源氏物語  葵・注釈

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9 葵

世の中かはりて後 この「世の中」は、官僚貴族の社会。桐壺帝から朱雀帝への譲渡にともなって、貴族たちの官位や、政治的勢力関係も変わる。ここでは、源氏・左大臣方が衰退し、弘徽殿・右大臣方の勢力が強くなる。この譲位は源氏二十一歳の年(花宴巻の翌年)であろう。
身のやむごとなさも添ふにや 源氏が桐壺帝譲位に際して右大将(右近衛府の長官)に昇進。すぐ後に、「大将の君」とある。昇進にともなって警護の人数も増え、人目を忍ぶ行動も不自由になった。
ここもかしこも 源氏の愛人たちの、来訪を待ち遠しく思う嘆き。
まことや ああ、そうそう。物語のなかばで急に思い出したとき、または話題を転ずるとき。
もどき とがめること。非難。
好色がましういとほしきに自分(源氏)が浮気めいており、御息所にお気の毒である故に。(岩波大系)/ いかにも浮気めいて見苦しく思われるので。(小学館古典セレクション)/醜聞(スキャンダル)であり、(あちら御息所には)お気の毒でもあるので(玉上)/ 岩波(大系)以外はひとつの句として書いてあるが、「好色がましう」は源氏が思うのであり、「いとほしき」は、源氏が御息所の状態を思うのである。結局は源氏の思いを述べたものか。
いとどやむごとなく、心苦しき筋には思ひきこえたまへど 一層捨ておけず気にかかることとは思い申し上げなさるのだが、(玉上)/ 一層尊くお気の毒な筋の人とは思い申すけれど、(岩波大系)/ いよいよ捨ておけぬ大事か方として、おいたわしいこととは思い申し上げていらっしゃる/ものの、(小学館古典セレクション)
それにつつみたるさまにもてなして 湖月抄本は「それにしたがひたるさまにもてなして」とある。女が遠慮して打ち解けぬので、源氏もそれに合わせて薄情にする。
朝顔の姫君 「帚木」で源氏が朝顔の花と歌を送った式部卿の宮の姫君のこと。紀伊守邸への方違へで行った時、邸の女房たちの噂話で語られていたもの。本人はまだ出てこない。
人に似じ あの人のようにはなるまい。六条御息所のようにはなるまい。
人憎く 人から憎く思われること。
大殿 (おおとの)左大臣家。具合的には葵の上。物語の中で「葵の上」と呼ばれることはないが、通称である。
心づきなし 気に入らない。心がひかれない。好きになれない。
心苦しきさまの御心地に悩みたまひて 懐妊したときの常套的表現。妊娠(心苦しき)様子にお悩みなされて。
とだえ多かるべし 御息所訪問の途絶え。
斎院 賀茂神社に奉仕する未婚の皇女または女王。ほぼ斎宮(こちらは伊勢神宮)と同様、新帝即位にともなって卜定。弘仁元年(810年)嵯峨天皇(在位1183-1198)皇女に始まり、後鳥羽天皇皇女に終わる。/ 斎院は御代がわりのはじめに選ばれ、その天皇の御代の間務める。
筋ことになりたまふ 斎院は神事に奉仕し独身でいる定めで、一般の皇女と違う生活をすることをいう。/ 女宮として、入内や降下という方面に進まれるのではなく、神に仕え独身を通すという特別のご身分におなりになること。
御禊の日 (ごけいのひ)加茂の祭りの前に吉日を選び、斎院が鴨川で身を清め紫野の野宮(ののみや)に入られる儀式。
宣旨 帝の下命。詔勅が表向きなのに対し、これは内輪で、手続きも簡単。
おほよそ人だに 源氏と特に関係のない一般の人までも。
さうざうしげなめり 「そうぞうし」物足りない。さびしい。
つれなしつくれど 「つれなしづくる」何気ないふうをする。素知らぬさまにもてなす。
大将殿をぞ、豪家には思ひきこゆらむ 大将殿(源氏)の威をかりようとするのだろう。/
用意せむもわづらはしければ 注意するにしても。/ 「用意」はその方に注意を向けることで、仲裁などをすること。」///
ひとだまひ 副車(ひとだまい)。お供の女房に割り当てられた車。
心やましきをばさるものにて 「心やまし」は気がむしゃくしゃすること。/ 不快である。イライラする。
かかるやつれをそれと知られぬるが 源氏への知られまいとする未練の心を、源氏の正妻に見すかされた屈辱感をいう。
さらぬ顔なれど 「さらぬがお」何事もないような顔つき。そしらぬ顔。
ほほ笑みつつ後目にとどめたまふもあり 笑みをたたえて流し目を送ったりするのもある。/大勢の物見客にたいし、源氏は「そしらぬ顔」で通り過ぎるが、中には(源氏が)流し目を送ったりするる人もいる。
心ばへありつつ渡るを 葵の上に敬意を表しつつ。黙礼などか。
笹の隈 「笹の隈ひのくま川に駒とめてしばし水かへ影をだに見ん」(古今集・巻二十・大歌所御歌・ひるめの歌)『笹の生い茂って奥まった所、この檜隈川に馬をとめて、しばらく水を飲ませてからいらっしゃいませ。馬上のあなたのお姿だけでも見ましょうものを』
おし消たれたるありさま [押し消つ]打ち消す。圧倒する。御息所の、無視された気持ち。
影をのみ御手洗川のつれなきに身の憂きほどぞいとど知らるる 御姿をだけよそながら見ても、源氏の君の薄情な態度に、私はわが身のつらさの程を、一層強く考えざるをえません。(岩波大系)/ 御禊の行われる今日御手洗川で御姿だけを遠くから見たが、君の無情さにわが身の不幸さが一入思い知られます。(玉上)/ 影を宿しただけで流れさる御手洗川のような君のつれなさゆえに、その姿を遠くから拝したわが身の不幸せがいよいよ身にしみて分かってきます。(小学館古典セレクション)
出でばえ できばえのよいこと。見栄えのすること
ほどほどにつけて それぞれの身分に応じて。
一所の御光 源氏の君のこと。
壺装束 薄い単衣をかつきにかぶり、市女笠をつけたもので婦人の外出姿。
あながちなりや、あなにく あんまりだ、見苦しい。
今日はことわりに 今日は無理もない(と思われ)。
