源氏物語  蜻蛉 注釈

HOME表紙へ 源氏物語 目次 52 浮舟
いみじく思したる御けしきは、見たてまつりわたれど、かけても、かくなべてならずおどろおどろしきこと、思し寄らむものとは見えざりつる人の御心ざまを (浮舟が)ひどく思い悩んでいらっしゃったご様子は、常々よく存じ上げていたけれど、(投身入水といった)まさか普通では考えられない恐ろしいことを、お思いつきになろうこととは思えなかったあの方のご性分だったのに。
また、さりともと頼ませたまひて、『君たちに対面せよ』と仰せられつる御心ばへも、かたじけなしとは思されずや それに、いくら何でも(確実なことを話してくれるだろう)と頼みになさって、あなた方と直接会ってこいと仰せられたご信頼のほども、もったいないこととお思いにはならないのですか。
さては、かの恐ろしと思ひきこゆるあたりに、心など悪しき御乳母やうの者や、かう迎へたまふべしと聞きて、めざましがりて、たばかりたる人もやあらむ/と、下衆などを疑ひ、 そのほかには、あの恐ろしいとお思い申しているあたりで(正室女二の宮の所)意地の悪い乳母がいて、薫が浮舟を京へお迎えになるようだと聞いて、目障りなと憎んで、誘拐を企んだ者があるかもしれないと、乳母の指図で邸に潜り込んだ下人を疑い。
いと世離れたりとて、ありならはぬ人は、ここにてはかなきこともえせず 宇治をひどく不便な田舎だといって、住み馴れない新参者は、ここではろくな支度もできません。「はかなきこと」は、『花鳥余情』に「張り洗ふ事など也」という。
親にて、亡き後に聞きたまへりとも、いとやさしきほどならぬを、ありのままに聞こえて、かくいみじくおぼつかなきことどもをさへ、かたがた思ひ惑ひたまふさまは、すこし明らめさせたてまつらむ 親として、死後にそのことをお聞きになったとしても、別に恥ずかしいお相手ではないのですから、ありのまま母君に伝えて、このように全くどうなったのやら分からないといった心配ごとまで、あれこれ考えて思い乱れているご心痛は、いくらかでも晴らしてさしあげましょう。「やさしい」恥ずかしい。肩身が狭い。
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心憂かりける所かな。鬼などや住むらむ。などて、今までさる所に据ゑたりつらむ。思はずなる筋の紛れあるやうなりしも、かく放ち置きたるに、心やすくて、人も言ひ犯したまふなりけむかし (お使いの返事を聞いて)何といってもいかにもあっけない最期と悲しくお思いになるにつけても、(宇治という所は)何かいやなところだなあ。鬼などが住んでいるのだろうか。どうして今まであんな所に住まわせておいたのだろう。///
わがたゆく世づかぬ心のみ悔しく 自分のうかつで恋路にうとい性格が悔やまれて。
式部卿宮と聞こゆる亡せたまひにければも ここで、式部卿は源氏の異母弟と分かる。蜻蛉宮といわれる人。かって薫と縁組を考えたことがある。/ 浮舟は陰の身で、薫が表立って喪に服することはできない。
見えたまはむもあいなくつつまし。見たまふにつけても、いとど涙のまづせきがたさを思せど、思ひ静めて お顔をお合わせになるのも具合が悪く気がさす。(薫を)ご覧になるにつけてもいよいよ涙が先に立って堰き止めがたいことだろうとお思いになるが、気を取り直して。
いとはしたなけれど、「かならずしもいかでか心得む。ただめめしく心弱きとや見ゆらむ」と思すも、「さりや。ただこのことをのみ思すなりけり。いつよりなりけむ。我をいかにをかしと、もの笑ひしたまふ心地に、月ごろ思しわたりつらむ ひどく体裁が悪いが、「必ずしもどうして(浮舟を思っての涙と)気づこう、ただ女々しく気の弱い者と思うことだろう」と宮は思っているが、薫は、「やはりそうだったのか。ただ浮舟のことばかり悲しんでいるのだ。二人の仲はいつからだろう、わたしをお人よしと、お笑いになってもう幾月過ぎているだろう」
こよなくも、おろかなるかな。ものの切におぼゆる時は、いとかからぬことにつけてだに、空飛ぶ鳥の鳴き渡るにも、もよほされてこそ悲しけれ。わがかくすぞろに心弱きにつけても、もし心得たらむに、さ言ふばかり、もののあはれも知らぬ人にもあらず。世の中の常なきこと惜しみて思へる人しもつれなき 何と冷たい人だろう。痛切な悲しみの時は、こんな死別といったことでなくても、空を飛ぶ鳥の鳴き声にも心をそそられて悲しいものだ。もののあわれを知らぬ御仁でもあるまい。世の無常を深く悟った人は、身辺の不幸には冷静でいられるのか。
