イエス伝

18 人々は、わたしのことを何者だと言っているか

イエスは自分が何のために来たとは言っているが、自分を何者だとはっきり言明したことはない。 しかし説教の折々でそれは示唆され、自分の由来は暗示されている。「権威ある者」として語る調子にもそれは自ずから表れている が、いずれにしてもはっきりと宣言しているわけではない。しかし、もちろんイエス自身ははっきり自覚していたのである。 だがユダヤ人たちには、自分はどう映っているのだろう、人々は自分をどう思っているのだろう、ということが気になっていた。

イエスは、弟子たちや集まってくる人たちからは、通常「主(しゅ)」と呼ばれていた。これは一般的尊称であり、 ユダヤ教の教師(ラビ)に使われるときは最上級の呼称である ✽1。 福音書の著者たちも、イエスのことを指して「主」と呼んでおり、イエスも自分のことを指して使うことがあった。 その他に、盲人や病に苦しむ人々が、すがる思いでイエスに呼びかけるとき、しばしば 「ダビデの子」と呼ばれた✽2。 「ダビデの子」は、「主」とは別の意味で、民衆の尊敬と期待の気持ちを込めて使っているようであった。 これはイエスの生きていた紀元一世紀の時代風潮を反映しており、当時のユダヤの民衆の素朴な信仰が表れている言葉である。 ダビデの時代は、ユダヤの栄光の時代であった。それ以降、国は分裂し、次々に列強の支配を受けて来た。 異邦人を撃ち、ユダヤの神の正義を打ち建て、再びユダヤの国の繁栄を はかるには、ダビデのような王が出て来ると待望され信じられていた。 それはダビデの子孫から出てくるはずだという信仰が民衆の間に連綿と続いていたのである。イエスは呼ばれるままに それを訂正しようとはしなかったが、「ダビデの子」という呼称をイエスは好まなかった。正確ではないと思っていたからである。 このことについては、後にエルサレムの神殿で、ファリサイ人と次のような問答をしている。 これによってやんわりと、自分はダビデの子ではないと示しているのである。

2241 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。 42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、 43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。 44 『主は、わたしの主にお告げになった✽3。 「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を /あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』 45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。 (『マタイ伝』22:41-46)

イエスにとってダビデは、洗礼者ヨハネまでのユダヤの歴史の中の一人の王に過ぎない。またユダヤの民衆に人気があり、 先に遣わされて再来すると信じられていたエリヤは、ヨハネの出現によって実現し、ユダヤの地上の歴史は終わったのである。 その歴史の終わりを告げ、新しく天の国が来ることを告げるために自分は来たのである。 どうして自分がダビデの子であるはずがあろうか。このようにイエスは思っていた。それであえてメシアの問いを ファリサイ人に投げかけたのである。この説明を聞けば自ずから明らかではないか、メシアはどのような者で、 どのように来るのか。メシアはダビデの子から来るのではない、人間の子から来るのではない。それは 「天の主」✽1から来るのだと。

イエスはどうして自分が何者であるかを明らかにしなかったのであろうか。これは謎である。示唆するが明示しない。 ほのめかすが、肯定しないのである。色々と憶測があるであろうが、一般的に受け入れられる説は、イエスの抱懐するメシアが、 一般民衆が待望するメシアと全く違っていたからであろう。それを説明するのはイエスといえども難しかったのである。 それでユダヤの民がどのように自分を思っているか、弟子たちに聞いたことがある。このようなことを聞くイエスの心の動きは、 誰しもそうしたくなるときがあり、きわめて人間的であると思う。自分の宣教がどんな風に受け止められているか、 自分は何者だと思われているのか、また布教効果はどの程度なのか知りたいと考えたのだ。

827イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方 の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、 『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 (『マルコ伝』8:27-8:30)

ユダヤの民衆が様々な呼称でイエスを呼んでいたことが分かります。「洗礼者ヨハネ」、「預言者」、「エリヤ」、 このなかでヨハネは同時代の人ですが、ヨハネが当時の民衆にいかに鮮烈な印象を残していたかがわかります。 どれも伝統的ユダヤ社会のなかで、民衆に素朴に信じられていた預言者像ですが、このどれにもイエスは本当には満足しなかった に違いない。自分を預言者になぞらえて語ることもあったが、それは他に適当な呼称がなかったからである。 ヨハネに関連していえば、ガリラヤの領主のヘロデ・アンティパスはイエスのうわさを聞いて、自分が殺した洗礼者ヨハネの 生まれ変わりだと思い込んでいました。それでイエスの周りに集まる多くの群集が、騒動を起こすことを恐れていましたし、その騒動が いつ反ローマの謀反に発展するかもしれないと恐れていました。それで体制派のファリサイ人と組んで、イエスを 逮捕する機会を狙っていた。いずれにしても、イエスは自分を預言者だとは思っていなかったのである。