口うちすげみて 老人の歯が抜けて、口のあたりがやせこけること。
髪着こめたる 垂れ髪をかつぎの下に着こめた賎しい身分の老婆たち。
手をつくりて、額にあてつつ見たてまつりあげたる 合唱して源氏を神仏のように拝む。
さまことさらび心げさうしたるなむ 「ことさらび」「ことさら」の動詞化したもの。様子ぶる、の意。媚態のひとつ。「心化粧」源氏を意識して胸をはずませる。
式部卿の宮 朝顔の姫君の父。源氏の叔父宮にあたる。
ねびゆく 成長してゆく。
なのめならむ 「なのめ」ありふれたこと。平凡なこと。
ものに情けおくれ 「情けおくる」は、物事たいするこまやかな情に欠ける。「すくすくし」はやさしさのない、不愛想な、すげない、の意。
御おきて 心ばえ。心のもち方。
本の宮 六条の自邸。
榊の憚り 斎宮に卜定されると、建物の四方、内外の門に木綿(ゆう)をつけた榊を立てて、不浄を避ける。
いと恥づかしく 自分が(源氏が)恥ずかしいと思うほど、気高く勝れていて。
かたみにそばそばし 「かたみに」互いに。「そばそばし」角々しい。
千尋 紫の上の髪の毛が千尋も長く伸びるように、という祝い言。
はかりなき千尋の底の海松ぶさの生ひゆくすゑは我のみぞ見む 測りようもない千尋もある海の底の海松(みる)ぶさが伸びてゆくように、あなたの御髪の伸びてゆく将来は、このわたしだけが見届けましょう。/ 「海松ぶさ」「海松」(みる)は緑藻類の海藻の一種。それが群生しているのが「ぶさ」。美しい髪にたとえる。
千尋ともいかでか知らむ定めなく満ち干る潮ののどけからぬに 千尋の海の底の海松ぶさの行く末をひとりで見届けるとおっしゃるけれども、そんなお心の深さとはどうして思われましょう。満ち干る潮のように定めなく、落ち着いていらっしゃらないあなたなのに。
らうらうじ 利発である。器用である。巧みな返歌のこと。
額髪 額から左右に耳よりも前に垂れる髪。
馬場の御殿 左右近衛府の馬場の殿屋で、五月五日の騎射のとき、中将、少将が着座する建物。左近馬場は一条西洞院、右近馬場は一条大宮にあった。
所避りきこえむ 場所をお譲りしましょう。
はかなしや人のかざせる葵ゆゑ神の許しの今日を待ちける ///
かざしける心ぞあだにおもほゆる八十氏人になべて逢ふ日を そのようにおっしゃるあなたの心こそ当てにならないものと思いますよたくさんの人々に誰彼となく靡くものですから(渋谷)/ (私だけでなく)たくさんの人に、一様に会うつもりで葵をかざしていた、その浮気な心は当てにならないと思われる(玉上)/ 男に逢おうとして葵をかざしたその気持ちが浮いたものだと思いますよ、今日は誰彼の分け隔てなく逢える日なのですから。(小学館古典セレクション)
悔しくもかざしけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを お逢いしようと思って葵をかざしたりして、くやしいと思います。葵ー逢う日などとは名だけで、人に空頼みをさせる草の葉にすぎないものなのに。(小学館古典セレクション)/葵(逢う日)という名だけで、人に空頼みさせる草葉にすぎないものを、悔しいことにそれを信じてかざしていましたこと。(玉上)/ ああ悔しい、葵に逢う日を当てに楽しみにしていたのにわたしは期待を抱かせるだけの草葉に過ぎないのですか。(渋谷)
心やましう 不快である。いらいらする。ねたましい。
思ひくたすべかめるも 「おもいくたす」けなす。軽蔑する。
釣する海人の浮けなれや 「伊勢の海に釣りする海女の泛子(うけ)なれや心ひとつを定めかねつる」(古今 恋一 読み人知らず)。泛子は釣りに用いる浮き。
悩ましうしたまふ 精神的に病んで、肉体的にも病気になる。
もて離れてあるまじきこと まったくとんでもないことだ。もて離れたる事(とても考えられないこと)。
聞こえかかづらひたまへば 「聞こえかかづらう」「いひかかづらふ」の受手尊敬。話すことによってかかわりをもつこと、すなわち、相手が逃れられない言い方をすること。
大殿には おおとのには。左大臣家では。
御もののけ 「物の怪」は、人にとりついて祟りをする死霊・生霊などの類。葵の上にとりつくの尾で、「御」の敬語をともなう。
めづらしきこと 葵の上の懐妊をいう。常套表現。
生すだま いきすだま。生霊。生きている人の霊。験者が加持祈祷で物の怪をいったん憑座(よりまし・選ばれる多くは女性)に駆り移し、それを調伏する。ここは、憑座に移った物の怪が自ら名乗る。
むねむねしからず 「むねむねしい」おもだっている。中心的な。
惑ふわざをしたまへば この「まどふ」は、もだえさわぐ、の意。「わざ」こと、ありさま、次第。/ 途方にくれる仕業(態度)をなさるから。/ 葵の上の病状の描写。
御いどみ心 他人に負けまいとする競争心。
思し起して 「思い起こす」すすまぬ気持ちをふるいたたせる。
心よりほかなるおこたりなど、罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて 「心よりほかなるおこたりなど」心ならずものご無沙汰まど。「罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて」ご無沙汰の罪をお許し願いたい、と申し上げて。
心のみ尽きぬべきこと 「心尽く」気力が尽きる。気ばかりもむ。
おこたるさま 「おこたる」[怠る・惰る]②病勢がゆるむ。病気がなおる。
え引きよかでなむ 「引き避(よ)く」は避けて通る、捨てておく、の意。
袖濡るる恋路とかつは知りながらおりたつ田子のみづからぞ憂き 袖の濡れる泥ー恋路であると一方では分かっていながらも、その泥の中に踏み込む田子のように恋の道に踏み込んでしまう私は、そうしたわが身のつたなさが思われてなりません。(小学館古典セレクション)/ 物思いに袖の濡れる恋の道とは知りながらも、その泥沼に自分から深入りするわが身がつろうございます。(玉上)/ 袖を濡らす恋路とは分かっていながらそうなってしまうわが身の疎ましいことよ。(渋谷)/ 『細流抄』はこの歌を「物語中第一の歌」と評する。
