源氏物語  6 末摘花 すえつむはな

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原文 現代文
         
6.1 亡き夕顔追慕
思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を、年月経れど、思し忘れず、ここもかしこも、うちとけぬ限りの、気色ばみ心深きかたの御いどましさに、け近くうちとけたりしあはれに、似るものなう恋しく思ほえたまふ。
いかで、ことことしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなと、こりずまに思しわたれば、すこしゆゑづきて聞こゆるわたりは、御耳とどめたまはぬ隈なきに、さてもやと、思し寄るばかりのけはひあるあたりにこそ、一行をもほのめかしたまふめるに、なびききこえずもて離れたるは、をさをさあるまじきぞ、いと目馴れたるや
つれなう心強きは、たとしへなう情けおくるるまめやかさなど、あまりもののほど知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず、名残なくくづほれて、なほなほしき方に定まりなどするもあれば、のたまひさしつるも多かりける
かの空蝉を、ものの折々には、ねたう思し出づ。荻の葉も、さりぬべき風のたよりある時は、おどろかしたまふ折もあるべし。火影の乱れたりしさまは、またさやうにても見まほしく思す。おほかた、名残なきもの忘れをぞ、えしたまはざりける。
いくら思いかえしても飽きない夕顔に、先立たれた気持ちは、年月を経ても忘れることがなく、あちこちの女たちはけんを競って源氏の気を惹こうとするが、夕顔のうち解けたあわれさは、似るものもなく恋しく思われた。
なんとかして、世間の評判はそれほどではなくても、かわいらしく、控えめな女を見つけたいと、懲りずに思っていたので、すこしでも評判が立つ女は、それと聞くとこまめにあたって、さてもやと思い寄る気配がある女のところには、一行でも文を書いてほのめかすが、それになびかずに袖にする女は、ほとんどなかったが、それは色男にはよくあることだ。
気が強く容易に靡かない女は、とても情が薄く生真面目で、あまり人の機微なども知らず、それで気の強さを最後まで押し通さず、当初の意地もくずれて、平凡な男の妻になるなど、源氏も言葉をかけてやめたのも多かった。
あの空蝉も、折々には、口惜しく思い出す。軒端の荻も、しかるべき風の便りがあるときは、文を送って驚かすこともあった。火影に映った取り乱した様子を、またそんな光景を見たいと思う。おおかた、昔の女のことは、忘れることがなかった。
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6.2 故常陸宮の姫君の噂
左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに思いたるが女、大輔たいふ命婦みょうぶ とて、内裏にさぶらふ、わかむどほり兵部大輔ひょうぶのたいふなる女なりけり。いといたう色好める若人にてありけるを、君も召し使ひなどしたまふ。母は筑前守の妻にて、下りにければ、父君のもとを里にて行き通ふ。
常陸親王ひたちのみこの、末にまうけていみじうかなしうかしづきたまひし御女、心細くて残りゐたるを、もののついでに語りきこえければ、あはれのことやとて、御心とどめて問ひ聞きたまふ。
「心ばへ容貌など、深き方はえ知りはべらず。かいひそめ、人疎うもてなしたまへば、さべき宵など、物越しにてぞ、語らひはべる。琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」と聞こゆれば、
「三つの友にて、今一種いまひとくさやうたてあらむ」とて、「我に聞かせよ。父親王の、さやうの方にいとよしづきてものしたまうければ、おしなべての手にはあらじ、となむ思ふ」とのたまへば、
「さやうに聞こし召すばかりにはあらずやはべらむ」
と言へど、御心とまるばかり聞こえなすを、
「いたうけしきばましや。このころのおぼろ月夜に忍びてものせむ。まかでよ」
とのたまへば、わづらはしと思へど、内裏わたりものどやかなる春のつれづれにまかでぬ。
父の大輔の君は他にぞ住みける。ここには時々ぞ通ひける。命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりをむつびて、ここには来るなりけり。
左衛門の乳母といって、大弐の次に源氏が大事にしている人の娘で、大輔たいふ命婦みょうぶ という、内裏に仕え、皇室の血を引いた兵部大輔ひょうぶのたいふの娘がいた。命婦は色を好む若人で、源氏も召し使っていた。母は筑前守の妻になって、任地に行ったので、父君の実家を里にしていた。
故常陸親王が晩年にもうけた子で、大変大事に育てられた女が、心細く残されて暮らしているのを、命婦が物のついでに語ったのを、源氏は気の毒に思い、心にとどめていて尋ねた。
「心ばえや容貌など、深くは知りません。ひっそりと人から離れて暮らしているので、用のあるときは夕暮れどきに、物越しに話をします。琴を一番の友としていると思います」と申し上げると、
「琴は三つの友のひとつですが、女に酒は困るでしょう」とて、「わたしに聞かせなさい。父親王はその方面に堪能かんのうであったから、並みの技量ではないと思う」と仰ると、
「そのようにお聞きなさるほどではありますまい」
と言うが、心に響くように申し上げるので、
「やけに思わせぶりに言うね。このごろの朧月夜に忍んで行こう。案内せよ」
と仰るので、わずらわしいと思ったが、内裏ものどかな春のつれずれなので、出かけたのである。
父の大輔の君は他に住んでいた。宮邸には時々来るだけだった。命婦は、継母のところには住みつかず、姫君のあたりに親しみを感じて、ここに来ていた。
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6.3 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く
のたまひしもしるく、十六夜いさよいの月をかしきほどにおはしたり。
「いと、かたはらいたきわざかな。ものの音澄むべき夜のさまにもはべらざめるに」と聞こゆれど、
「なほ、あなたにわたりて、ただ一声も、もよほしきこえよ。むなしくて帰らむが、ねたかるべきを」
とのたまへば、うちとけたる住み処に据ゑたてまつりて、うしろめたうかたじけなしと思へど、寝殿に参りたれば、まだ格子もさながら、梅の香をかしきを見出だしてものしたまふ。よき折かな、と思ひて、
「御琴の音、いかにまさりはべらむと、思ひたまへらるる夜のけしきに、誘はれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」と言へば、
「聞き知る人こそあなれ。百敷に行き交ふ人の聞くばかりやは」
とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。
ほのかに掻き鳴らしたまふ、をかしう聞こゆ。何ばかり深き手ならねど、ものの音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。
「いといたう荒れわたりて寂しき所に、さばかりの人の、古めかしう、ところせく、かしづき据ゑたりけむ名残なく、いかに思ほし残すことなからむ。かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどもありけれ」など思ひ続けても、ものや言ひ寄らまし、と思せど、うちつけにや思さむと、心恥づかしくて、やすらひたまふ
命婦、かどある者にて、いたう耳ならさせたてまつらじ、と思ひければ、
「曇りがちにはべるめり。客人まろうどの来むとはべりつる、いとひ顔にもこそいま心のどかにを。御格子参りなむ」
とて、いたうもそそのかさで帰りたれば、
「なかなかなるほどにても止みぬるかな。もの聞き分くほどにもあらで、ねたう」
とのたまふけしき、をかしと思したり。
「同じくは、け近きほどの立ち聞きせさせよ」
とのたまへど、「心にくくて」と思へば、
いでや、いとかすかなるありさまに思ひ消えて、心苦しげにものしたまふめるを、うしろめたきさまにや」
と言へば、「げに、さもあること。にはかに我も人もうちとけて語らふべき人の際は、際とこそあれ」など、あはれに思さるる人の御ほどなれば、
「なほ、さやうのけしきをほのめかせ」と、語らひたまふ。
また契りたまへる方やあらむ、いと忍びて帰りたまふ。
主上うえの、まめにおはしますと、もてなやみきこえさせたまふこそ、をかしう思うたまへらるる折々はべれ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」
と聞こゆれば、たち返り、うち笑ひて、
異人ことびとの言はむやうに咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女のありさま苦しからむ」
とのたまへば、「あまり色めいたりと思して、折々かうのたまふを、恥づかし」と思ひて、ものも言はず。
寝殿の方に、人のけはひ聞くやうもやと思して、やをら立ち退きたまふ。透垣すいがいのただすこし折れ残りたる隠れの方に、立ち寄りたまふに、もとより立てる男ありけり。「誰れならむ。心かけたる好き者ありけり」と思して、蔭につきて立ち隠れたまへば、頭中将なりけり。
この夕つ方、内裏よりもろともにまかでたまひける、やがて大殿にも寄らず、二条院にもあらで、引き別れたまひけるを、いづちならむと、ただならで、我も行く方あれど、後につきてうかがひけり。あやしき馬に、狩衣姿のないがしろにて来ければ、え知りたまはぬに、さすがに、かう異方ことかたに入りたまひぬれば、心も得ず思ひけるほどに、ものの音に聞きついて立てるに、帰りや出でたまふと、下待つなりけり。
君は、誰ともえ見分きたまはで、我と知られじと、抜き足に歩みたまふに、ふと寄りて、
「ふり捨てさせたまへるつらさに、御送り仕うまつりつるは。
もろともに大内山は出でつれど
入る方見せぬいさよひの月

と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。
人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、
里わかぬかげをば見れどゆく月の
いるさの山を誰れか尋ぬる