真木柱はあはれなり。これに向かひたらむさまも思しやるに、「形見ぞかし」  浮舟が薫に向き合っている様子を想像して、薫こそ浮舟の形見なのだ。「わぎもこが来ては寄り立つ真木柱そもむつましやゆかりと思へば」(『釈』『奥入り』以下)。
いとあはれなることにこそ。昨日ほのかに聞きはべりき。いかにとも聞こゆべく思ひはべりながら、わざと人に聞かせたまはぬこと、と聞きはべりしかばなむ 本当にお気の毒なことでした。昨日ちょっと耳にしました。どうなさったかともお悔やみ申そうと思っていたのですが、表立っては世間にお知らせならぬことだ、と聞きましたので、ご遠慮していました。
さる方にても御覧ぜさせばや、と思ひたまへりし人になむ。おのづからさもやはべりけむ、宮にも参り通ふべきゆゑはべりしかば 然るべきお相手(匂宮の寵い者)としてでもお目にかけたい、と考えていた者でございます。いつかそういうこともございましたでしょうか、お邸(二条院 )にもにもお出入り申す縁故もございましたから。中の君の異母妹だったから、と言う。
さるは、をこなり、かからじ とはいえ、それも愚かしい、もう嘆くまい。
宿に通はば 「亡き人の宿に通わば時鳥かけて音にのみ泣くと告げなむ」(『古今集』巻十六哀傷、題知らず、読み人知らず)時鳥(ほととぎす)は冥途とこの世の間を往復する鳥とされていた。『十王経』に見える。
忍び音や君も泣くらむかひもなき 死出の田長に心通はば 忍び音にほととぎすが鳴いていますが、あなた様も泣いていらっしゃいましょうかいくら泣いても効のない方にお心寄せならば(渋谷)/ 忍び音に時鳥が鳴いていきましたが、あなたも声を忍んでお泣きでしょう、もはやかいもない亡き人に心をお寄せならば(新潮)「死出の田長(たおさ)」は時鳥の異名。
橘の薫るあたりはほととぎす心してこそ鳴くべかりけれ 橘の薫るところでは、時鳥も気をつけて鳴くべきなのです(亡き人を偲ぶかと気を廻す人もあるから)/ 橘が薫っているところは、ほととぎすよ気をつけて鳴くものですよ(渋谷)
かかる思ひかけぬ果てまで思ひあつかひ このように思いもよらぬ末々の人までこころにかけて。浮舟は、八宮の隠し子で、中君の話にでるまで、その存在を知られなかった人である。
もとより思すさまならで生ひ出でたまへりし人の (浮舟は)小さい時から不如意な身の上で大きくなられたお方で。父八の宮に認められず、母の連れ子として、継父の任地の東国に育ったことを言う。
「宮をめづらしくあはれと思ひきこえても、わが方をさすがにおろかに思はざりけるほどに、いと明らむるところなく、はかなげなりし心にて、この水の近きをたよりにて、思ひ寄るなりけむかし。 宮を、好ましく慕わしいお方とお思い申しても、こちらの私のことをやはりどうでもよいと思わなかったために、 (浮舟は)(もともと)はっきりした考えもなく、頼りない心根の人だったから、(どうしたらよいか分からなくなって、)この川の流れに近くあるのを幸いに、こんな大それたことを思いついたのだろう。
我もまた憂き古里を荒れはてば誰れ宿り木の蔭をしのばむ わたしもまた、嫌なこの古里を離れて、荒れてしまったら誰がここの宿の事を思い出すであろうか (渋谷)/ 私までが、この悲しい思いでの地を捨てて荒れるままにまかせたら、一体誰がこの宿を思い出すことだろう(新潮)
げに、ことなることなきゆかり睦びにぞあるべけれど いかさま、あまりぞっとしない親類ではあるけれど(谷崎)/ いかにもあまり見栄えのしない親類づきあいというところだが(新潮)/ なるほど、見栄えのしない親戚付き合いのようだが、(渋谷)/ 「ことなり」 (異なり・殊なり)②特にすぐれている。特別だ。格別だ。
かしこには あちらでは。母君のいる三条の小家。
さるは、おはせし世には、なかなか、かかるたぐひの人しも、尋ねたまふべきにしもあらずかし  実際は、生きていらしたら、かえってこんな一族の人のことを訊いておやりになるはずもないことだ。草子地。