山の井の水 「くやしくぞ汲みそめてける浅ければ袖のみ濡るる山の井の水」(古今六帖・二)。あなたの気持ちが浅いが故にわたしの袖が濡れるのだ。
浅みにや人はおりたつわが方は身もそぼほつまで深き恋路を あなたは浅い所に下りたっていらっしゃるのでしょうか、私の方は全身ずぶ濡れになるくらいに深い泥ー恋路に踏み込んでおりますのに。(小学館古典セレクション)/ 浅い所あなたは下りていられのでしょうか。私の方は全身濡れるほどの深い泥沼(恋路)に立っておりますのに。(玉上)/ 袖ばかり濡れるとは、どうしたことで。愛情がお深くないこと。袖が濡れるとは浅い所にお立ちだからでしょう。(渋谷)
おぼろけにてや 私(源氏)のいい加減な気持ちから。いかげんな。
あくがるなる魂 物思いで魂が肉体から遊離することもある。「あくがる」は、居るべきところから、さまよい離れる、意。「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る。(後拾遺・雑六 和泉式部)
人の思ひ消ち 人が自分を問題にもせず、軽蔑し無視する態度をとってきた、とする。「人」は直接には葵の上をさす。
ひとふしに思し浮かれにし心 ひとつのことのために魂が浮遊する。ひとつのこととは、車争い。
とかく引きまさぐり あちこち引き回し。
たけくいかきひたぶる心 「たけし」は勢いの激しいこと。「いかし」は荒々しいこと。「ひたぶる心」は他を省みないひたむきな心。
うちかなぐる 荒々しく打つ。荒々しく揺り動かすこと。
身を捨ててや、往にけむ 魂が体を離れて出てゆく。「身を捨ててゆきやしにけむ思ふよりほかなるものは心なりけり」(古今雑下、躬恒)
うつし心ならず 正気のときでなく。「うつし心」[現し心]明らかに目覚めている心。正気。
さならぬことだに そのような時でなくとも。そのような人でなくても。前行の「うつし心ならずおぼえたまふ折々もあれば」(正気でないときは、魂が肉体を抜け出てゆくような、記憶も時々あるので)。正気の人でさえ世間の人は。 
人の御ためには 他人の事は。「ため」その身の上ンいかかわること。「御」貴人のこと、その噂?
よさまのこと 「よさま」[善様・好様]よいさま。よいよう。反対語、あしざま。
言ひなしつべきたより 「いいなす」ことさら言う、言い立てる。「たより」機会。
名だたしう 「名だたし」名が立ちそうである。評判になりそうだ。引用。
ひたすら すっかり。まったく。
人の上にては 他人のことである場合は。
宿世 過去の世。前世。前世からの因縁。宿縁。
心もかけきこえじ 思いを寄せない。「心をかける」[心を傾ける]心をひとつことに集中する。/「聞こゆ」①「言う」の謙譲語。③他の動詞の連体形について、その動作をなす主体が対者より身分の低いことを表す謙譲語。たてまるつ。まつる。まいらす。この句は③の使い方。(管理人)
思ふもものをなり 「思はじと思ふも物を思ふなり言はじといふもこれも言ふなり」(源氏釈)『奥入』には「思はじとだに思はじゃなぞ」心にかけまいと思うことが、思っている証拠。
かうしも砕けぬを 「砕く」はあれこれ思い悩む意。これほどあれこれ悩んだことはなく。
まさる方の 源氏の気持ちの勝っている方。
さらに動かず 憑坐(よりまし)に駆り移されず、病人に憑いて動かない。
いみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて 調伏されると物の怪は苦しんで正体を現す。加持調伏を緩めてほしい。葵の上の口を通して物の怪が言っているが、周囲の者は葵の上の言葉として理解している。「すこしゆるべたまへや。大将に聞こゆべきことあり」物の怪が、葵の上の口を通して、言っている。
さればよ 予想していた通りであった場合に、「やっぱりそうだった」 の意で用いられる慣用句。
あるやうあらむ 何かわけがあるのだろう。物の怪の言い分を聞いて、その処置をすると退散することもあるという
むげに限りのさまに 最後を迎えるような様子。臨終の状態。
白き御衣に 、出産が近づくと産婦の衣服はもちろん、、産室の調度から、産室に出入りする家人や女房の衣装までも白一色に変えるのが例。
嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま 物思いにたえかねて(身から離れでて)空に迷っている私の魂を結びとどめて下さい。下前の褄(つま)を結んで。(玉上)/ 嘆きのあまり身を抜け出て空にさまよっている私の魂を、下前の褄でつなぎとめてください。(小学館古典セレクション)/「したがひ」 着物の前をあわせた内側の部分、下前。褄、その下の角。
あさましう ①意外である。驚くべきさまである。②興ざめである。あきれる。
のたまひ消つを 「言ひ消つ」他人の言葉を否認するの敬語。
あさましとは世の常なり 「・・・とは世の常なり」が慣用句で、「・・・という言葉で表現しては世間並みの表現になってしまう。本当は・・・では言い表せないほどである」の意。
かたはらいたう ①きまりが悪い。気恥ずかしい。▽自分の言動を、そばにいる人がどう思うかと強く意識される気持ち。②腹立たしい。苦々しい。みっともない。▽他人の言動を、自分がそばで見聞きして気に入らないと思っているときの気持ち。③気の毒である。心苦しい。▽そばにいる人のことを思いやる気持ち。(学研全訳古語辞典)
何くれ (人や事物を明示せずに列挙する場合にいう)だれかれ。何やかや。あれこれ。引用
産養どもの (うぶやしない)生まれた子を祝って、誕生後三日・五日・七日・九日目に行う祝宴。血縁者(ここでは桐壺院や親王など)が主催し、衣服や食物などを贈る。