「かう慕ひありかば、いかにせさせたまはむ」と聞こえたまふ。
「まことは、かやうの御歩きには、随身からこそはかばかしきこともあるべけれ。後らさせたまはでこそあらめ。やつれたる御歩きは、軽々しき事も出で来なむ」
と、おし返しいさめたてまつる。かうのみ見つけらるるを、ねたしと思せど、かの撫子はえ尋ね知らぬを、重き功に、御心のうちに思し出づ。
命婦は言ったとおり、十六夜の月が美しく照る夜にやって来た。
「まあ、あいにくなことです。ものの音が美しくひびく夜ではありませんね」と申し上げれば、
「それでも、あちらに行って、ただ一曲でも弾いてくれるよう申せ。空しく帰るのは、心残りだ」
と仰るので、住みなれた自分の部屋にお通しし、気がかりでもありもったいなくもあったのだが、寝殿に参上すると、姫はまだ格子も上げたままで、梅の香がかぐわしいのを眺めていた。よい折だと思い、
「琴の音がいっそうよく響きそうな夜の風情に誘われて、参りました。気ぜわしく出入りしておりますので、久しくお聞きしていないのが残念です」と言えば、
「聞いて分かる人がいてほしい。大宮人とは言わないけれど」
とて、琴を引き寄せる、心配だ、君はどう聞くか、と胸がどきどきする。
少しかき鳴らすが、おもしろい。すごく上手という程でもないが、琴の音は筋の違うものだけに、源氏は聞きにくいとは思わない。
「たいへん荒れて寂しいところに、親王ほどの人が、昔風に大切に育てた名残もなく、姫はどんなに物思いし寂しくされていことだろう。このような所にこそ、昔物語にもあわれなことが多い」など源氏は思い続けて、口説こうと思ったが、手順も踏まずぶしつけなので、気後れがして、躊躇した。
命婦は、機転の利く女で、あまり耳馴れさせてしまわないように、と思い、
「曇ってきました。客人が来たようです、居留守と思われたくないので。すぐまた拝聴しましょう。格子を下ろします」
とて、演奏を勧めずに、部屋に帰ったので、
「途中でやめてしまったのでは。演奏を聞き分けるまでいかないので、残念だ」
と源氏が仰る様子から、興味を持ったようだ。
「どうせなら、近くで立ち聞きさせよ」と仰るが、
「もっと聞きたい」と感じた処でやめると命婦は 決めていたので、
「いいえ、かすかに消え入るばかりのありさまで、心苦しげに奏しておりますので、あとが心配なのです」
と言えば、「それもそうだ。お互いにすぐ打ち解けて親密になる人の身分などは、その程度のものだ」など、ここの女の高いご身分を考えると、
「なお、そのような思いをそれとなく伝えてくれ」と仰った。
他に契られた方がいるのだろう、忍んでお帰りになった。
「帝が、源氏の君は真面目すぎると、ご心配されているのは、こっけいに思うことが時々あります。このような狩衣姿を、ご覧になることはないでしょうから」
と命婦が申し上げれば、振り返り、笑って、
「どこぞのまじめな人が咎めるようには、言われたくないな。これを浮気と言うなら、どこぞの浮気な女はどうか」
と仰るので、「色好みな女と思われて、時々からかわれるので、恥ずかしい」と思い、命婦は黙った。
寝殿の方なら、姫の気配を感じられるかもしれないと思い、ゆっくり部屋を出た。透垣すいがいの折れ残っている隠れの方に立ち寄ってみると、そこに男が立っていたのである。「誰だろう。物好きな好き者がいるものだ」と思って、物陰に入って立ち隠れれば、頭中将であった。
この夕べ、内裏を一緒に退出したのだが、やがて左大臣邸にも二条院にも寄らず、別れたが、どこへ行くのか気になって、自分も寄るところがあったのだが、源氏の後をついてきたのであった。中将は貧相な馬に狩衣姿の無造作ななりで来たので、気づかれなかったのだが、さすがに見知らぬ所に入ったので要領を得ず、琴の音を聞いたので立っていて、君がお帰りになるのを待っていたのである。
源氏は、誰とも気づかず、自分も気づかれまいと、抜き足差し足で行くと、その男がふと寄ってきて、
「わたしをまいてゆこうとするので、お送りしたのですよ。
(頭中将)大内山の御所を一緒にでて
入る処を見せない十六夜の月ですね」
と恨みがましくいわれたが、頭中将と分かれば、すこし滑稽こっけいになった。
「人の考え付かないことよ」と源氏は憎らしげに仰る。
(源氏)「どの里も隈なく照らす月は見上げるが、
山に入る月を誰が尋ねましょう」
「このように後をつけまわしたら、どう思いますか」と頭中将が言う。
「本当は、このような御歩きは、随身次第なのです。わたしを置いて一人歩きしないでほしい。身分を隠してのひとり歩きは、軽率なことも起こります」
と、かえって戒めている。こんな時ばかり見つけられるのは、癪だけれど、あの撫子は頭中将も尋ね知らず、自分の手柄だと思っている。
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6.4 頭中将とともに左大臣邸へ行く
おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず、一つ車に乗りて、月のをかしきほどに雲隠れたる道のほど、笛吹き合せて大殿におはしぬ。
前駆まえなども追はせたまはず、忍び入りて、人見ぬろうに御直衣ども召して、着替へたまふ。つれなう、今来るやうにて、御笛ども吹きすさびておはすれば、大臣、例の聞き過ぐしたまはで、高麗笛こまぶえ取り出でたまへり。いと上手におはすれば、いとおもしろう吹きたまふ。御琴召して、内にも、この方に心得たる人びとに弾かせたまふ。
中務なかつかさの君、わざと琵琶は弾けど、頭の君心かけたるをもて離れて、ただこのたまさかなる御けしきのなつかしきをば、え背ききこえぬに、おのづから隠れなくて大宮などもよろしからず思しなりたれば、もの思はしく、はしたなき心地して、すさまじげに寄り臥したり。絶えて見たてまつらぬ所に、かけ離れなむも、さすがに心細く思ひ乱れたり。
君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、やう変へてをかしう思ひつづけ、「あらましごとに、いとをかしうらうたき人の、さて年月を重ねゐたらむ時、見そめて、いみじう心苦しくは、人にももて騒がるばかりや、わが心もさま悪しからむ」などさへ、中将は思ひけり。この君のかう気色ばみありきたまふを、「まさに、さては、過ぐしたまひてむや」と、なまねたう危ふがりけり。
その後、こなたかなたより、文などやりたまふべし。いづれも返り事見えず、おぼつかなく心やましきに、「あまりうたてもあるかな。さやうなる住まひする人は、もの思ひ知りたるけしき、はかなき木草、空のけしきにつけても、とりなしなどして、心ばせ推し測らるる折々あらむこそあはれなるべけれ、重しとても、いとかうあまり埋もれたらむは、心づきなく、悪びたり」と、中将は、まいてられしけり。例の、隔てきこえたまはぬ心にて、
「しかしかの返り事は見たまふや。試みにかすめたりしこそ、はしたなくて止みにしか」
と、憂ふれば、「さればよ、言ひ寄りにけるをや」と、ほほ笑まれて、
「いさ、見むとしも思はねばにや、見るとしもなし」
と、答へたまふを、「人わきしける」と思ふに、いとねたし。
君は、深うしも思はぬことの、かう情けなきを、すさまじく思ひなりたまひにしかど、かうこの中将の言ひありきけるを、「言多く言ひなれたらむ方にぞ靡かむかし。したり顔にて、もとのことを思ひ放ちたらむけしきこそ、憂はしかるべけれ」と思して、命婦をまめやかに語らひたまふ。
おぼつかなく、もて離れたる御けしきなむ、いと心憂き。好き好きしき方に疑ひ寄せたまふにこそあらめ。さりとも、短き心ばへつかはぬものを。人の心ののどやかなることなくて思はずにのみあるになむ、おのづからわがあやまちにもなりぬべき。心のどかにて、親はらからのもてあつかひ恨むるもなう、心やすからむ人は、なかなかなむらうたかるべきを」とのたまへば、
「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿りには、えしもやと、つきなげにこそ見えはべれ。ひとへにものづつみし、ひき入りたる方はしも、ありがたうものしたまふ人になむ」
と、見るありさま語りきこゆ。「らうらうじう、かどめきたる心はなきなめり。いと子めかしうおほどかならむこそ、らうたくはあるべけれ」と思し忘れず、のたまふ。
瘧病わらわやみにわづらひたまひ、人知れぬもの思ひの紛れも、御心のいとまなきやうにて、春夏過ぎぬ。
それぞれ興に乗って、約束の女のところには行かず、ひとつの車に乗って、月が風情をそそり雲に隠れた道を、笛吹き合わせて、左大臣邸に向かった。
先追いなどをつけず、こっそり邸に入って、人がいない廊下で直衣を取り寄せて着替えた。今来たばかりのようによそおって、笛を吹いて興じていると、左大臣が例によって聞きつけて、高麗笛を取り出した。名手だったので、実におもしろく吹いた。御簾のなかでも、琴をだして、心得あるものたちに弾かせた。
