、来世を信ずるうえでは最もしっかりした科学的根拠になるのかもしれないが、私にとって最も印象的なのは、 臨死体験が人間の人格にもたらす非常に大きな変化である。臨死体験が体験者を完全に変えてしまうという事実は、 臨死体験が現実的なものであり、力を持ったものであることの証なのである。

私は、二十二年もの間臨死体験を眺めてきたが、死後の生命の存在を決定的に示す科学的証拠が十分あるとは思っていない。 しかし、それはあくまで科学的証拠のことである。心の問題はまた別である。この場合は、厳密な科学的世界観から離れた判断に従うことができる。しかし、私のような研究者に対しては、 知識に基づいた分析が要求される。

そのような検討を行った末、私は、臨死体験者はあの世界をかいま見たのであり、別の現実界へ短い旅をして来た、 と確信するに至ったのである。

心理療法家のC・G・ユングは、1944年に書いた手紙の中で、死後の世界に関する私の気持ちを図らずも要約してくれている。 この手紙が特に重要な意味を持っているのは、その二、三ヶ月前にユング自身が心臓発作に見舞われ、臨死体験をしているからである。

死後に起こることは、言語に絶するほどの栄光に満ちているので、 われわれの想像力やわれわれの感情ではそのおおよその概念すら十分表現することはできません・・・。
遅かれ早かれ、死者はみな現在のわれわれのようになります。この現実界では、 われわれはあの存在様式についてはほとんど、あるいはまったく知りません。 また、死後にも、この世についてわれわれは何がわかるのでしょうか。 時間的に縛られたこそ存在様式が永遠の中で解体しても、意味がなくなるわけではありません。 むしろ、小指はそれ自体、手の一部であることがわかるのです。

『光の彼方に』 レイモンド・A・ムーディ・Jr著 笠原敏雄/河口慶子訳 TBSブリタニカ 1990年5月

ユングの臨死体験とは、上には具体的に記述されていないので、下記のようなものであった。あるwebsite からいお借りしたものです。

「1944年に私は心筋梗塞で意識喪失の中で譫妄状態になり様々な幻像(ヴィジョン)を見た・・・・  私は宇宙の高みに登っていると思った。はるか下には、青い光の輝く中に地球が浮かんでいるのが見えていた。  そこには紺碧の海と諸大陸が見え、脚下はるか彼方にセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。  ほんの少し離れた空間に、隕石のような真黒の石塊が見えた。  中はくり抜かれ聖堂になっており、黒人のヒンデゥー教徒が石のベンチに忘我の状態で、白いガウンを着て静かに座っていた。  彼は私を待っているのだと分かった。  私はそこで私が真の一員である、全ての人たちと会い、私は生まれる前に誰であり、どうして生まれて来たのか、私の命はどこに流れ去って行くのかが会得できるだろうと思った。」  (『ユング自伝 下巻』 みすず書房 p127) 

   

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公開日2001年9月25日