芥子の香に染み返りたるあやしさ 邪気の修法の護摩を焚くときに芥子を油などとともに焼く。その芥子の香が衣についているのは、自分の生霊が葵の上に取り付いた証拠。
御ゆする参り 髪を洗うこと。「ゆする」は髪を洗う水。
あさましかりしほどの問はず語りも 御息所の生霊が現れ、問わず語りに喋りだした一件。
人の御ためいとほしう 「人」は御息所。「対面ありて、さても物のけにあらはれ給ひし事かなと心のうちに思ひ給はむは、御息所の御ためいとほしき事なれば、みづからおはせずして文ばかりをたてまつり給へるにや」(岷江入楚)
うたておぼゆべきを 嫌な気になるだろうから。/「うたて」③(次に)「侍り」「思ふ」「見ゆ「言ふ」などの語を伴い、また感嘆文のなかに用いて)心に染まない感じを表す。どうしようもない。いやだ。情けない。あいにくだ。
おろかならず 「おろか」[疎か]十分ではないこと。実がこもっていないこと。
ことあひたる心地して 「事合ふ」は、事が思い通りに進む、意。葵の上が、物の怪にも打ち勝って、多年待たれていた源氏の子を産んだことを喜ぶ。
この御心地おこたり果てたまはぬを 「この御心地」葵の上のご気分。「おこたる」病状が快方に向かうこと。
さばかりいみじかりし名残にこそは あれほどの重病の後なので。
恋しう思ひ出でられさせたまふに 宮中の東宮を恋しく思い出す。
いぶせさに 「いぶせし」(恋しさ、待ち遠しさのために)気分が晴れない。うっとうしい。
初立 久方ぶりの参内をこう言った。
ただひとへに艶にのみあるべき御仲にもあらぬを ただ、一途に体裁を作って(艶に)ばかりあるべき、葵の上と源氏との仲でもないから。/ ご夫婦なのだから、体裁をつくろうばかりの間柄でもないとする。「艶」は恋愛的情趣。
うちまもられたまふ 「うちまもる」じっと見つめる。
いととうまかでなむ 「とく」(疾く)はやく。「まかる」(罷る)貴人・他人の前から退出する。
心地なくや 「ここちなく」配慮がない。思慮が浅い。
あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ 御身(葵の上)を、母宮があんまり子どもっぽくお扱いになさるから、一方では(かたへは・一対のものの片方)病気がお直りにならなくて、こんな風でおいでなさるぞ。
司召 (つかさめし)秋八月に行われる京官(中央官庁の官吏)の任免で、「司召除目」とも。地方官(国守など)の任免は春(正月)の行事で、「県召(あがたぬし)」という。この種の会議は夜行われることが多い。
労はり望み 自分の功労を申し立て官位の昇進を望むこと。大臣がそれを見て勘案する。/ 骨を折って懸命に望む。
今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに 今はもういくらなんでも大丈夫と油断していたのに。/ 今はたとえ病気だといってももう安心だと気を緩めていた。
悲しきことに、ことを添へて 葵の上の死(悲しきこと)に加えて、御息所の生霊の仕業もあり。
もごよふ 這う、意。
夜もすがらいみじうののしりつる儀式 葬儀は夕方から夜にかけて、行われた。終夜大層騒いだ。
のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな 亡骸(なきがら) を焼いたとき立ち昇った煙はどの雲になっているか見分けがつかないけれど、雲の空一帯がしみじみと慕わしく思われる。(小学館古典セレクション)/ 空に上った煙は雲と混ざり合ってそれと区別がつかないがおしなべてどの雲もしみじみと眺められることよ(渋谷)/ (空へ)立ち昇った(火葬の)煙は、(雲と一緒になって、どの雲が)その煙だとわからないが、空全体が、しみじみと胸に迫ることだ。(玉上)/ 「雲井」は雲のあるところ、の意で、空のこと。
つひにはおのづから見直したまひてむと、のどかに思ひて 葵の上は結局は、自然に自分(源氏)を見直して、信頼してくれるだろうと、暢気に考えて。
なほざりのすさびにつけても そのとき限りの気まぐれな情事。
つらしとおぼえられたてまつりけむ 源氏が葵の上に恨めしいと思わせること。「覚えられたてまつりけむ」「られ」は受身。葵の上に思われる、の意。「たてまつり」は受け手(葵の上)に対する敬語。
疎く恥づかしきものに思ひて 「うとい(疎い)」打ち解けない。疎遠だ。親しくない。「はずかしい(恥ずかしい)」気後れする。気詰りだ。/ 源氏を、打ち解けず、気詰りな人、と見る。
さうざうしく思しつるに 「そうぞうし」あるべき物やなすべき事がなくても物足りない。ものさみしい。
にばめる御衣 鈍色(にびいろ)は喪服の色。妻の喪は軽装であるので薄墨。
限りあれば薄墨衣浅けれど涙ぞ袖を淵となしける 定めがあるので薄墨色の衣を着けてはいるけれども、深い悲しみの涙がその袖の色を、深い深い淵ー藤の色の変えてしまったではないか。(小学館古典セレクション)/ (喪服には)規定があるので、(妻のための)薄墨の喪服は、色は浅いが、涙は(たまって)袖を深い淵としたことだ。(玉上)/ きまりがあるので薄い色の喪服を着ているが涙で袖は淵のように深く悲しみに濡れている。(渋谷)
左衛門の司 /斎宮の宮中における初斎院の場として、左衛門府の役所の一部をあてた。
いとどいつくしき御きよまはり 厳重な御潔斎。それを口実に御息所と没交渉になる。
ほだし 馬の足を縛っておく綱。転じて出家しようとする気持ちを妨げる絆。ここでは、できれば出家したいとするが、断ちがたい絆が出家を妨げるとする。ここでは子が生まれたこと。
青鈍の紙 青みを帯びた縹色(はなだいろ)薄い藍色。喪服、尼服に用いる色。