中務なかつかさの女房は、特に琵琶をよくしたが、頭中将の好意を袖にして、たまに来る源氏の気色に魅了されて離れがたく、それは自ずから聞こえて、大宮からも不興をかっているので、ふさぎがちになって、憂鬱な心地で、すっかり落ち込んで寄りかかっている。二度と逢えないところに、移ろうかとも思うが、さすがに心細く思い乱れた。
若い君たちは、先ほどの琴の音を思い出して、さびし気だった住まいの様子も、事情が変われば風情があると思い、「あり得ないだろうが、すばらしく美しくかわいい人が、長年住んでいて、それをわたしが見初めて、恋に苦しみ、人にも騒がれたら、格好がつかなくなる」などと、頭中将は思うのであった。源氏が、こう熱心になるのなら、「まさに、もう、このまま過ぎるとは思えない」と、ねたみ危うく思うのであった。
その後、二人とも、文などを送ったらしい。どちらにも返事が来ず、不安でいらいらし、「おもしろくないなあ。あのような邸に住んでいる人は、物のあわれを知っていて、はかない草木や、空の移り変わりにつけても、心を動かして和歌などものし、心ばえを推し量られる折々があるのがいいのだが、宮家の出といっても、あまりに引っ込み思案では、おもしろくないしよろしくないね」と一段と中将はいらだっている。例によって、隠し立てのない性分で、
「しかし、文の返事は見ましたか。ためしに、それとなく言い寄ったのだが、梨のつぶてさ」
と中将が嘆けば、「やはり、文を出しのだ」と、源氏は微笑んで、
「さあ、見たいとも思わないので、見ることもないよ」
と答えたのを、「人を選別している」と思い、中将はねたましくなる。
君は深く思っていたわけではないが、こうもつれない仕打ちをされて、興ざめになったが、この中将が言い寄っているのを、「言葉数の多い方に、女はなびくという。中将がしたり顔で、先口せんくちの自分を出し抜いたと、自慢しそうなのが、心配の種だ」と思い、命婦にまじめに相談する。
「文の返事もなく、袖にされたようで、つらい気持ちです。好色者と疑っているのではありませんか。まさか、一時の浮気と思っているのでは。女がゆっくり待ってくれずに、予期せぬ結果になると、自ずからこちらに非があるようになってしまう。長い目で見てくれて、親兄弟のうるさい口出しもなく、そのような気のおけない人は、そうとうにかわいい人だね」と仰れば、
「いえ、そのような風情を求める立ち寄り所としては、当方は不向きでございます。ただひとえに、遠慮がちで控えめな方ですから、それは稀なほどでございます」
と、命婦は見たままを語っている。「気が利いていなくてもいいです。子どもっぽくおっとりしているのがいい」と、夕顔のことを思い出しながら、仰る。
源氏は、瘧病わらわやみにかかったり、人知れぬ藤壺への思いをかかえ、心の休まる暇もなく、春夏が過ぎていった。
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6.5 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う
秋のころほひ、静かに思しつづけて、かの砧の音も耳につきて聞きにくかりしさへ、恋しう思し出でらるるままに、常陸宮にはしばしば聞こえたまへど、なほおぼつかなうのみあれば、世づかず、心やましう、負けては止まじの御心さへ添ひて、命婦を責めたまふ。
「いかなるやうぞ。いとかかる事こそ、まだ知らね」
と、いとものしと思ひてのたまへば、いとほしと思ひて、
もて離れて、似げなき御事とも、おもむけはべらず。ただ、おほかたの御ものづつみわりなきに手をえさし出でたまはぬとなむ見たまふる」と聞こゆれば、
「それこそは世づかぬ事なれ。物思ひ知るまじきほど独り身をえ心にまかせぬほどこそ、ことわりなれ、何事も思ひしづまりたまへらむ、と思ふこそ。そこはかとなく、つれづれに心細うのみおぼゆるを、同じ心に答へたまはむは、願ひかなふ心地なむすべき。何やかやと、世づける筋ならで、その荒れたる簀子すのこにたたずままほしきなり。いとうたて心得ぬ心地するを、かの御許しなくとも、たばかれかし。心苛られし、うたてあるもてなしには、よもあらじ」
など、語らひたまふ。
なほ世にある人のありさまを、おほかたなるやうにて聞き集め、耳とどめたまふ癖のつきたまへるを、さうざうしき宵居など、はかなきついでに、さる人こそとばかり聞こえ出でたりしに、かくわざとがましうのたまひわたれば、「なまわづらはしく、女君の御ありさまも、世づかはしく、よしめきなどもあらぬを、なかなかなる導きに、いとほしき事や見えむなむ」と思ひけれど、君のかうまめやかにのたまふに、「聞き入れざらむも、ひがひがしかるべし。父親王おはしける折にだに、りにたるあたりとて、おとなひきこゆる人もなかりけるを、まして、今は浅茅分くる人も跡絶えたるに」。
かく世にめづらしき御けはひの、漏りにほひくるをば、なま女ばらなども笑み曲げて、「なほ聞こえたまへ」と、そそのかしたてまつれど、あさましうものづつみしたまふ心にて、ひたぶるに見も入れたまはぬなりけり。
命婦は、「さらば、さりぬべからむ折に、物越しに聞こえたまはむほど、御心につかずは、さても止みねかし。また、さるべきにて、仮にもおはし通はむを、とがめたまふべき人なし」など、あだめきたるはやり心はうち思ひて、父君にも、かかる事なども言はざりけり。
八月二十余日、宵過ぐるまで待たるる月の心もとなきに、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音心細くて、いにしへの事語り出でて、うち泣きなどしたまふ。「いとよき折かな」と思ひて、御消息や聞こえつらむ、例のいと忍びておはしたり。
月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましくうち眺めたまふに、琴そそのかされて、ほのかにかき鳴らしたまふほど、けしうはあらず。「すこし、け近う今めきたる気をつけばや」とぞ、乱れたる心には、心もとなく思ひゐたる。人目しなき所なれば、心やすく入りたまふ。命婦を呼ばせたまふ。今しもおどろき顔に、
「いとかたはらいたきわざかな。しかしかこそ、おはしましたなれ。常に、かう恨みきこえたまふを、心にかなはぬ由をのみ、いなびきこえはべれば、『みづからことわりも聞こえ知らせむ』と、のたまひわたるなり。いかが聞こえ返さむ。なみなみのたはやすき御ふるまひならねば、心苦しきを。物越しにて、聞こえたまはむこと、聞こしめせ」
と言へば、いと恥づかしと思ひて、
「人にもの聞こえむやうも知らぬを」
とて、奥ざまへゐざり入りたまふさま、いとうひうひしげなり。うち笑ひて、
「いと若々しうおはしますこそ、心苦しけれ。限りなき人も、親などおはしてあつかひ後見きこえたまふほどこそ、若びたまふもことわりなれ、かばかり心細き御ありさまに、なほ世を尽きせず思し憚るは、つきなうこそ」と教へきこゆ。
さすがに、人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて、
「答へきこえで、ただ聞け、とあらば。格子など鎖してはありなむ」とのたまふ。
簀子すのこなどは便なうはべりなむ。おしたちて、あはあはしき御心などは、よも」
など、いとよく言ひなして、二間の際なる障子、手づからいと強く鎖して、御茵おんしとねうち置きひきつくろふ。
いとつつましげに思したれど、かやうの人にもの言ふらむ心ばへなども、夢に知りたまはざりければ、命婦のかう言ふを、あるやうこそはと思ひてものしたまふ。乳母だつ老い人などは、曹司に入り臥して、夕まどひしたるほどなり。若き人、二、三人あるは、世にめでられたまふ御ありさまを、ゆかしきものに思ひきこえて、心げさうしあへり。よろしき御衣たてまつり変へ、つくろひきこゆれば、正身そうじみは、何の心げさうもなくておはす。
男は、いと尽きせぬ御さまを、うち忍び用意したまへる御けはひ、いみじうなまめきて、「見知らむ人にこそ見せめ、栄えあるまじきわたりを、あな、いとほし」と、命婦は思へど、ただおほどかにものしたまふをぞ、「うしろやすう、さし過ぎたることは見えたてまつりたまはじ」と思ひける。「わが常に責められたてまつる罪さりごとに、心苦しき人の御もの思ひや出でこむ」など、やすからず思ひゐたり。
君は、人の御ほどを思せば、「されくつがへる 今様のよしばみよりは、こよなう奥ゆかしう」と思さるるに、いたうそそのかされて、ゐざり寄りたまへるけはひ、忍びやかに、衣被えびの香いとなつかしう薫り出でて、おほどかなるを、「さればよ」と思す。年ごろ思ひわたるさまなど、いとよくのたまひつづくれど、まして近き御答へは絶えてなし。「わりなのわざや」と、うち嘆きたまふ。
いくそたび君がしじまにまけぬらむ
ものな言ひそと言はぬ頼みに

