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この世に生きるということは・・・

この世に生きるということは肉体を持つということで、肉体がある限り欲望がある。物欲、金欲、食欲、情欲、名誉欲、競争欲などで、 それに伴って嫉み、怨み、憎しみや執着、心配などの情念が生まれる。 かって日本人はそれらの欲望や情念を剥き出しにすることを恥かしいことと思う気持ちが強かった。 だが次第にその恥の観念が薄れて、「それが人間らしさなんだ」「人間というものはそういうものなのだ」 と考えることによって抑制したり隠したりする努力をしなくなった。日本人の波動が低下してきたのは、 正々堂々と欲望に身を委せるようになったためだろう。

人間が死ぬと肉体がなくなり、それに従って欲望も消えてしまえば、魂は浄化される。 だが生前の欲望や情念を意識にこびりつかせて死んだ人の魂は、その意識のために浄化されずにいわゆる「成仏しない」 といわれる状態でさまよわなければならない。だから我々凡俗が老後にしなければならないことは、欲望や情念を涸らせることであろう。 老後は「楽しむ」ものではなく、人生の総仕上げをする時期、死を迎える心の支度をするべき時だと私は考えている。

といっても物質の世界に生きている限り人は生活をしなければならず、欲望というものが必要である。 野心が強いからこそ人には出せない力が出る場合がある。女好き、性の欲望の強さゆえに覇者になっていく人もいる。 芸術は必ずしも清浄な心から生まれるものではない。嫉妬心や羨望が生きる力になることもあれば、金欲物欲が暮らしを豊かにするのだ。 欲望を否定してはこの現世は成り立たないだろう。あってもいけないし、なくても困る。そこが人生の難しいところなのである。

欲望は必要だが、それに流されてはいけない—。多分、そういうことなのだろうと私は考える。欲望を制御すること、 欲望との闘いを忘れないことだ。自省しながら欲望に負けて行くのと、唯々諾々と欲望に身を委せるのとは違う。
中川氏といえども六十歳までは、何らかの欲望に引きずられることがあったにちがいないと思う。 神から与えられた使命を忘れるくらい、人間的な喜怒哀楽の中に浮き沈みした日もあるだろう。そうした体験があるからこそ、 現在の中川氏の訓えに私は現実感を持つのである。

「私のいうことを絶対だと思わないで下さいよ。あくまで一つの情報として聞いて下さいよ」

氏はくりかえしそういわれる。すると私は何かしら気が楽になり、却って信頼する気持ちが生まれる。 「私のいうことを参考にして考えて下さい」という中川氏に酸いも甘いも噛み分けた人の持つ、柔軟な、懐の深い安心感が漂うのは、 もしかしたら、中川氏の「人間的経験」の豊富さのためかもしれない、と私は考える。

中川氏の著書に「幸福になるためにソフト」という五箇条が記されている。

今日一日、親切にしようと想う。

今日一日、明るく朗らかにしようと想う。

今日一日、謙虚にしようと想う。

今日一日、素直になろうと想う。

今日一日、感謝をしようと思う。

これを紙に書き、いつも見える場所(トイレが最適という)に貼って毎日見ては心に染み込ませることが大事であるといわれる。 教訓カレンダーにあるようなそんな他愛のない言葉、と多くの人は思うだろう。実は私もそう思った。だが次につづく文章を読んだ時、 私の中で何かがコトンと胸に落ちた。

「実行してはダメです。意識して実行すると失敗します。なぜかというとコンピューターというハードにはソフトが不可欠なように、人間には肉体というハードがあり、 そのハードにもソフトが不可欠なのです。親切というソフトが必要なのですが、ソフトをつくる前に親切にしたら失敗してしまうのです」

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では魂の波動を高めるにはどうすればいいのでしょうという質問に対して、中川氏はこう答える。

「難しいことは全くありません。学問も知識も必要ありません。人は一人では生きられない。私は生かされている。ー そのことを認識し、ありがとうという感謝の気持ちを表現すればいいのです。感謝することで魂の波動は上がります。実に簡単なことです」

それは昔々からいい古されてきた訓えである。あまりに素朴、当たり前のことなので、質問した人は拍子ヌケしてしまう。 だがそれは真理なのである。真理とは本来素朴なものなのだ。いかに古くても真理は真理なのである。

『私の遺言』 佐藤愛子著 新潮社 2002年10月

   

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公開日2001年9月25日