人の世をあはれと聞くも露けきに後るる袖を思ひこそやれ 他人(葵の上)の世(一生)をはかないと聞くにつけても、私(御息所)は悲しいのに、その人(葵の上)におくれて後に残った御身(源氏)の袖を、どんな涙の露でぬれているかと思いやります(お察しもうしあげております)。(岩波大系)/ 人生の無常ー女君の亡くなられたことを悲しくお聞きいたしますにつけても涙をさそわれますが、あなたさまのお袖がどんなにぬれることかとお察し申しております。(小学館古典セレクション)/ あの方の生涯をしみじみ気の毒だと聞くにつけても涙が流れるのに、死におくれた(方の)袖は(いかばかりかと)お察ししています。(玉上)/ 「人の世」とは葵の上の生涯のこと。
過ぎにし人は、とてもかくても、さるべきにこそはものしたまひけめ 亡くなってしまった人(葵の上)はどうなっても、それは、そうなる(死ぬ)宿命であったのだろう。止むを得ないことである。
何にさることを、さださだとけざやかに見聞きけむ なぜにあんな事(生霊)を、何ではっきりと明確に、私は見、言葉を聞きもしたであろうか。
なほえ思し直すまじきなめりかし 源氏は御息所への思いを、変えがたいためらしい。語り手の推測。
聞こえつけ 「きこえつく」気持ちなどを申し上げて近づき親しむ。(心の中の思いを)申し上げて近づく。お頼み申し上げる▽「言ひ付く」の謙譲語。
おほかたの世につけて 全般的にいってこの人の生活に関しては。/ 大体に様子からいって。
三位中将 頭の中将のこと。昇任した。
こまやかなる 「こまやか」③色が濃い。色がよく染まっている。
やつれたまへるしも 「やつれる」目立たないような質素な服装になる。地味な服装をする。
雨となりしぐるる空の浮雲をいづれの方とわきて眺めむ 雨となってしぐれる空の浮雲は、煙となって昇っていった亡き人の姿であろうが、さて今の浮雲のどれをそれと見分けて眺めようか。(小学館古典セレクション)/ 雨となってしぐれる空の浮雲を、どちらの方が(亡き妹の雲)と」見分けて眺めようか。(玉上)/ 妹が時雨となって降る空の浮雲をどちらの方向の雲と眺め分けようか。(渋谷)
見し人の雨となりにし雲居さへいとど時雨にかき暮らすころ 亡きわが妻が雲となり雨となってしまった空までが、時雨のためにますます暗くなって、わたしの心も悲しみに閉ざされている今日このごろよ。(小学館古典セレクション)/ 亡き妻の(雲となり)雨となってしまった空までが、時雨のためにいっそう暗くなっている今日この頃だ。(玉上)/ 妻が雲となり雨となってしまった空までがますます時雨で暗く泣き暮らしている今日この頃だ。(渋谷)/ 「かきくらす」①空を暗くする。②心を暗くする。
いとしもあらぬ 「いとしい」かわいい。恋しく慕われる。/ いとしく思わない。
居立ちてのたまはせ 「いたつ」[居立つ]すわったり立ったりする。(気にかかってじっとしていられないさま、また熱心に世話をするさま)/ 「のたまう」尊者が下位の者に言って聞かせる。/ じっとしていられず意見をする。
大宮の御方ざまに、もて離るまじきなど 大宮は桐壺院の妹。源氏には叔母という血縁関係にあること。
さしあひたれば ②かちあって不都合になる。さしさわりがある。
あり経たまふなめりかし 「あり経」は、ずっと連れ添っている。
草枯れのまがきに残る撫子を別れし秋のかたみとぞ見る 草の枯れた垣根に残る撫子ー若君を、過ぎ去った秋ー亡くなったお方の形見として懐かしく思っております。(小学館古典セレクション)/ 草枯れの垣根に残っているなでしこ(母を失ってさびしく残っている幼児)を、死に別れた秋の形見と思ってみています。(玉上)
今も見てなかなか袖を朽たすかな垣ほ荒れにし大和撫子 今こうして荒れた垣根の大和撫子ー若者を見るにつけても、そのためにかえって袖が朽ちるばかりに涙を流しております。(小学館古典セレクション)/ 垣根の荒れてしまった大和撫子(母を失った幼児)を、今も見て、かえって袖を(涙で)朽ちさせることです。(玉上)
さのものとなりにたる そのようなもの(関係)になっているので。前の句「絶え間遠けれど」を受ける。
見まさりはかたき世なめるを 実際に目で見たとき、予想や噂を上回る例はまずないのが世間の実情だが。
つらき人しもこそと・・・ 自分につれない人ほど心ひかれるというのが源氏の性分。
かたみに情けも見果つべきわざなれ 生涯、情愛をかわしてゆけるというものだ、の意。/ 打ち解けず冷淡でありながら(すっかりなびいてしまわないものの)、然るべきあわれの浅からぬ場合の情趣(風情)を示すことを、見過ごしなさらないで(忘れずに)音信をなさる仲であれば、こういう仲こそ、女も男も相互に、情愛を最後まで見届けことができるものなのである。(岩波大系)
つれづれにて"> 
つれづれにて 「つれづれ」①手持ちぶさた。退屈であること。所在なさ。 ②しんみりしたもの寂しさ。物思いに沈むこと。
この御思ひのほどは 「思ひ」は喪のこと。
中納言の君 葵の上づきの女房。源氏の人目を忍んだ愛人。いわゆる召人の一人。
いふかひなき御ことは 葵の上の死をさす。
かきくらす心地 「かきくらす」[掻き暗す]空を暗くする。心を暗くする。悲しみに暮れる。
あくがれ果てさせたまはむほど 「あくがる」①心が体から離れてさまよう。うわの空になる。②どこともなく出歩く。さまよう。③心が離れる。疎遠になる。 注意-現代語「あこがれる」のもとになった語だが、現代語と同じ意味には用いない。(学研全訳古語辞典)
ほどなき衵 「ほどなき」小さな。「衵」下着。///
汗衫 (かざみ)童女の着る表着。
萱草の袴 (かんぞうのはかま)「萱草」色で色の名。柑子色に同じ。黒味を帯びた黄色で。喪服のとき着る。
昔を忘れざらむ人は 葵の上に生前仕えた者のなかで。
幼なき人 生まれて間もない夕霧。
ものしたまへ 「ものす」は、ある動作をする意の代わりに用いる動詞。婉曲な言い方。ここは、仕える意。