のたまひも捨ててよかし。玉だすき苦し
とのたまふ。女君の御乳母子おんめのとご、侍従とて、はやりかなる若人、「いと心もとなう、かたはらいたし」と思ひて、さし寄りて、聞こゆ。
鐘つきてとぢめむことはさすがにて
答へまうきぞかつはあやなき

いと若びたる声の、ことに重りかならぬを、人伝てにはあらぬやうに聞こえなせば、「ほどよりはあまえて」と聞きたまへど、
「めづらしきが、なかなか口ふたがるわざかな
言はぬをも言ふにまさると知りながら
おしこめたるは苦しかりけり

何やかやと、はかなきことなれど、をかしきさまにも、まめやかにものたまへど、何のかひなし。
「いとかかるも、さまかはり、思ふ方ことにものしたまふ人にや」と、ねたくて、やをら押し開けて入りたまひにけり。
命婦、「あな、うたてたゆめたまへる」と、いとほしければ、知らず顔にて、わが方へ往にけり。この若人ども、はた、世にたぐひなき御ありさまの音聞きに、罪ゆるしきこえて、おどろおどろしうも嘆かれず、ただ、思ひもよらずにはかにて、さる御心もなきをぞ、思ひける。
正身は、ただ我にもあらず、恥づかしくつつましきよりほかのことまたなければ、「今はかかるぞあはれなるかし、まだ世馴れぬ人、うちかしづかれたる」と、見ゆるしたまふものから、心得ず、なまいとほしおぼゆる御さまなり。何ごとにつけてかは御心のとまらむ、うちうめかれて、夜深う出でたまひぬ。
命婦は、「いかならむ」と、目覚めて、聞き臥せりけれど、「知り顔ならじ」とて、「御送りに」とも、こわづくらず。君も、やをら忍びて出でたまひにけり。
秋になって、静かに思い出にふけりながら、あのうるさかった砧の音さえ、夕顔と共にに懐かしく思い出され、常陸宮の姫君にはしばしば文を出すが、返事が来ないので、この常識はずれが、口惜しくなり、負けられないとの思いも加わり、命婦を責めるのだった。
「どういうことなのか。こんなことはいまだ知らぬ」
と、源氏が非常に不愉快だと思って仰ると、気の毒に思ってか、
「相応しくない、お似合いではない、と申し上げてはいません。ただ、とにかくとても内気で、それで手を出しかねているのでしょう」と命婦が申し上げると、
「それこそ世間知らずだ。物心のつかぬ子や、自分を思いのままにできない年頃なら、分かるが、十分分別もあるはず、と思うから言うのだ。なんとなく、つれづれに心細い気がして、同じ心で返事がもらいたいだけだ。色恋沙汰ではなく、あの荒れた簀子にたたずんでみたい。はなはだ納得いかない気持ちなので、あちらののお許しがなくとも、手はずを整えよ。わたしは、いらだったりして人をひどい扱ったりはしないよ」
などと、源氏は語った。
なお、源氏は、世間の女たちの様子を、気のないふりをして聞いていて、耳にとどめている癖があり、暇な夜更けな どに、とりとめのない話のついでに、こんな人がいるとお耳に入れたのを聞きとめて、このように本気で仲介を催促するので、 命婦は思う。「わずらわしく、女君も、男女の情に疎く風流を解する方でもないので、手引をしてかえって、姫に迷惑にならないか」源氏が熱心に迫るので、「聞き入れないのも、意地悪しているようだ。父親王が居られるときでさえ、時勢に遅れたお邸で尋ねてくる人も稀だったが、まして今はあばら家を訪れる人はまったくいない」。
このように世にも珍しいお方からすばらしい文が時々くるのを、下劣な女房たちは笑い興じて、「ご返事をお出しなさい」と、そそのかすのだが、極端に引っ込み思案の性格なので、熱心に文を見て興じることもない。
命婦は、「ならば、よい折に、物越しにお話なさることにして、気に入らなければ止めればよいだろう。また、ご縁があって、仮にも君が通うことがあっても、咎める人もないだろう」など、浮気でお調子者の考えで、命婦の父の兵部大輔にもこの話はしなかった。
八月二十余日、宵が過ぎるまで待たれる月の心もとなく、星の光ばかりさやけく、松の梢吹く風の音も心細く、昔のことを語りだして、姫君は泣き出している。「いい頃合だ」と命婦は思って、使いをだしたのだろう、源氏は例のお忍び姿でやってきた。
月がようやく出て、荒れた籬を源氏は気味悪く眺めていたが、促されたのだろう琴をほのかにかきならした調子は、悪くはなかった。「もっと、親しみやすく当世風の趣をつけたほうが」と、命婦のはすっぱな心には、物足りなく思う。源氏は人目がない所なので、気安く入った。命婦を呼んだ。命婦は初めて知って驚いたような顔をして 、
「大変困りました。とにかく、あのお方が来られました。いつも返信がないのを恨んでおりましたが、自分の一存でどうにもならないと、お断りしたのですが、『わたしが自分でよく話そう』と仰います。どうご返事したものでしょうか。並みの気楽なお越しではありませんので、心配です。物越しにて君が申されることをお聞きなさい」
と命婦が言えば、姫君は恥ずかしく思って、
「ご挨拶の仕方も知らないのに」
とて、奥へいざり入るさまが、いかにも初々ういういしかった。命婦はそれを笑って、
「ほんとに幼い、そこが心配です。身分の高い人も、親がいて後見がしっかりしている頃は、世間知らずで通りますが、このように心細い境涯では、男女の仲をどこまでも敬遠するのは、相応しくありません」と諭すのだった。
姫君は、さすが人の言うことは、強く断ろうとはせず、
「答えないで、ただ聞いているだけなら。格子などを鎖してお聞きします」と言う。
簀子すのこなどは失礼でしょう。乱暴な、軽はずみなことは、よもやないでしょう」
など、よく言い聞かせて、二間の境にある障子を自分で強く鎖して、座布団を用意して整えた。
姫君は、ひどく気恥ずかしく思ったが、このような高貴な方に物言う心がまえも、まったく知らなかったので、命婦がこのように言うのも、そういうものだと思っていた。乳母役の老人たちは、部屋に入って伏し、うつらうつらしている。若い女房は二三人は、世間で評判のお方のお姿を、一目みたいと思って、そわそわしている。命婦は、何とかもっとましな衣装に身づくろいさせたが、当の姫君は、何心もない気でいたのだった。
君は、限りなく美しいお姿を、忍ぶ恋路のために心づかいして、すばらしく優雅なので、「物の分かる人に見せたい、こんなさえない邸ではなく、ああ、残念だ」と命婦は思うのだが、姫君がおっとりしているのを見て、「安心だ、出過ぎたことをご覧に入れることもないだろう」と思った。「君からかされて案内して、お気の毒な姫君の物思いの種になるのでは」など、命婦は悩むのであった。
源氏は、姫君の身分の程を思えば、「大げさな今様の風情を強く出すよりも、ずっと奥ゆかしい」と思ったが、女房たちに強く勧められて、いざり寄る気配に、ひそかに衣被えびの香がやわらかくただよって、おっとりしているのを感じ、「思ったとおり」と思う。日頃思っていることなどを、いろいろと話をしたが、文と同じく近くにきても返事がなかった。「しかたない」と嘆く。
(源氏)「なんどあなたの沈黙に負けたことでしょう、
物を言うなとまで言われていないにしても」
はっきり言ってください。どっちつかずではなくて」
と仰る。姫君の乳母の子で、侍女で才気ばしった若人が、「じれったい、見ていられない」と思って、さし寄って申している。
(侍従)「鐘をついて議論は終わりとすることもせず、
お答えにくいのはまたどうしてでしょう」
若やいだ声で、軽く、姫君自身が答えているように言っているので、「身分の割には馴れている」ように聞こえたのだが、
「珍しい返歌だ、今度はわたしが物を言えなくなる、
(源氏)何も言わぬのは言うに勝ると知りながら
胸にこめて物を言わぬのは苦しいものです」
源氏は、あれこれと、とりとめのないことを、可笑しいふうにもにも真面目なふうにも話しをしたが、まったく反応がない。
「変わっているな、何か普通と違った考えをもっているのか」と妬みを覚えて、襖を開けて中へ入った。
命婦は、「あ、油断させたんだ」と、姫君を気の毒に思ったが、素知らぬ顔で自分の部屋に戻った。若い女房たちは、世に類なき評判のお方とお聞きして、咎め立てせず、大げさに嘆いたりせず、ただ、思いがけず急なことだったので、姫君が何の準備もしていないのを思った。
姫君は、ただもう呆然として、恥ずかしく控え目でいるほかないので、「今はこのようなのがいいのだ、まだ世馴れぬし、深窓に育ったのだから」と源氏は思ってみるが、納得がいかず、かわいそうに思ってしまう。どうしてこのような人に惹かれるだろう、ついため息が出て、まだ暗いうちにお帰りになった。
命婦は、「どうなったか」と、伏せて聞き耳を立てていたが、「知らぬふりを通そう」とて、「お見送り」の合図の咳払いもしない。源氏もひっそりと出てゆかれた。
2017.7.26/ 2021.6.13/ 2023.1.11◎
6.6 その後、訪問なく秋が過ぎる
二条院におはして、うち臥したまひても、「なほ思ふにかなひがたき世にこそ」と、思しつづけて、軽らかならぬ人の御ほどを、心苦しとぞ思しける。思ひ乱れておはするに、頭中将おはして、
「こよなき御朝寝かな。ゆゑあらむかしとこそ、思ひたまへらるれ」
と言へば、起き上がりたまひて、
「心やすき独り寝の床にて、ゆるびにけりや。内裏よりか」
とのたまへば、
「しか。まかではべるままなり。朱雀院の行幸、今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし、昨夜うけたまはりしを、大臣にも伝へ申さむとてなむ、まかではべる。やがて帰り参りぬべうはべり」
と、いそがしげなれば、
「さらば、もろともに」
とて、御粥、強飯こわいい 召して、客人にも参りたまひて、引き続けたれど、一つにたてまつりて
「なほ、いとねぶたげなり」
と、とがめ出でつつ、
かくいたまふこと多かり」
とぞ、恨みきこえたまふ。
事ども多く定めらるる日にて、内裏にさぶらひ暮らしたまひつ。
かしこには、文をだにと、いとほしく思し出でて、夕つ方ぞありける。雨降り出でて、ところせくもあるに、笠宿りせむと、はた、思されずやありけむ。かしこには、待つほど過ぎて、命婦も、「いといとほしき御さまかな」と、心憂く思ひけり。正身は、御心のうちに恥づかしう思ひたまひて、今朝の御文の暮れぬれど、なかなか、咎とも思ひわきたまはざりけり。
夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬに
いぶせさ添ふる宵の雨かな

雲間待ち出でむほど、いかに心もとなう」
とあり。おはしますまじき御けしきを、人びと胸つぶれて思へど、
「なほ、聞こえさせたまへ」
と、そそのかしあへれど、いとど思ひ乱れたまへるほどにて、え型のやうにも続けたまはねば、「夜更けぬ」とて、侍従ぞ、例の教へきこゆる。
晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ
同じ心に眺めせずとも