「あなたは、メシアです」とペトロが言ったとき、イエスはどんな気持ちだっただろうか。これはマタイにしか書かれていませんが、 イエスは非常に喜んだのである。そしてこのときペトロに最大級の権限を付与し、 「天の国の鍵」✽4を与えている。 イエスはペトロをことのほか可愛がっていました。 しかし、ここでもイエスはペトロの告白を肯定も否定もしていません。ただ自分のことを誰にも話さないようにと 戒めただけです。肯定しないというのは、ペトロの理解するようなメシアではない、ということでしょうか。否定しないというのは、 間違ってはいないからです。誰にも口外するなと注意しているのは、ペトロの言葉が真実を含んでいるからだと思います。 ただ単純にこのことが民衆に広まってしまえば、大変な誤解をまねくと思ったのでしょう。当時のユダヤの民衆は、 容易に民族主義的感情を燃え上がらせる傾向があり、 政治的な反乱を招きかねない空気があったからです。ガリラヤはそのような土地柄でした。

この頁のはじめに紀元一世紀前後のユダヤに広まっていたメシア待望信仰のことを書いた後で、ここに引用した章句を 改めて読み直して、どこか少しへんだなと思った。ペトロが「あなたは、メシアです」と答えるところです。 ペトロはユダヤ教の祭司ではありませんし、そのための学問もしていません。ガリラヤ湖で漁をする漁師でした。いわばガリラヤ 地方の一般民衆です。ペトロも当時のユダヤの民衆と同じようにメシアを理解していたはずです。それは異邦人の支配者を撃ち、 つまりローマ人を打ち破り、ローマの支配からユダヤの民を解放し、ユダヤを再建する王としてのメシアです。 ペトロや他の弟子たちが、メシアをそのように思い描いていたとすれば、ここで「あなたは、メシアです」とペトロが言ったとき、 今日それを読むものはこの言葉をそのように理解しなければならないと思われます。当時の時代背景から推定すれば、ペトロはただ単に、一般民衆が尊称の意味をこめて「ダビデの子」とイエスを呼んだように、イエスに対する最上級の賛辞として、とっさに口をついて出た言葉だったと思われます。しかし今日多くの人々はこの言葉に、後にイエスの信奉者たちが築き上げたメシア像を思い描いて理解しようします。それは後にキリスト教徒と呼ばれた人々が理念的に飛躍させたメシア像です✽5。後になって、異邦人にイエスの教えを伝えようとしたときに、メシア像は変質したのであるが、それは『イエス伝』とは別の物語である。


✽1 「このようにユダヤ的アラム語においては、「主」(<the>lord) という呼び名は、神につけても、またはこの世の権威者につけても、または権威ある教師につけても、または霊的な力とか 超自然的力で著名な人物につけても、よかったのである。その適用の場は、実際には、(一般に新約聖書学者たちのいっている 説とは反対に)全然どこにも限られていないのである。種々の点から考えて、こう思える。純粋に言語学的観点からみても、 イエスは多くの意味で「主」と呼びかけられただろうし、また「主」と記されたことであろう。・・・」 『ユダヤ人イエス』「第5章 主・イエス B 言語学的背景より」G・ヴェルメシュ著 木下順治訳 日本基督教団出版局 1972年
✽2 『マタイ伝』9:27、12:23、15:22、20:30 『ルカ伝』18:38
✽3 「主(神)は、わたしの主(メシア)にお告げになった」詩篇110:1
✽4 『マタイ伝』16:19
✽5 「結論的にいえば、古代のユダヤの祈りや聖書解釈が、はっきりと 示していることはこれである。もし中間聖書時代に、ある者が自分は「メシア」だと主張したり、また人から「メシア」だと 呼ばれたりしたなら、それを聞く者たちは、当然のこととして、その者はダビデ系の救済者にかんするものだと考えたり、 そして自分らの前に、武人的剛勇と正義と聖さ等の才能を合わせもった人物が現れてくるのを期待したであろう、ということである。」 『ユダヤ人イエス』「第6章 メシア・イエス B古代ユダヤ教におけるメシア信仰 (1)メシア待望」
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公開日2009年8月31日
更新2010年1月2日