かくてのみもいかでかはつくづくと過ぐしたまはむとて 「つくづく(と)」副詞①しみじみ(と)。しんみり(と)。▽思いにふけるさま。 ②ぽつねん(と)。ぼんやり(と)。▽手持ちぶさたなさま。 ③よくよく。じっくり。▽考えなどを集中させるようす。、よくよく考えてみると。(学研全訳古語辞典)/ただこんなふうに、じっと日を過ごしてばかりもいらっしゃれまいと。(小学館古典セレクション)/ こんなふうにふさぎこんでばかりもおられぬと。(玉上)/ 「いかでかは」①(疑問)どうして。②(反語)どうして(・・・することがあろうか)③(願望)何とかして。ここでは反語的用法。全体として、このように過ごすことができようか、できない。(管理人)
御前など参り集るほど 御前駆などが参集する頃。
御前にさぶらふ人びと 源氏に侍する女房たち。
おぼつかながりのたまはするにより 「おぼつかない」①(景色などが)ぼんやりしている。②意味がはっきりしない。③(状況がはっきりせず)気がかりだ。不安だ。⑤もっとくわしく知りたい。待ち遠しい。
世を思しつづくること、いとさまざまにて 世の中をお思い続けなさること、実にあれこれとあって。(渋谷)/ (はかなき)世を・・・。(岩波大系)/ 世の中を思い続ける事が全くあれこれいろいろで。(玉上)/ 深い道心を抱いてしまった後の、人生無常の思いである。(小学館、注釈)
えのどめはべらねば 「のどむ」鎮静させる。
おしこりて 身を寄せ合うようにして一箇所に集まっている様子。
あいな頼めしはべりつるを 「あいな頼め」頼みにならないことを頼ませること。(小学館古典セレクション)/ 女房たちにあてにならないことを頼みにさせた。(玉上)/それでもいつかはと、空頼みしてまいりましたが……。(渋)/ あてにならぬことを頼みにさせておりましたのに。(玉上)/ 当てにならぬことを頼みにしておりましたのに。(小学館古典セレクション)/ 玉上が先か?
いかなりともと、のどかに思ひたまへつるほどは 葵の上の態度がどうあろうとも(打ち解けてくれぬにしても)、いずれは、とおもったりする。(いかなりともと)葵が今に打ち解けてくれるだろうとのんびり構えている頃は。
なき魂ぞいとど悲しき寝し床のあくがれがたき心ならひに 亡き人とともに寝たこの床をいつも離れがたく思っていたが、それにつけてもこの床を離れていったその人の魂はどんなにせつない思いだったろうかと、ひとしお悲しくてならない。(小学館古典セレクション)/ 共寝した床からいつも離れにくかったので、亡き魂が、(今もこの床から離れかねていると思う)一入(ひとしお)悲しい。(玉上)/亡くなった葵の上の魂が(私と同様に、共に寝た床をあくがれ出かねていると思うと)、ひどく私は悲しい。私は、葵の上と一緒に寝た床が、落ち着かずに、ふらふらと振りすてて離れていきがたい習慣になっているのである。(岩波大系)
君なくて塵つもりぬる常夏の露うち払ひいく夜寝ぬらむ あなたが亡くなってから、いたづらに塵が積もってしまった床に、常夏の露ー涙を払いながら、わたしはわびしく独り寝の幾夜を過ごしてしまうであろう。(小学館古典セレクション)/ あなたが亡くなってから、塵が積もってしまった床に、(涙の)露を払いながら幾夜(一人で)寝たことだろう。(玉上)
あからさまに 「あからさまなり」意味1、ほんのちょっと、ほんのしばらく。※この用法の場合、多くが連用形「あからさまに」の形で用いられる。意味2、ほんの少しも〜ない、まったく〜ない。※この用法の場合、「あからさまにも〜打消」の形で用いられる。意味3、はっきりしている、明らかだ、明白だ。※この用法は近世以降のもの。 意味4、急に、突然に。この項マカペディアから。
物など参らせたまひて 「物まゐる」で食事を取る意。
中宮 藤壺の宮。桐壺帝が上皇になっても、中宮はそのままである。藤壺中宮。
思ひ尽きせぬことどもを、ほど経るにつけてもいかに /わたくし(藤壺)が「思いつきせぬ事ども」を、あなた(源氏)は「程ふるにつけてもいかに」と解する。間接話法と見、源氏が「思いつきせぬ事」源氏が「いかに」と見る説もある。
無紋の表の御衣 文様のない袍。喪服である。
 冠のうしろにたらす吊(はく)。喪中は冠も無紋で、纓を内側に巻き上げる。
いふかひなきことをばさるものにて 葵の上が死んだこと。
うちそばみて わきを向いて源氏と目を合わせない。恥らう横顔。
忌ま忌ましうおぼえはべれば 服喪から戻ってきたばかりで、不吉な感じがする。
とだえなく見たてまつるべければ、厭はしうさへや思されむ (今はいつも会えるので)親しみすぎて嫌われるだろうか。親愛の逆説的物言い。
なほ危ふく思ひきこゆ 紫の上が放り出されることがないかの不安。
わづらはしきや 葵の上に代わるやっかいな正妻の存在を想像する。
尽きせぬことどものみなむ 悲しみの尽きることがない、意。
新枕の段 

とても所在なく物思いに耽りがちだが、何でもないお忍び歩きも億劫にお思いになって、ご決断がつかない。  
姫君が、何事につけ理想的にすっかりご成長なさって、とても素晴らしくばかりに見えなさるのを、もう良い年頃だと、やはり、しいて御覧になっているので、それを匂わすようなことなどを、時々お試みなさるが、まったくお分りにならないご様子である。  
所在ないままに、ただこちらで碁を打ったり、偏継ぎなどをしたりして、毎日お暮らしになると、気性が利発で好感がもて、ちょっとした遊びの中にもかわいらしいところをお見せになるので、念頭に置かれなかった年月は、ただそのようなかわいらしさばかりはあったが、抑えることができなくなって、気の毒だけれど、どういうことだったのだろうか、周囲の者がお見分け申せる間柄ではないのだが、男君は早くお起きになって、女君は一向にお起きにならない朝があった。  