口々に責められて、紫の紙の、年経にければ灰おくれ古めいたるに、手はさすがに文字強う、中さだの筋にて、上下等しく書いたまへり。見るかひなううち置きたまふ。
いかに思ふらむと思ひやるも、安からず。
かかることを、くやしなどは言ふにやあらむ。さりとていかがはせむ。我は、さりとも、心長く見果ててむ」と、思しなす御心を知らねば、かしこにはいみじうぞ嘆いたまひける。
大臣、夜に入りてまかでたまふに、引かれたてまつりて、大殿におはしましぬ。行幸のことを興ありと思ほして、君たち集りて、のたまひ、おのおの舞ども習ひたまふを、そのころのことにて過ぎゆく。
ものの音ども、常よりも耳かしかましくて、かたがたいどみつつ、例の御遊びならず、大篳おおひちりき、尺八の笛などの大声を吹き上げつつ、太鼓をさへ高欄のもとにまろばし寄せて、手づからうち鳴らし、遊びおはさうず。
御いとまなきやうにて、せちに思す所ばかりにこそ、盗まはれたまへれ、かのわたりには、いとおぼつかなくて、秋暮れ果てぬ。なほ頼み来しかひなくて過ぎゆく。
二条院に戻って伏していても「男女の仲は思い通りにゆかないものだ」と思い、末摘花の軽くないご身分で、好きになれそうになくてお気の毒だ、と思う。思い悩んでいると、頭中将が見えて、
「たいそうな朝寝ですね。何か訳がありそうだ、と思わざるを得ない」
と言えば、起き上がって、
「独り寝だから、のんびりしているだけさ。内裏の帰りか」
と仰ると、
「そうです、今帰る途上です。朱雀院の行幸は、今日楽人、舞人が決まる由、昨夜うけたまわったので、父の大臣にお伝えしようと戻ります。すぐにまた参内しなければ」
と忙しげであったので、
「では、一緒に行こう」
とて、お粥やおこわを取り寄せて、客人にもすすめて、車を連ねたが、一台に同乗して参内するに、
「まだ、眠そうですね」
と、咎めながら、
「隠していることが沢山おありですね」
と恨みごとを申し上げる。
多くのことが決まる日なので、内裏にいて一日過ごした。
あちらへは、せめて文だけでも、と気の毒に思って、夕方使いを出した。雨が降りだし、動きずらいので、立ち寄ろうとは思われなかったのだろう。あちらでは、待つ時間も過ぎて、命婦も「まったくお気の毒なことに」と、心配であった。当のご本人は、ただ恥ずかしく思って、今朝の文が夕方になったことなど、すぐには君の咎とも思わなかったのである。
(源氏)「夕霧が晴れる様子もないのに
気が滅入る宵の雨がふっています
雲の切れ間をまつ間、いかにも心もとない」
とあり。君が来る様子がないので、女房たちは悲嘆にくれたが、
「それでも、ご返事しなさい」
と、催促するのだが、姫君は思い乱れて、型どうりの文も続けられないのを見て、「夜が更けてしまう」とて、侍従が例のように教えるのだった。
(末摘花)「晴れぬ夜に月を待つ里人を思いやってください
同じ心で眺められないとしても」
口々に責められて、古びて色もあせた紫の紙に、手はさすがに強く、中古風の書体で、天地の余白を等しくして、書いた。源氏は、見る甲斐なしと、放置した。
末摘花がどう思っているだろう、と案じた。
「これを後悔するというのだろうか。それでどうなるものでもない。わたしは、それでも、最後まで面倒を見よう」と、思う君の心を知らず、あちらではひどく嘆いていた。
左大臣は、夜なって内裏を退出したので、源氏もご一緒して左大臣邸に帰ってきた。行幸を楽しみなこととして、若者たちが集まって、その話をし、舞などの練習に励むのが日常のことになっていた。
いろいろな楽器の音も、普段よりも耳に響き、互いに競い合っては、いつもの演奏とは違って、大篳おおひちりきや尺八などを大きな音で吹き上げつつ、太鼓をさへ欄干の下に寄せて、手づからうち鳴らし、遊び合うのだった。
暇がなく、切に思う所ばかりひそかに通っていて、あの常陸宮邸には、まったく通うこともなく、秋が暮れた。あちらでは、当てにした甲斐もなく、過ぎていった。
2017.8.1/2021.6.13/ 2023.1.11◎
6.7 冬の雪の激しく降る日に訪問
行幸近くなりて、試楽しがくなどののしるころぞ、命婦は参れる。
「いかにぞ」など、問ひたまひて、いとほしとは思したり。ありさま聞こえて、
「いとかう、もて離れたる御心ばへは、見たまふる人さへ、心苦しく」
など、泣きぬばかり思へり。「心にくくもてなして止みなむと思へりしことを、くたいてける、心もなくこの人の思ふらむ」をさへ思す。正身の、ものは言はで、思しうづもれたまふらむさま、思ひやりたまふも、いとほしければ、
「いとまなきほどぞや。わりなし」と、うち嘆いたまひて、「もの思ひ知らぬやうなる心ざまを、懲らさむと思ふぞかし」
と、ほほ笑みたまへる、若ううつくしげなれば、我もうち笑まるる心地して、「わりなの、人に恨みられたまふ御齢や。思ひやり少なう、御心のままならむも、ことわり」と思ふ。
この御いそぎのほど過ぐしてぞ、時々おはしける。
かの紫のゆかり、尋ねとりたまひて、そのうつくしみに心入りたまひて、六条わたりにだに、れまさりたまふめれば、まして荒れたる宿は、あはれに思しおこたらずながら、もの憂きぞ、わりなかりけるとところせき御もの恥ぢを見あらはさむの御心も、ことになうて過ぎゆくを、またうちかへし、「見まさりするやうもありかし手さぐりのたどたどしきに、あやしう、心得ぬこともあるにや。見てしがな」と思ほせど、けざやかにとりなさむもまばゆし。うちとけたる宵居のほど、やをら入りたまひて、格子のはさまより見たまひけり。
されど、みづからは見えたまふべくもあらず。几帳など、いたく損なはれたるものから、年経にける立ちど変はらず、おしやりなど乱れねば、心もとなくて御達四、五人ごたちよたりいつたりゐたり。御台みだい、秘色やうの唐土のものなれど、人悪ろきに、何のくさはひもなくあはれげなる、まかでて人びと食ふ。
隅の間ばかりにぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなるしびら引き結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おし垂れて挿したる額つき、内教坊ないきょうぼう内侍所ないしどころのほどに、かかる者どもあるはやと、をかし。かけても、人のあたりに近うふるまふ者とも知りたまはざりけり。
「あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にもあふものなりけり」
とて、うち泣くもあり。
「故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり」
とて、飛び立ちぬべくふるふもあり
さまざまに人悪ろきことどもを、愁へあへるを聞きたまふも、かたはらいたければ、たちのきて、ただ今おはするやうにて、うちたたきたまふ。
「そそや」など言ひて、火とり直し、格子放ちて入れたてまつる。
侍従は、斎院に参り通ふ若人にて、この頃はなかりけり。いよいよあやしうひなびたる限りにて、見ならはぬ心地ぞする。
いとど、愁ふなりつる雪、かきたれいみじう降りけり。空の気色はげしう、風吹き荒れて、大殿油消えにけるを、ともしつくる人もなし。かの、ものに襲はれし折思し出でられて、荒れたるさまは劣らざめるを、ほどの狭う、人気のすこしあるなどに慰めたれど、すごう、うたていざとき心地する夜のさまなり。
をかしうもあはれにも、やうかへて、心とまりぬべきありさまを、いと埋れすくよかにて、何のはええなきをぞ、口惜しう思す。
行幸が近くなって、試楽などと騒いでいるころ、命婦が内裏に来た。
「どうされているか」と、源氏は問うて、気の毒に思っている。命婦が様子をご報告して、
「このように、疎遠にされたのでは、傍にいる者もおいたわしく思って」
など、泣かんばかりである。「奥ゆかしいと思うところで止めたいと思っていたのを、だめにされてしまった、と命婦は思っている」などとさえ源氏は気を回している。姫君が、物も言わず沈んでいる様子を、思ってみてもお気の毒に思って、
「忙しかったのだ。仕方ない」と嘆いてみせて、「大人の交わりを知らぬようなので、懲らしめてやろうと思ったのだ」
と源氏は、微笑んだが、若く愛敬があるので、命婦も笑える心地がして、「人に恨まれ勝ちな年齢だ。思いやりが少なく、思うがままに振舞うのも、致し方ないことだ」と命婦は思う。
この忙しい時期が過ぎて、時々通うようになった。
あの藤壺ゆかりの紫の上を手に入れてからは、その美しさに夢中で、六条渡りですら足が遠のいているので、まして荒れた宿へは、あわれに思うことはあっても、行き難い気持ちも無理からぬことであるし、あの気づまりな恥ずかしがりの女を見届けようとも思わずに、過ぎてゆくのだが、また反対に、「見優みまさることもあるだろう。暗いところで手探りだったから、うっかり見逃した点もあったかも。はっきり見たい」と思うが、明るいところで見るのも気恥ずかしい。うちとけた宵のほど、そろりと入って、格子の隙間から見たのであった。
だが、姫君の姿は見えるはずもない。几帳など、かなり傷んでいて、年は経ても置く場所は変えず、隅へ押しやったりしていないので、見えずらく、五六人の女房たちがいた。お膳には、青磁の唐の器だが、見栄えが悪く、ごく粗末なものを、御前から下がって、女房たちが食べている。
隅の方の間に、寒そうな女たちが、白い衣はなんとなく黒ずんで、汚らしいしびらを腰に巻いているのがいかにも旧弊である。さすがに櫛をずり落ちそうにさした額つき、内教坊や内侍所などにこのような髪形の者たちがいたなと思う。まして、こんなに旧弊なものが、姫君の近くにはべっているとは知らなかった。
「ああ、なんと寒い年だこと。長生きすれば、こんなにひどい目にあうのだ」
とて、泣くものもある。
「宮様のいた頃は、どうして辛いなど思ったのかしら。こんなに頼りなくても、暮らしていけるなんて」
とて、飛び立ちかねている者もいる。
さまざまな外聞の悪い話や、愚痴などを聞いていたが、いたたまれなくなったので、源氏は一度さがって、今来たばかりのように格子を叩いた。
「それそれ」など言って、女房が灯火を持ち、格子を上げ中に入れた。
侍従は斎院へ通っている女房で、この頃は留守だった。それでいっそう貧相で野暮ったい女房ばかりで、勝手が違っていた。
先ほど嘆いていた雪が激しく降っていた。空模様も険しく、風が吹き荒れ、大殿油が消えたが、それを灯す人もいない。あの物の怪に襲われたときを思い出し、荒れ模様の天気は劣らなかったが、部屋が狭く、人気ひとけが少しあることなどが安心だったが、大荒れで眠れない心地のする夜だった。
見方を変えれば、かえって風情がありおもしろい夜だったが、姫君は内にこもって何も引き立つところがないのが、残念だった。
2017.8.4/2021.6.13/ 2023.1.11◎
6.8 翌朝、姫君の醜貌を見る
からうして明けぬるけしきなれば、格子手づから上げたまひて、前の前栽の雪を見たまふ。踏みあけたる跡もなく、はるばると荒れわたりて、いみじう寂しげなるに、ふり出でて行かむこともあはれにて、
「をかしきほどの空も見たまへ。尽きせぬ御心の隔てこそ、わりなけれ」
と、恨みきこえたまふ。まだほの暗けれど、雪の光にいとどきよらに若う見えたまふを、老い人ども笑みさかえて見たてまつる。
「はや出でさせたまへ。あぢきなし。心うつくしきこそ
など教へきこゆれば、さすがに、人の聞こゆることをえいなびたまはぬ御心にて、とかう引きつくろひて、ゐざり出でたまへり。
見ぬやうにて、外の方を眺めたまへれど、後目しりめはただならず。「いかにぞ、うちとけまさりの、いささかもあらばうれしからむ」と思すも、あながちなる御心なりや。
まづ、居丈の高く、を背長に見えたまふに、「さればよ」と、胸つぶれぬ。うちつぎて、あなかたはと見ゆるものは、鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。色は雪恥づかしく白うて真青さおに、額つきこよなうはれたるに、なほ下がちなる面やうは、おほかたおどろおどろしう長きなるべし。痩せたまへること、いとほしげにさらぼひて、肩のほどなどは、いたげなるまで衣の上まで見ゆ。「何に残りなう見あらはしつらむ」と思ふものから、めづらしきさまのしたれば、さすがに、うち見やられたまふ。
頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人びとにも、をさをさ劣るまじう、うちきの裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかりあまりたらむと見ゆ。着たまへるものどもをさへ言ひたつるも、もの言ひさがなきやうなれど、昔物語にも、人の御装束をこそまづ言ひためれ。
聴し色ゆるしいろのわりなう上白みたる一襲ひとかさねなごりなう黒き袿重ねて表着うわぎには黒貂ふるき皮衣かわぎぬ、いときよらに香ばしきを着たまへり。古代のゆゑづきたる御装束なれど、なほ若やかなる女の御よそひには、似げなうおどろおどろしきこと、いともてはやされたり。されど、げに、この皮なうて、はた、寒からましと見ゆる御顔ざまなるを、心苦しと見たまふ。
何ごとも言はれたまはず、我さへ口閉ぢたる心地したまへど、例のしじまも心みむと、とかう聞こえたまふに、いたう恥ぢらひて、口おほひしたまへるさへ、ひなび古めかしう、ことことしく、儀式官の練り出でたる臂もちおぼえて、さすがにうち笑みたまへるけしき、はしたなうすずろびたり。いとほしくあはれにて、いとど急ぎ出でたまふ。
「頼もしき人なき御ありさまを、見そめたる人には、疎からず思ひむつびたまはむこそ、本意ある心地すべけれ。ゆるしなき御けしきなれば、つらう」など、ことつけて、
朝日さす軒の垂氷は解けながら
などかつららの結ぼほるらむ

