Macbeth

想像力のとどくところ

福島原発の事故以来、うつうつとした気分で原子力に関する本を読んでいた。そのなかに次のような記述があった。世界中の原子力発電所で日々生成されるている放射性物質は、2020年時点でどれくらいの規模になるだろうか、またその毒性はどの程度になるか。それを人間の許容濃度まで水で希釈するとすれば、どれくらいの水が必要となるか、このように換算するやり方がよく用いられるそうである。実際に福島であったように、強い放射能を含んだ汚染水も太平洋に流してしまえば薄められ、もしそんなものがあればの話であるが、人間の許容量以下になってしまう。放射性物質がそれで無くなるわけではないが、限りなく薄められれば、そこからすくったコップ一杯の水も飲めるようになるわけである。そのような計算を図示して、その著者は次のように記している。

(その)結果は、2020年に発電を停止した直後では、希釈に必要な水量は実に10京トンに達することを示している。この水量は、ほぼ地球の全海水の量の10分の1に匹敵する。しかも、その水量は100万年たった後でも、なお1兆トンを要する。これは地上の河川水の総量にあたる。 かくして放射性廃棄物は、どのような形で管理・処分されようとも、数十万年から数百万年の桁の期間、生物のすむ環境から厳密に隔離されている必要が生じる。 (「プルトニウムの恐怖」高木仁三郎 1981年11月岩波新書)

この科学的に計算された数値の提示は、実にわかりやすく衝撃的である。ここを読んでいて、わたしはマクベスの科白を思い出していた。世界中の海で洗ってもこの手の血は流せない、と叫ぶところである。

MACBETH

What hands are here? ha! they pluck out mine eyes.
Will all great Neptune's ocean wash this blood 60
Clean from my hand? No, this my hand will rather
The multitudinous seas incarnadine,
Making the green one red. (Macbeth 2:2)

マクベス

この手の有様は何だ。おれの目玉が飛び出しそうだ。
海の神ネプチューンの全部の海を集めたら、この血を、
おれの手からきれいに洗い流せるだろうか。
いや、この手が世界中の青い海を
真っ赤に染めるだろう。

マクベスの想像力は逡巡することなく、まっすぐ行き着く処まで行き着いてしまう。悪を犯した自分は、もう引き返せない、人間の境を越えてしまった、自分は天地が裂けても悪人である。この手についた血は、大海をもってしても洗い流せない、それどころか大海を真っ赤に染めてしまうだろう。これはマクベスが自分の犯した悪の深さを、当然のことのように自覚して出てくる言葉である。マクベスの想像力は、自分をごまかさない。

上の本が書かれたのはおよそ30年前である。著者の思惑に反し、それから今日まで原発は作り続けられ、今では日本国中の海岸線に点在し、日々放射性廃棄物を生成している。日本国民は、想像力が欠如していたのか、それとも知的理解力が足りないのか。当時から今日に至るまで日本人は目先の損得に狂奔して、健全な想像力が働かなかったようである。さりげなく書かれているが、著者はこれを読む人一人一人の想像力に訴え、また別の箇所では、プルトニウム社会を受け入れるか拒否するか、個々人の生き方の必須の問題として、問いかけているのである。これを読んで少しでも想像力を働かせれば、自ずから行き着く処に行き着くのである。どんどんたまってゆく放射性物質の量といい、またその強い毒性といい、想像することもできない長い時間といい、全く人間が管理できる限界を超えているのである。そしてパンドラの箱を開けてしまったと知ったら、災いが拡がらないうちに、すぐ蓋をしなければならないだろう。シェイクスピアを理解する想像力の何分の一があったら、容易にわかることである。