女房たちは、「どうして、こうしていらっしゃるのだろうかしら。ご気分がすぐれないのだろうか」と、お見上げ申して嘆くが、君はご自分の部屋に帰りになろうとなさって、お硯箱を、御帳台の内に差し入れて出て行かれた。  
人のいない間にやっと頭を上げなさると、結んだ手紙が、おん枕元にある。何気なく開いて御覧になると、  
「どうして長い間何でもない間柄でいたのでしょう   
幾夜も幾夜も馴れ親しんで来た仲なのに」  
と、お書き流しになっているようである。「このようなお心がおありだろう」とは、まったくお思いになってもみなかったので、  
「どうしてこう嫌なお心を、疑いもせず頼もしいものとお思い申し上げていたのだろう」  
と、悔しい思いがなさる。 (渋谷訳)

徒然(つれづれ)な独居(ひとりい)生活であるが、源氏は恋人たちのところへ通って行くことも気が進まなかった。女王がもうりっぱな一人前の貴女に完成されているのを見ると、もう実質的に結婚をしてもよい時期に達しているように思えた。おりおり過去の二人のあいだでかわしたことのないような冗談をいいかけても紫の君にはその意が通じなかった。徒然な源氏は西の対にばかりいて、姫君と扁(へん)隠しの遊びなどをして日を暮した。相手の姫君のすぐれた芸術的な素質と、頭のよさは源氏を多く喜ばせた。ただ肉親のように愛撫(あいぶ)して満足ができた過去とは違って、愛すれば愛するほど加わってくる悩ましさは堪えられないものになって、心苦しい処置を源氏はとった。そうしたことの前もあとも女房たちの目には違って見えることもなかったのであるが、源氏だけは早く起きて、姫君が床を離れない朝があった。女房たちは、 「どうしてお寝(やす)みになったままなのでしょう。ご気分がお悪いのじゃないかしら」 ともいって心配していた。源氏は東の対へ行くときに硯(すずり)の箱を帳台の中へそっと入れていったのである。だれもそばへ出て来そうでないときに若紫は頭をあげてみると、結んだ手紙が一つ枕の横にあった。何げなしにあけてみると、   

あやなくも隔(へだ)てけるかな夜を重ね     
さすがに馴(な)れし中の衣を
と書いてあるようであった。源氏にそんな心のあることを紫の君は想像もしてみなかったのである、なぜ自分はあの無法な人を信頼してきたのであろうかと思うと、情けなくてならなかった、(与謝野晶子訳)

所在がなくて、物思いに沈みがちですけれども、ちょっとしたお忍び歩きも億劫におなりなされて、思いたちもなされません。姫君は何事をも申し分なく身につけられて、すっかり立派におなりなされましたのを、もはや不似合いともいえぬ年ごろと見てお取りになって、それとなく言い寄りなどしてお試しになる折々もあるのですけれども、とんとお悟りにならない御様子です。退屈しのぎに、ただこちらの対で碁だの偏つぎだのをなさりながら日をお暮らしになりますのに、生まれつきが発明で、愛嬌があり、何でもない遊戯をなされましても、すぐれた技量をお示しになるという風ですから、この年月はさようなことをお考えにもならず、ひとえにあどけない者よとのみお感じになっていらっしゃいましたのが、今は怺えにくくおなりなされて、心苦しくお思いになりつつも、どのようなことがありましたのやら。幼い時から睦み合うおん間柄であってみれば、余所目には区別のつけようもありませんが、男君が早くお起きになりまして、女君がさっぱりお起きにならない朝がありました。女房たちが、「どうしてお目覚めにならないのかしら。御気分でもお悪いのであろうか」とお案じ申し上げていますと、君は御自分のお部屋へお帰りになろうとして、おん硯の箱を御帳台の内にさし入れてお立ちになりました。人のいない折にようよう頭(つむり)を擡(もた)げられると、引き結んだ文がおん枕元に置いてあります。何心もなく引き開けて御覧になりますと、

あやなくも隔てけるかな夜を重ね
さすがに馴れしなかの衣を
といたずら書きのように書いてあります。こういうお心がおありになとは夢にも思っていらっしゃいませんので、こんな嫌らしい御料簡のお方を、どうして心底からお頼み申し上げていたのであろうと、情けなくお思いになります。(谷崎潤一郎訳)

こうして源氏は、たいそう所在なげに物思いに伏し沈む日々となり、結果的に、あちらこちらかりそめの女の許へ通うのもなんだか億劫になってしまって、ついぞそんなことを思い立ちもしなかった。
さて、紫の君は、いまではもうなにもかも理想的な姿に成長して、たいそう美しい「おんな」の体つきに見える。
<よしよし、こうなれば、もうそろそろ男と女の契りを結ぶことも似合わぬという感じではないな>と見做して、源氏は折々につけてその男と女がどういうことをするのかということなど、小出しに話して聞かせるけれど、どうやら姫君は、そっちのほうは丸っきり知らないらしい。
参内もせず、通いごともせず、源氏は所在ない日々のなかで、ただこの西の対へやって来ては、紫の君を相手に碁を打ったり、漢字の当てっこをして遊んだりしながら、何日も過ぎていった。
そうやって身近に見れば見るほど、この姫は心ざまがまことに聡明な上に、もうその態度にも女らしい愛敬が出てきて、さりげない遊びのなかにも、いかにもかわいらしい仕草などをして見せるので、源氏は急に姫を女として意識するようになった思えば、この数年、とくに女としては見てこなかった年月というもの、ただただ労ってやりたいかわいらしさは感じたものの、それ以上のことは考えたことがなかったのであった。
けれども今という今、源氏はもう我慢ができなくなった。ちょっとかわいそうな気もしたのだが・・・。
さてどういうことがあったのであろうか、毎日のように床を共にしてよそ目にはもうずっと夫婦同然のような生活に見えたのだが、ある朝・・・。
源氏だけが早く起き出してきたのに、女君は、いつまでも寝床から出てこない、そういう朝があった。女房たちは訝しがって、