とのたまへど、ただ「むむ」とうち笑ひて、いと口重げなるもいとほしければ、出でたまひぬ。
御車寄せたる中門の、いといたうゆがみよろぼひて、夜目にこそ、しるきながらもよろづ隠ろへたること多かりけれ、いとあはれにさびしく荒れまどへるに、松の雪のみ暖かげに降り積める、山里の心地して、ものあはれなるを、「かの人びとの言ひし葎の門は、かうやうなる所なりけむかし。げに、心苦しくらうたげならむ人をここに据ゑて、うしろめたう恋しと思はばや。あるまじきもの思ひは、それに紛れなむかし」と、「思ふやうなる住みかに合はぬ御ありさまは、取るべきかたなし」と思ひながら、「我ならぬ人は、まして見忍びてむや。わがかうて見馴れけるは、故親王こみこのうしろめたしとたぐへ置きたまひけむ魂のしるべなめり」とぞ思さるる。
橘の木の埋もれたる、御随身召して払はせたまふ。うらやみ顔に、松の木のおのれ起きかへりて、さとこぼるる雪も、「名に立つ末の」と見ゆるなどを、「いと深からずとも、なだらかなるほどにあひしらはむ人もがな」と見たまふ。
御車出づべき門は、まだ開けざりければ、鍵の預かり尋ね出でたれば、翁のいといみじきぞ出で来たる。娘にや、孫にや、はしたなる大きさの女の、衣は雪にあひて煤けまどひ、寒しと思へるけしき、深うて、あやしきものに火をただほのかに入れて袖ぐくみに持たり。翁、門をえ開けやらねば、寄りてひき助くる、いとかたくななり。御供の人、寄りてぞ開けつる。
降りにける頭の雪を見る人も
劣らず濡らす朝の袖かな

『幼き者は形蔽れず』」
とうち誦じたまひても、鼻の色に出でて、いと寒しと見えつる御面影、ふと思ひ出でられて、ほほ笑まれたまふ。「頭中将に、これを見せたらむ時、いかなることをよそへ言はむ、常にうかがひ来れば、今見つけられなむ」と、術なう思す。
世の常なるほどの、異なることなさならば、思ひ捨てても止みぬべきを、さだかに見たまひて後は、なかなかあはれにいみじくて、まめやかなるさまに、常に訪れたまふ。
黒貂の皮ならぬ、絹、綾、綿など、老い人どもの着るべきもののたぐひ、かの翁のためまで、上下思しやりてたてまつりたまふ。かやうのまめやかごとも恥づかしげならぬを、心やすく、「さる方の後見にて育まむ」と思ほしとりて、さまことに、さならぬうちとけわざもしたまひけり
「かの空蝉の、うちとけたりし宵の側目には、いと悪ろかりし容貌ざまなれど、もてなしに隠されて、口惜しうはあらざりきかし。劣るべきほどの人なりやは。げに品にもよらぬわざなりけり。心ばせのなだらかに、ねたげなりしを、負けて止みにしかな」と、ものの折ごとには思し出づ。
ようやく夜が明ける頃になったので、格子を自分で上げて、前裁に降った雪を見た。踏まれた跡もなく、はるか遠くまで雪景色で、ひどく寂しげで、このまま帰ってしまうのもかわいそうに思い、
「風情のある空をご覧なさい。いつまでもうちとけてくださらないのが、残念です」
と、恨みがましく仰せになる。まだほの暗いが、雪の光で源氏が清く若く見えるのを、老いたる女房たちが相好をくずして見ている。
「早くお出なさい。いけません。女は素直なのがいいのです」
など女房たちがしきりと教えれば、さすがに、人が言うことは否むことのできない性分で、身づくろいをして、いざり出てきた。
源氏は見ないふりをして、外を眺めていたが、後目しりめを凝らしていた。「どうかして、思っていたより少しでもましな女であれば」と思うも、それは無理というものだろう。
まず、座高が高く、胴長に見えるので、「やっぱりだったか」と、がっかりする。それに次いで、異様なのは、鼻であった。自然に目がそこへいってしまう。普賢菩薩の乗物かと思う。すごく高くのびて、先っぽが少し垂れて色づいているのが、とりわけ異様で不快だった。肌の色は雪のように白く青みがかっていて、額はかなり広く、顔の下の方はおそろしく長いだろうと思われた。痩せていて、いたましいほど骨ばっていて、肩のあたりなどは、痛々しく衣の上から見えるほどであった。「どうしてすっかり見てしまったのだろう」と思ったが、珍しい見ものなので、やっぱり見てしまう。
頭つきや髪のかかり具合は、美しく申し分ないと賞賛される人びとにも、劣らず、うちきの裾にたまって、その先に伸びたのが一尺ばかり余っていると見える。着ている物をあれこれ言い立てるのも、口が悪く品がないと思われるが、昔物語にも、人の装束のことはまず言ったものである。
聴し色ゆるしいろの薄紅の色あせた一襲ひとかさねに、すっかり黒ずんで元の色も分からなくなった袿を重ね、上着に黒貂くろてんの清らかに香ばしい香をたき込んだ皮衣を着ていた。古くは由緒ある装束であったが、若い女の装いとしては、似合わないし、目だって大げさな感じがした。しかしこの皮がなくては、寒いだろうと思われるお顔の様子など、気の毒に感じた。
言うべき言葉もなく、自分まで口を閉じた心地がしたが、例のだんまりの口を何とか開けさせようと、いろいろ仰せになったが、ひどく恥らって口元をおおうのさえ、古めかしく、大げさで、儀式官のやる肘を張ったやり方を思い出し、それでも微笑もうとする気色は、とってつけたようだった。たいへんお気の毒に感じ、急いでお出になった。
「頼りにする人もないご様子なので、ご縁を結んだわたしには親しんでくださってこそ、本意というものです。うちとけない様子ですから、情けないです」などと、理由を付けて、
(源氏)「朝日さす軒のつららさえ溶けるのに あなたは
どうして氷が張って打ち解けないのでしょうか」
と仰るが、「むむ」と笑って、口が重いのがかわいそうなので、出て行った。
お車を寄せた中門が、ひどくゆがみ崩れかかっていて、夜目には、ひどい状態ながら、目立たないことも多かったが、あわれにさびしく荒れていて、松の雪だけが暖かそうに降り積り、山里の心地して、ものあわれで、「あの人びとの言った葎の門は、このようなところだったのだろう。実際に、気の毒で品のある女をここに住まわせて、忘れられない恋をしたいものだ。藤壺への物思いも、きっと紛れるだろう」と、「望みどおりの住まいでも、相応しくない姫君では、どうしようもない」と思いながら、「わたし以外の人は、誰が我慢して世話し続けるだろうか。こうして親しく交われるのは、後を案じて置いていった故親王御魂のお導きだ」と思われるのだった。
橘の木が雪に埋もれているのを、随身に払わせた。うらやんだように、松の木が起き上がって、こぼれる雪を、「名に立つ末の」と見立てたのを、「深い味わいはなくても、それなりに受け答えできる人であったらなあ」と思う。
車が出る門は、まだ開いていないなったので、鍵を預かっているものを探したが、ずいぶん年をとった翁がでてきて、娘か孫かどちらともとれる女が、雪に映えてすすけたような衣をまとい、ひどく寒そうで、見たこともないものに火種を入れて袖に包むように抱えている。翁は、門が開けられないので、女が助けているのが、見苦しかった。供の者が、寄って開けた。
(源氏)「白髪の老人に降る雪を見ていると
わたしの袖も今朝の雪に濡れてしまった
『幼き者は着るものもない』」
と誦じてみたが、姫君の鼻の色に出るまで寒がりの面影がふと思い出されて、微笑んでしまった。「頭中将がこれを見たら、どんなことを他に言うことだろう。いつもやってくるので、今に見つけられるだろう」と諦め顔だ。
世間並みで、とくにどうと言うこともない女なら、捨ててもいいだろうが、しっかり見てしまったからには、どうしてもひどくあわれに思われて、実にまめに、人を邸に行かせた。
黒貂の皮ならぬ、絹、綾、綿など、老女房やあの翁の着るもののたぐいを、上から下まで配慮して用意した。このような実にまめなことも、姫君は恥ずかしがらず受け入れるので、君は心安く、姫君の後見人として世話しようと決心して、普通ならしないようなことまで世話した。
「あの空蝉の、くつろいだ宵に側目で見たのは、容貌は悪かったが、所作がすばらしく、つまらない女とは思わなかった。末摘花はあれに劣る身分だろうか。実に、女は身分ではない。空蝉は心ばせがおだやかで、妬ましいほど立派だったので、負けたのだ」と折に触れて思い出す。
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6.9 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる
年も暮れぬ。内裏の宿直所とのいどころにおはしますに、大輔たいふの命婦参れり。御梳櫛みけずりぐしなどには、懸想だつ筋なく、心やすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、使ひならしたまへれば、召しなき時も、聞こゆべき事ある折は、参う上りけり。
「あやしきことのはべるを、聞こえさせざらむもひがひがしう、思ひたまへわづらひて」
と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、
「何ざまのことぞ。我にはつつむことあらじと、なむ思ふ」とのたまへば、
「いかがは。みづからの愁へは、かしこくとも、まづこそは。これは、いと聞こえさせにくくなむ」
と、いたう言籠めたれば、
例の、艶なる」と憎みたまふ。
「かの宮よりはべる御文」とて、取り出でたり。
「まして、これは取り隠すべきことかは」
とて、取りたまふも、胸つぶる。
陸奥紙みちのくがみの厚肥えたるに、匂ひばかりは深うしめたまへり。いとよう書きおほせたり。歌も、
唐衣君が心のつらければ
袂はかくぞそぼちつつのみ

