様々な断章

   

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理想の共同体

おそらく、社会全体が一つの目標なり価値観を持っているときには、どのような共同体、または家族が理想であるか、ということについての答えがあった。それゆえに、大きな共同体が成立していた。
とすると、どういう共同体が理想か、という問題を考える場合、実はその問自体に大した意味はないのではないか。
家族でいえば、大家族とか核家族とか、そういう形態は、あくまでも何を幸福として目指すのかということの結果でしかない。同様に、あくまでも共同体は、構成員である人間の理想の方向の結果として存在していると思います。「理想の国家」が先にあるのではない。
かっては「誰もが食うに困らない」というのが理想のひとつの方向でした。今はそれが満たされて、理想とするものがバラバラになっている。だからこそ共同体も崩壊している。昨今の風潮でいえば、こうしたバラバラであることそのものが自由の表れであるような考え方もあります。これはどこか「個性」礼賛と似ている。
しかし、そうではないのではないか「人間ならわかるだろ」という常識と同様、人間にとって共通の何らかの方向性は存在しているのではないでしょうか。

私は、一つのヒントとなるのは、「人生には意味がある」という考え方だと思っています。アウシュビッツの強制収容所に収容されていた経験を持つV・E・フランクルという心理学者がいます。彼は収容所での体験を書いた『夜と霧』(みすず書房や、『意味への意思』『<生きる意味>を求めて)(春秋社)など多数の著作を残している。
そうした著書や講演のなかで、彼は、一貫して「人生の意味」について論じていました。そうして、「意味は外部にある」ると言っている「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。

人生の意味

フランクルが七十年代にウイーンの大学で教鞭を執っていた際、アメリカからの留学生の60%が「人生は無意味だ」と考えていたそうです。これに対して、オーストリア人、ドイツ人、スイス人で「無意味だ」と考えていたのは25%だった。特にアメリカ型の思考を持つ人にこういう考え方が多いことがわかった。さらに当時の当時の統計で、若い麻薬患者の100%が「人生は無意味だ」と考えていたともいいます。
フランクルは、強制収容所といういつ殺されるかもわからない状況下で、「生きるとはどういうことか」という意味について考えてきた。そして彼の人生の意味は「他人が人生の意味を考える手伝いをする」ことでした。

ガンの末期で寝たきりになった患者にとっての生きる意味を彼は問います。医者によっては、そういう人にはもはや生きる意味はない、と判断するかもしれません。しかしフランクルはこう考えました。「その人が運命を知ったうえでとる態度によって、周囲の人が力づけられる」という意味があるのだ、と。
あるガン患者は、死んで子供たちと別れるのが辛いことを訴えました。これに対してフランクルは、あなたに身内がいなければ嘆くこともできない、少なくともこの世に置いていきたくないものを残しているではないか、それがまったく無い人もある、という風に答えます。

人生の意味、という問題は、今でも非常に重要です。ドラッグが流行っていることから見ても、人生は無意味だと思っている現代人が実に多いように見えます。人生の意味について考えていくことが、個人にとっても共同体にとっても、非常に重要なことではないか。

誤解を恐れずにいえば、9・11のテロにおいては、被害の大きさもさることながら、あの犯人たちが強い意味を感じているということそのものがショックだった、とは考えられないでしょうか。
それに対するアメリカ側の反撃はそこまでの意味が感じられない、というのがショックだったのではないか。身勝手だろうが何だろうが、テロリスト側が持っていたほどの強い意味をアメリカは持っていないように思える。
ただし、こうしたイデオロギーが人生の意味であるという状態(例えば戦前の日本もそうでした)は、もはや終わっていると思います。正当化するつもりもない。しかし、だからといって人生の意味が無くなったという結論にはならない。

現代人においては、「食うに困らない」に続く共通のテーマとして考えられるのは「環境問題」ではないでしょうか。環境のために自分は共同体、周りの人に何ができるか、ということもまた人生の意味であるはずなのです。
共同体が機能している時には、人間同士の貸し借りそのものがある種の人生の意味たりえた。生きていくうえでは何らかの付き合いがあって、そこではどうしても貸し借りが生じる。
何か借りがあれば恩義を返す。そこには明らかに意味がある。教育ということの根本もそこにあって、人間を育てることで、自分を育ててくれた共同体に真っ当な人間を送り出す、ということです。そしてそれは基本的には無償の行為です。

苦痛の意味

人生の意味を考えることはそう簡単なことではないかもしれません。なかなか答えが出るわけではない。正解が用意されているわけではない。「人生は無意味だ」と割り切った方が、当世風で楽に思えます。
しかし、それを真面目に考えないことが、共同体はもちろんのこと、結局のところ自分自身の不幸を招いている。
環境問題にしたって、「どうせ大噴火が起きれば環境もクソもない」とか「隕石が降ってくれば恐竜みたいに人間だって滅びるさ」と考えて何もしない、というニヒリズムに走る」のは簡単です。しかし、これは非常に乱暴かつ安易な結論です。
病気の苦しみには何か意味があるのか。医師のなかには、そんなものには何の意味も無いとして、取り去ることを至上のこととする人もいるでしょう。しかし、実際にはその苦痛にも何か意味がある、と考えるべきなのです。苦痛を悪だと考えてはいけない。そうでないと、患者は苦痛で苦しいうえに、その状態に意味がないことになって、二重の苦しみを味わうことになる。
「苦痛に意味がある」というのは宗教的な考え方で、場合によってはいわれの無い社会的な差別のようなものまでを必然としてしまうという危険な面もあります。それでもやはり、たとえ苦痛でもプラスの面もある。という多面的な考え方は必要なのです。
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意味を見出せない閉塞感が、自殺をはじめとした様々な問題の原因となっています。かって脚本家の山田太一さんと対談した際、彼は「日本のサラリーマンの大半が天変地異を期待している」と言っていました。もはや自分の力だけでは閉塞感から脱することができない、という無意識の表れでしょう。実際には意味について考え続けること自体が大切な作業なのです。フランクルの言葉を借りれば、人生が常に私たちにそれを問うているのです。

共同体について考える、というと、どうしても顔の無い人間の集合体のようなものを想定してしまいがちです。しかし、事は直接私たちそれぞれの幸福なり「人生の意味」なりにかかわっているのです。

『バカの壁』養老猛司著 新潮新書2003年4月初版発行

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公開日2022年1月11日