后の宮の、御軽服のほどは、なほかくておはしますに、二の宮なむ式部卿に  明石の中宮が御軽服の間は(六条の院に)お里下がりしていらっしゃるのだが、二宮が式部卿になる。「軽服きょうぶく」は、重服じゅうぶく(父母の喪)に対して、その他の近親者のための服喪をいう。叔父式部卿の宮死去による。叔父式部卿崩御によるもの。二の宮は明石中宮腹の第二皇子。匂宮は三の宮
あはれ知る心は人におくれねど数ならぬ身に消えつつぞ経る お悲しみを知る心は誰にも負けませんが一人前でもない身では遠慮して消え入らんばかりに過ごしております(渋谷)/ お胸の内を察しする心は人に劣りませんが、数にも入らぬ私ゆえ (わざとお悔やみも申し上げず)悲しみに絶え入るばかりの思いで過ごしています(新潮)
常なしとここら世を見る憂き身だに 人の知るまで嘆きやはする 無常の世を長年見続けて来たわが身でさえ人が見咎めるまで嘆いてはいないつもりでしたが(渋谷)/ 世の無常を何度も味わっている厭わしい身の私でも、人が気づくほど嘆きを見せていない積りですが(よくぞ察してお尋ねくださいました)(新潮)
姉弟はらからなれど、この君をば、なほ恥づかしく 明石の中宮と、薫が姉弟であること。明石の中宮は、源氏と明石の上の間に生まれた源氏の子であり、薫は、女三の宮と源氏との間に生まれた源氏の子であるから、姉弟の関係になる。ただし、薫は、女三の宮と柏木との間に、ただ一度の不義で、生まれたのかもしれない。
荻の葉に露吹き結ぶ秋風も夕べぞわきて身にはしみける 荻の葉に露が結んでいる上を吹く秋風も夕方には特に身にしみて感じられる(渋谷)/ 萩の葉に露を結ばせる秋風も、夕暮はことさら身にしみてわびしく思われる(かなわぬ恋の思いゆえに)(新潮)
さすがにいみじとものを、思ひ入りけむほど (浮舟が)それでも大変なことになったと思いつめていたということや。
わがけしき例ならずと、心の鬼に嘆き沈みてゐたりけむありさまを (薫)の態度にただならぬものがあると、(浮舟が)良心に責められて嘆き沈んでいたという様子をお聞きになったことも。
亡せたまひぬる式部卿宮の御女 先ほど亡くなった。「式部卿宮」桐壷帝の皇子。源氏の異母弟。娘が薫の正室候補に挙がったことがある。
もどかしきまでもあるわざかな 「もどかし」①非難したくなるようすである。気にくわない。物事が思いどおりに行かなくて。②じれったい。歯がゆい。
そも睦ましく思ひきこゆべきゆゑなき人の、恥ぢきこえはべらぬにや。ものはさこそはなかなかはべるめれ。 そもそも親しくお思い申すべき訳もない人が、恥ずかしがらずに平気でお相手をいたしますのではないでしょうか。薫には、皆が心を寄せているので、気がひけて物が言えないのだ、ととりなす。
かならずそのゆゑ尋ねて、うちとけ御覧ぜらるるにしもはべらねど、かばかり面無くつくりそめてける身に負はざらむも、かたはらいたくてなむ (私は)必ずしもそうした訳のあるなしを見極めて親しくお話させていただくのではございませんが、これほどまで厚かましさを身上といたします私がしりごみいたしますのも、柄にもないことと存じまして(新潮)/ 必ずしもその理由を知ったうえで、くつろいでお話申し上げるというのでもございませんが、あれほど厚かましさが身についているわたしが引き受けないのも、見ていられませんで(渋谷)/ もっとも必ずそれだけの縁故があると分かりましてから、お打ち解け申し上げるというわけのものでもございすまいが、私のようにこう厚かましい癖がついてしまいました身が、柄にもない遠慮をしてご返事いたしませんのも、おかしく存ぜられますので(谷崎)
恥づべきゆゑあらじ、と思ひ定めたまひてけるこそ、口惜しけれ 恥ずかしがる必要もない、恋の相手にならない。と決めてかかっていられるのがまことに残念です。
女郎花乱るる野辺に混じるとも露のあだ名を我にかけめや 女郎花の咲き乱れる野辺に立ち入っても、ー美しい方大勢いられる所に参りましても、かりにも私が浮気だという評判をお立てになれましょうか。わたしは至極真面目な男です(新潮)/ 女郎花が咲き乱れている野辺に入り込んでも露に濡れたという噂をわたしにお立てになれましょうか(渋谷)「女郎花多かる野辺に宿りせばあやなくあだの名をや立つべき (『古今集』巻四秋上、小野美材)