心得ずうちかたぶきたまへるに、包みに、衣筥ころもばこの重りかに古代なるうち置きて、おし出でたり。
「これを、いかでかは、かたはらいたく思ひたまへざらむ。されど、朔日ついたちの御よそひとて、わざとはべるめるを、はしたなうはえ返しはべらず。ひとり引き籠めはべらむも、人の御心違ひはべるべければ、御覧ぜさせてこそは」と聞こゆれば、
「引き籠められなむは、からかりなまし袖まきほさむ人もなき身にいとうれしき心ざしにこそは」
とのたまひて、ことにもの言はれたまはず。「さても、あさましの口つきや。これこそは手づからの御ことの限りなめれ。侍従こそとり直すべかめれ。また、筆のしりとる博士ぞなかべき」と、言ふかひなく思す。心を尽くして詠み出でたまひつらむほどを思すに、
「いともかしこき方とは、これをも言ふべかりけり」
と、ほほ笑みて見たまふを、命婦、面赤みて見たてまつる。
今様色の、えゆるすまじく艶なう古めきたる直衣の、裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞ見えたる。「あさまし」と思すに、この文をひろげながら、端に手習ひすさびたまふを、側目に見れば、
なつかしき色ともなしに何にこの
すゑつむ花を袖に触れけむ

色濃き花と見しかども」
など、書きけがしたまふ。花のとがめを、なほあるやうあらむと、思ひ合はする折々の、月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ。
紅のひと花衣うすくとも
ひたすらくちす名をし立てずは

心苦しの世や
と、いといたう馴れてひとりごつを、よきにはあらねど、「かうやうのかいなでにだにあらましかば」と、返す返す口惜し。人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさすがなり。人びと参れば、
「取り隠さむや。かかるわざは人のするものにやあらむ」
と、うちうめきたまふ。「何に御覧ぜさせつらむ。我さへ心なきやうに」と、いと恥づかしくて、やをら下りぬ。
またの日、上にさぶらへば、台盤所だいはんどころにさしのぞきたまひて、
くはや。昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」
とて、投げたまへり。女房たち、何ごとならむと、ゆかしがる。
ただ梅の花の色のごと、三笠の山のをとめをば捨てて
と、歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦は「いとをかし」と思ふ。心知らぬ人びとは、
「なぞ、御ひとりゑみは」と、とがめあへり。
あらず。寒き霜朝に、掻練かいねり好める花の色あひや見えつらむ。御つづしり歌のいとほしき」と言へば、
「あながちなる御ことかな。このなかには、にほへる鼻もなかめり」
左近の命婦、肥後の采女や混じらひつらむ」
など、心も得ず言ひしろふ。
御返りたてまつりたれば、宮には、女房つどひて、見めでけり。
逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に
重ねていとど見もし見よとや