「さてさて、どうしたわけでこんなに寝坊をしておられるのでしょう。もしや、ご気分でもお悪くくていらっしゃるのかもしれないわ」
とそんなふうに見てはぼやいている。
源氏はこの朝、東の対に帰るその帰るさに、硯箱を紫の君が臥せっている帳台のうちに、そっと差し入れてから立ち去っていったのであった。
女君は、側に人気(ひとけ)の絶えた折を見計らって頭を持ち上げて見れば、引き結んだ文が枕元にそっと置いてあった。何心もなく、これをさっと開いて見ると、一首の歌が書いてある。

あやなくも隔てけるかな夜を重ね
さすがに馴れし夜の衣を
考えてみると 納得できぬことであったな、あんなに毎夜同じ夜の衣を重ねて寝馴れていたのに、いつも隔てを置いていたなんて
こんな歌がさらさらっと書き流してある風情であった。
姫君は、まさか源氏さまが、「あんなひどいこと」をする心を持っているなど、まったく思いも寄らなかったことなので、<どうして・・・どうして、あんな嫌らしいことをするようなお心の人を、私は疑いもせず、頼もしく思っていたのでしょう、ああいやいや、呆れたわ>と姫は思っている。(林望訳)

眺めがちなれど 「ながめがち」物思いにふけることが多いさま。
似げなからぬほどに 自分の結婚相手として不似合いではない年齢。
けしきばみたること 意中をそれとなくほのめかす。
らうらうじく 利発だ。
思し放ちたる年月こそ、たださるかたのらうたさのみはありつれ 「思し放ちたる年月こそ」結婚の相手としては考えなかったこれまでの幾年月。「たださるかたのらうたさのみはありつれ」子どものかわいらしさはあったが。「さるかた」子どもらしさ。
人まに 「ひとま」[人間]人のいないすきに。
あやなくも隔てけるかな夜をかさねさすがに馴れし夜の衣を どうして今まであなたと契りを結ばず夜の衣を隔てていたか分からない。幾夜も一緒に夜の衣を共にして馴れ親しんできたわたしたち二人の仲なのに。(小学館古典セレクション)/ 幾夜も共に寝て、それでいて何ごともせずに、着慣れた夜の衣を、わけもなく隔てて君と共にしなかったことだ。(玉上)/ どうして長い間何でもない間柄でいたのでしょう幾夜も幾夜も馴れ親しんで来た仲なのに。(渋谷)
さうざうしや 「そうぞうし」あるべき物やなすべき事がなくて物足りない。ものさびしい。
いぶせき御もてなし 「いぶせし」気持ちが、くさくさする状態。どうしてわたしを滅入らせるような仕打ちをなさるのか。
亥の子餅 (いのこもちい)十月最初の亥の日につく祝い餅。当日これを食すれば、万病をはらうと信じられていた。
あだにな 「あだになしたまひそ」(粗略にお扱いなさるな)の略。「あだ」は、粗略なこと。また、浮気な気持ち、の意もある。
花足 (けそく)机や台などの脚に花の形を彫刻したもの。
うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば 「おどろかす」は、気づかせる、意。/ 目を覚まさせる。注意・関心を呼び起こさせる。
夜をや隔てむ 「若草の 新手枕を まきそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに」(万葉2542)意味。若草のような妻と新手枕をかわしてからは、一夜でも行かずにいることなんかできない。可愛くてしかたがないのだから。
今后 弘徽殿皇太后。
御匣殿 貞観殿にあり。内蔵寮とともに帝の御装束を調進する役所。またその別当(女官)。朧月夜がこの職についていることが、はじめて語られる。
をさをさしく しっかりしている。きちんとしている。
かの人も 惟光のこと。気の利かない女房たちと思ってらっしゃるのではないか。
ことざまに分くる御心もなくて 他に心をわけるお気持ちもなくて。
いとほしけれど ①かわいそうだ。気の毒である。いたわしい。②困ったことだ。みっともない。③かわいい。
心おかれぬべし 「こころおく」①気にかける。②気をつける。用心する。③気をつかう。遠慮する。
物げなきやうなり それと認めるほどの事もない。あまり目立たない。
御裳着 女子の成人式。初めて裳をつける儀式。十二~十四歳で行う。
むすぼほれて 「むすぼれる」③気がふさぐ。晴れ晴れしない。
念じ返したまへど 「ねんじかえす」気を取り直してこらえる。思い直して我慢する。
やつれさせたまへ 「やつれる」質素な服装になる。みすぼらしい様子になる。
重ねてたてまつれたまへり 「衣架などにしかけられたるほかに今又御使してたてまつり給へるなり」(岷江入楚)。奉る。差し上げる。
たてまつるべき 「奉る」着る、意の尊敬語。「たてまつる」④「食う」「着る」「乗る」の尊敬語。
あまた年今日改めし色衣着ては涙ぞふる心地する 長い間、年ごとに、今日こちらで着替えをいたしました美しい色の晴れ着を、今年も着てみると、昔のことが思われてただ涙がこぼれるばかりでございます。(小学館古典セレクション)/ 毎年(元日の)今日(ここで)着かえました美しい着物を(今日)着るにつけて涙が降る感じがします。(玉上)/ 年々、元日の今日、ここに伺って着かえた、美しい色衣(晴着)も着ると悲しみの涙が降る心持がいたします。(岩波大系)
新しき年ともいはずふるものはふりぬる人の涙なりけり 新しい年を迎えたと申しましても、相変わらず降るものは、年古りてしまったこの私の涙でございます。(小学館古典セレクション)/ 新しい年であるとも構わず降るものは、年老いた私の涙でございます。(玉上)
おろかなるべきことにぞあらぬや どなたも、並の悲しみではないのです。二人の言葉に対する作者の批評の言葉。

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公開日2017年12月14日