花といへば名こそあだなれ女郎花なべての露に乱れやはする 花といえば、名からして移ろいやすいようですが、女郎花はそこらの露にしどけなく靡いたりしましょうか(新潮)/ 花と申せば名前からして色っぽく聞こえますが女郎花はそこらの露に靡いたり濡れたりしません(渋谷)
旅寝してなほこころみよ女郎花盛りの色に移り移らず やはりここにお泊りになって試してご覧なさいませ、女郎花の盛りの花ー美しい女たちにお心が移るか移らないかを(新潮)/ 旅寝してひとつ試みて御覧なさい女郎花の盛りの色にお心が移るか移らないか(渋谷)
宿貸さば一夜は寝なむおほかたの花に移らぬ心なりとも あなたの方で宿を貸してくださるなら、一晩は泊まりましょう、大抵の花には心ひかれぬ私ですけれども(新潮)/ お宿をお貸しくださるなら、一夜は泊まってみましょうそこらの花には心移さないわたしですが (渋谷)
分きても、かの御もの恥ぢのゆゑ、かならずありぬべき折にぞあめる とりわけ、先ほどの物恥じなさるには訳があるとのお話、きっとその訳がありそうな折のようですから。女房たちが薫に恥じて隠れたりするのを、誰かほかに気のおける方がおいでになるからだろう、と言いなす。暗に匂宮をさした言い方。
おりたちてあながちなる御もてなしに、女はさもこそ負けたてまつらめ(匂宮の)行動的でひたむきなおあしらいに、女はかようにお靡き申すのであろう。
対の御方の、かの御ありさまをば、ふさはしからぬものに思ひきこえて、いと便なき睦びになりゆくが、おほかたのおぼえをば、苦しと思ひながら、なほさし放ちがたきものに思し知りたるぞ、ありがたくあはれなりける 対の御方(中の君)が、匂宮の浮気なご行跡をお気に召さずお思い申されて、(自分との)親しい付き合いがまずいことになってゆく、そんな世間の思惑を、つらいと思いながら、(私を)やはりすげなくはできない者と分かってくださっているのは世にも稀なお方と胸にしみるのだった。/「いと便なき睦びになりゆくが、おほかたのおぼえをば、苦しと思ひながら」(自分・薫との)親しい付き合いがまずいことになってゆく、そんな世間の思惑を、つらいと思いながら。「なほさし放ちがたきものに思し知りたるぞ」(自分・薫を)すげなくできない者と分かってくださっている。
わが母宮も劣りたまふべき人かは。后腹と聞こゆばかりの隔てこそあれ、帝々の思しかしづきたるさま、異事ならざりけるを わが母宮(女三の宮)も (女一の宮に)ひけをおとりになるご身分だろうか。(女一の宮は)后腹と申し上げるばかりの違いであるが。女三の宮は女御腹。それぞれの父帝が慈しまれ大切にお世話なさった有様は違いはしなかったのに。
宮の君 式部卿の宮の姫君。
親王の、昔心寄せたまひしものを 故式部卿の宮が、ご生前私に好意をお寄せくださったもだから。薫を婿にと申し込まれたことをいう。
なみなみの人めきて、心地なのさまや (取り次ぎの女房の挨拶だけでは、)世間並みの扱いのようで、失礼ではないか、とおもしろくないので。
松も昔のとのみ、眺めらるるにも、もとよりなどのたまふ筋は、まめやかに頼もしうこそは 松も昔の、と知る人もない寂しさについ物思いに沈んでばかりいますにつけても、もとからの縁、などと仰せくださることは、心から力強く存じられます。「誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」(『古今集』巻十七雑上、藤原興風 誰をいったい、親しい友人としようか。(長寿で有名な)高砂の松も、昔からの友人ではないのに)
ただなべてのかかる住処の人と思はば、いとをかしかるべきを、ただ今は、いかでかばかりも、人に声聞かすべきものとならひたまひけむ ただ普通の宮仕えの人と思うなら、大層風情もあろうけれど、こんな局住まいをする人が(親王の姫君ともあろう方が)、どうして男に直接応答してよいという風におなりになったのだろうか。
ありと見て手にはとられず見ればまた行方も知らず消えし蜻蛉 そこにいるとは見えても手には取られず、やっと手にしたと思えば、また行方も知れず消えてしまった蜻蛉よ。巻名出所の歌(新潮)/ そこにいると見ても、手には取ることのできない見えたと思うとまた行く方知れず消えてしまった蜻蛉だ(渋谷)
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公開日2021年4月2日