白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。
晦日つごもりの日、夕つ方、かの御衣筥おんころもばこに、「御料ごりょう」とて、人のたてまつれる御衣一領おんぞひとくだり葡萄染えびぞめの織物の御衣、また山吹か何ぞ、いろいろ見えて、命婦ぞたてまつりたる。「ありし色あひを悪ろしとや見たまひけむ」と思ひ知らるれど、「かれはた、紅の重々しかりしをや。さりとも消えじ」と、ねび人どもは定むる。
「御歌も、これよりのは、道理聞こえて、したたかにこそあれ」
「御返りは、ただをかしき方にこそ」
など、口々に言ふ。姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、ものに書きつけて置きたまへりけり。
年の暮れになった。源氏が内裏の宿直所にいると、大輔の命婦がやって来た。源氏の髪をとくときなど、色恋沙汰ではなく、心安いし、さすがに冗談など言って、使い慣れているので、用事がなくても、報告すべきことがあると、やって来た。
「奇妙なことがありまして、ご報告しないのも、素直ではない、と悩みまして」
と微笑んで、黙っているので
「何のことだ。わたしにそれこそ遠慮は無用と思うのだが」と仰せになると、
「さあ、自分の心配事は、おそれながら、すぐご報告しますが。これは大変言い難いことでして」
と、ひどく口ごもっているので、
「また例の、思わせぶりな」と叱れば、
「あの姫君からの御文です」といって、取り出した。
「それなら、なおさら隠すべきことか」
と言って、受け取ったが、命婦はどきりとする。
陸奥紙の厚手のものに、匂いばかり深くしめしていた。たいへんよく書けていた。歌も、
(末摘花)「あなたがつれないので
わたしの袖は濡れそぼっています」
源氏は納得がゆかず首をかしげていると、包み布に衣箱の重々しく古風なのを置いて、押し出した。
「これをどうしてお目にかけられましょう。しかし、元日の君の衣裳として、わざわざ贈られたのですから、お気持ちに反してお返しするわけにも参りません。わたしの一存でしまいこんでは、姫君の御心に違うでしょうから、まずお見せして」と報告すると、
「しまいこんでは、つらいだろう。共寝して袖を乾かすひともない身には、うれしい心ざしなのだ」
と仰ったあとは、何も言わない。「それにしても、あきれた詠みっぷりだ。自分で精一杯詠んだのだろう。侍従が直すべきだろう。筆のしりをとって教える先生もいないのだろう」と、言っても甲斐のないことを思う。一生懸命に歌を詠んでいる姿を思っていた。
「恐れ多い人とは、こんなこんな方を言うのだろう」
と、微笑んでいるのを、命婦は顔を赤らめて見ている。
贈り物は、今流行の色で、とてもひどいほど艶がなく古めいた直衣で、裏表は同じく濃い色で、ごく平凡な仕立てが端々み見えた。源氏は、「あきれた」と思うが、その文を広げて、端に手習いのすさびをしているのを、ちらっと見ると、
(源氏)「親しみを感じる色でもないのに、
どうして末摘花に袖を触れたのだろう
色の美しい花とは思ったが」
などと書き散らした。紅花をけなしたのも、理由があるのだろうと、命婦は折々の月影などで容貌を思い出すと、お気の毒であったが、おかしく思う。
(命婦)「紅花に染めた君の愛が薄くても
せめて姫君の名に傷がつくことはないように
気がかりな仲ですこと」
と、ごく馴れた風で独り言をしたが、歌はいい出来ではないが、「せめてこの程度のものなら」と、口惜しそうだ。末摘花の高い身分への気づかいも、名を惜しむとはさすがである。女房たちが来たので、
「隠そう。このようなことはするべきではない」
と、源氏はため息をついた。「どうしてお見せしたのだろう。わたしも礼儀知らずと思われる」と、命婦は恥ずかしくなり退去した。
翌日、命婦が参内していると、君は台盤所を覗いて、
「そら、昨日の返事だ。妙に気取りすぎたかもしれん」
と言って、文を投げた。女房たちは何事ならんと、知りたがる。
「ただ梅の花の色のごと、三笠の山のをとめをば捨てて」
と俗謡を歌いながら出て行ったのを、命婦は「たいへん可笑しい」と思う。心知らぬ人びとは、
「どうして君はひとり笑っているの」と、とがめた。
「いえ、霜のおりた寒い朝、掻練の赤い色合いを見たのでしょう。つづしり歌なんて」と言へば、
「自分勝手なこと。このなかに、鼻の赤い人なんていないでしょう」
「左近の命婦や肥後の采女がいたのかしら」
など、勝手に言い合うのであった。
返しの歌では、宮邸は女房たちが集って、感心していた。
(源氏)「逢わぬ夜が続いて衣手が隔てているのに
さらに衣手を重ねて見よというのですか」
白い紙に無造作に書いたのが、なかなか風情があった。
大晦日の夕方、あの衣装箱に、「御料」として、人から献上された衣類一揃い、葡萄染えびぞめの織物や、また山吹かさねなど、いろいろ納めて、命婦が姫君に持参した。「あの色合いが悪いと見たのだろうか」とも思われたが、「こちらからお贈りした物だって、紅色で重々しかったのに。決して劣らずに」と老女房たちは評する。
「歌だって、これより筋が通っていて、しっかりしている」
「返りの歌は、ただしゃれているだけで」
など、口々に言う。姫君も相当に努力して作った歌なので、手控えに書き付けて置いたのだった。
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6.10 正月七日夜常陸宮邸に泊まる
朔日ついたちのほど過ぎて、今年、男踏歌おとことうかあるべければ、例の、所々遊びののしりたまふに、もの騒がしけれど、寂しき所のあはれに思しやらるれば、七日の日の節会果てて、夜に入りて、御前よりまかでたまひけるを、御宿直所にやがてとまりたまひぬるやうにて、夜更かしておはしたり。
例のありさまよりは、けはひうちそよめき、世づいたり。君も、すこしたをやぎたまへるけしきもてつけたまへり。「いかにぞ、改めてひき変へたらむ時」とぞ、思しつづけらるる。
日さし出づるほどに、やすらひなして、出でたまふ。東の妻戸、おし開けたれば、向ひたる廊の、上もなくあばれたれば、日の脚、ほどなくさし入りて、雪すこし降りたる光に、いとけざやかに見入れらる。
御直衣などたてまつるを見出だして、すこしさし出でて、かたはら臥したまへる頭つき、こぼれ出でたるほど、いとめでたし。「生ひなほりを見出でたらむ時」と思されて、格子引き上げたまへり。
いとほしかりしもの懲りに上げも果てたまはで、脇息をおし寄せて、うちかけて、御鬢ぐきのしどけなきをつくろひたまふ。わりなう古めきたる鏡台の、唐櫛笥からくしげ掻上かかげの筥など、取り出でたり。さすがに、男の御具さへほのぼのあるを、されてをかしと見たまふ。
女の御装束、「今日は世づきたり」と見ゆるは、ありし筥の心葉こころばを、さながらなりけり。さも思しよらず、興ある紋つきてしるき表着ばかりぞ、あやしと思しける。
「今年だに、声すこし聞かせたまへかし。 侍たるるものはさし置かれて、御けしきの改まらむなむゆかしき」とのたまへば、
さへづる春は
と、からうしてわななかし出でたり。
「さりや。年経ぬるしるしよ」と、うち笑ひたまひて、「夢かとぞ見る」
と、うち誦じて出でたまふを、見送りて添ひ臥したまへり。口おほひの側目より、なほ、かの末摘花、いとにほひやかにさし出でたり。見苦しのわざやと思さる。
正月の日々が過ぎて、今年は男踏歌のある年なので、あちこちで遊びののしって練習で、騒がしいのだが、末摘花のような寂しい所があわれに思われたので、七日の節会が終わって夜になり、御前よりさがると、宿直所にそのまま泊まるようなふりをして、夜が更けてから出かけた。
あのさびれていた頃よりは、人がいる気配がして、ようやく世間並になった。君も、少しゆったりした気持ちになった。「どうだろう、改めてすっかり姫君の姿が変わったら」と、思い続けている。
翌朝、日が出る頃、ぐずぐずしてお出になった。東の妻戸が開いていて、向いの渡り廊下の屋根がなく荒れたままなので、日の光が差し込み、雪が少し降ったあとの光で、奥まではっきりと見えた。
姫君が、直衣を着るのを見ようとして、少し前にいざり出ると、横に伏した頭からこぼれた髪が美しい。「すっかり変わって美しくなったら、どれだけうれしいことか」と思われて、格子を上げた。
かわいそうな容貌に懲りたので、格子を全部上げないで、下に脇息を置いて下ろして明り取りとし、髪の乱れをなおした。どうしようもなく古い鏡台や櫛箱や髪結いの道具入れなどを、女房たちが取り出してきた。さすがに男の用具箱が少しはあるのに感心された。
女の装束が、「今日は当世風だな」と見えるのは、あの衣装箱のお心そのままなのであった。源氏はそうとは気付かず、面白い柄の表着が、目に付いた。
「今年こそ、少し声を聞かせてほしい。待たれる鶯はさておき、気持ちがすっかり改まったのだから」と仰るので、
「さえずる春は」
とかろうじて、震える声で言った。
「そうです、ひとつ年をとったのだから」と笑って、「夢を見ているのか」
と言いながら、お帰りになるのを、末摘花は寄り伏して見送った。口を手で覆う様子を横から見ると、なお、あの末摘花、赤い鼻がはっきり見えたのであった。醜いとお思いになる。
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6.11 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる
二条院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて、「紅はかうなつかしきもありけり」と見ゆるに、無紋の桜の細長、なよらかに着なして、何心もなくてものしたまふさま、いみじうらうたし。古代の祖母君の御なごりにて、歯黒めもまだしかりけるを、ひきつくろはせたまへれば眉のけざやかになりたるも、うつくしうきよらなり。「心から、などか、かう憂き世を見あつかふらむ。かく心苦しきものをも見てゐたらで」と、思しつつ、例の、もろともに雛遊びしたまふ。
絵など描きて、色どりたまふ。よろづにをかしうすさび散らしたまひけり。我も描き添へたまふ。髪いと長き女を描きたまひて、鼻に紅をつけて見たまふに、画に描きても見ま憂きさましたり。わが御影の鏡台にうつれるが、いときよらなるを見たまひて、手づからこの赤鼻を描きつけ、にほはして見たまふに、かくよき顔だに、さてまじれらむは見苦しかるべかりけり。姫君、見て、いみじく笑ひたまふ。
「まろが、かくかたはになりなむ時、いかならむ」とのたまへば、
うたてこそあらめ」
とて、さもや染みつかむと、あやふく思ひたまへり。そらごひをして、
「さらにこそ、白まね。用なきすさびわざなりや。内裏にいかにのたまはむとすらむ」
と、いとまめやかにのたまふを、いといとほしと思して、寄りて、拭ごひたまへば、
平中へいじゅうがやうに色どり添へたまふな。赤からむはあへなむ
と、戯れたまふさま、いとをかしき妹背と見えたまへり。
日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの、心もとなきなかにも、梅はけしきばみ、ほほ笑みわたれる、とりわきて見ゆ。階隠はしがくしのもとの紅梅、いととく咲く花にて、色づきにけり。
紅の花ぞあやなくうとまるる
梅の立ち枝はなつかしけれど

いでや」
と、あいなくうちうめかれたまふ。
かかる人びとの末々、いかなりけむ
二条院へもどると、紫の上は幼さがとてもかわいらしく、「同じ紅でもこうも違うものか」と見えるし、無紋の桜の細長をしなやかに着て、無心でいる様子は、すごくかわいらしいと思う。古風な祖母の名残で、お歯黒はしていなかったのを、きちんとさせたのも、眉に黛を引かせたのも、清らかで美しい。「自分から求めて、どうして、思うにまかせぬ男女の仲に苦しむのだろう。こんなに可愛いい人を見ていないで」と思いながら、一緒に雛遊びをした。
絵などを描いて、色をつける。何かと面白く描き散らして遊んでいる。源氏も描き添えてみる。髪の長い女を描いて、鼻に紅をつけて見たが、絵に描いたのを見るのも嫌になる。自分の姿を鏡台に映して、美しい姿が映っているのを見るが、自分で鼻を赤く描いて色をぬって眺めるてみると、このようにいい顔ですら赤い鼻になると、見苦しくなってしまった。姫君はそれを見て、笑い転げた。
「わたしがこんな顔になったとしたら、どうしますか」と仰ると、
「いやです」
と言って、姫君は染み付いたかと心配している。空拭きすると、
「さて、白くならないぞ。つまらないことをしたもんだ。帝にはどう言えばいいだろう」
と、まじめな顔で仰ると、たいへんかわいそうに思って、寄って、拭ってみると、
「平中のように墨の色をつけないで。赤いのは我慢ができる」
と戯れている様は、実に仲のよい兄妹と見えたのである。
日は実にうららかに、待ちわびたように霞にかかる木々の梢に、ようやく梅がふくらみ、いまにもほころびそうであった。階隠はしがくしのそばの紅梅は、とりわけ早く咲く花で、すでに色づいていた。
(源氏)「紅の花はどうしても好きになれない
紅梅の枝は好ましいけれど」
どうだろう」
と、どうしょうもなくため息をつくのであった。
このような人びとの行く末は、どうなるのであろうか。
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読書期間2017年7月9日 - 2017年8月17日