イエス伝

24 エルサレムにて

エルサレムに来た翌日の朝、イエスはベタニアを出ると実に奇妙な事をした。イエスは空腹をおぼえたので、 道端のいちじくの木に近寄ったが、葉ばかりで実がなっていなかった。いちじくの実る時期ではなかったのである。 するとイエスは、その木に今後いつまでも実がならないようにと呪いの言葉をかけたのである。

それからエルサレムへ行くと神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を境内から追い出し始めた。両替商人の台をひっくり返し、 鳩を売る者たちの椅子を蹴散らし、わらで編んだ鞭を作って牛や羊を追い払ったのである。両替商というのは、 祭りの時はディアスポラ(離散)のユダヤ人たちがエルサレムに集まってくるからである。彼らは異国で流通する様々な 種類の銀貨を持ってきた。しかし神殿に献金するには異邦人の国の銀貨は使えない。ユダヤで流通する銀貨に 両替しなければいけないので、神殿の近くに両替商が必要になってくるのである。また神殿に犠牲の供え物をする人たちは、 金持ちは羊や牛を求めるが、庶民は鳩で済ませるのである。これらの動物をエルサレムに来て神殿の近くで調達するわけである。

本来、ユダヤ人の男子は、年に三回の祭りにエルサレムへ来なければならない。それをきちんと守っている人は どの程度いたか定かではないが、少なくとも本来の義務であることはすべてのユダヤ人なら幼い頃から教えられていたと思われます。 こうして神殿には定期的に大勢の人が集まり、大きな経済圏をなしていました。神殿の境内で商売をするのは、 大祭司の許可が必要であったし、それ相応の許可料を払わなければならなかったと思われます。 こうして神殿は大きな経済的利権を伴っていたのである。イエスがこのように神殿の境内から商売人たちを追い払っているとき、 神殿の守衛長らが飛んできて、イエスの行為を制止することはしていない。イエスの行為は正しかったので、 祭司たちは公には阻止することができず、黙って見守るしかなかったのである。 下級祭司たちのなかには、神殿で商売させる現状を苦々しく思っていた人たちもいたと思われるし、民衆のなかでも神殿の内情を 知っている人たちは、痛快だと思ったことでしょう。大祭司がその地位を乱用して私腹を肥やしていることは、庶民たちもよく 知っていたと思われます。イエスの勇気ある行為に対して喝采を送ったことが、ヨハネに書かれています ✽1。 これは神殿の祭司たち、すなわち当時の体制派の権威に対して、祭りに集まった大勢の民衆の目の前で、真っ向から挑戦する行為であった。 イエスにとっては神殿は「父の家」であり、「祈りの場」であって、そこで商売をするのは、ありうべからざることであった。 こうしてイエスは、ますます神殿の祭司たちに命を狙われることになるのである。

こうしてエルサレムの二日目が終わった。

ところで、あのいちじくの木はどうなったであろうか。翌日のことである。

1120翌朝早く、一行は通りがかりに、 あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。21そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。 「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」22そこで、 イエスは言われた。「神を信じなさい。23はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、 『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、 そのとおりになる。24だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。(『マルコ伝』11:21-11:23)

信仰が究極的に至るところは、「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、 そのとおりになる」と信じ込むことであろうか。 凡人といわずすべての人間にとって、イエスのこの教説は驚きを通り越して、かえって幻滅を味わうことになるだろう。 人間には不可能なことだからである。イエスにとって、いちじくの木を枯らせることは、病を治すことと同様に、 自らの由来の正当性を証しすることであった。そして弟子たちに信仰の本質を教え、それを求めたのである。しかし、 これは人間に出来ることではないし、人間に能力以上のものを要求していることになる。 イエス自身も別の箇所で別の文脈であるが、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と 言っているのである✽2。 このように神への信仰の究極のところ、その本質を見てくると、イエスは人間の側からではなく、 天の国から語っていると考えるほかないのである。

いちじくはぶどうと共に、約束の地カナンを象徴する木である。たとえば列王記上には、 「 ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでも それぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした。」 ✽3とある。ぶどうではなくいちじくであったのは、 たまたまイエスの通る道筋にいちじくの木があったからであろう。そのいちじくを呪って枯らしたというイエスの行為は、 まったく唐突で奇妙で無用で滑稽な感じさえする。マルコのイエスの対する信仰が書かしめた事柄であろうか。 いちじくはユダヤ民族の象徴であるから、これはイエスがユダヤ民族や国家の滅亡を預言したものだ、と解釈する向きもあるようだが、 解釈のし過ぎであろう。イエスは「天の国は近い」との強い予感のなかで宣教しているが、それは必然的に世界の終末が近いことを意味している。 この文脈でイエスがユダヤ人たちに起こるべき天変地異を語ることはあるが、これはこの地上の世界が崩壊することを語っているのであって、 ユダヤ人に限ったことではないのである。イエスは、ユダヤの伝統のなかで育ち、ユダヤ人たちを対象にして教えを説いたのであるが、 この点では民族主義的であるが、旧来の伝統的預言者たちとは違って、ユダヤ民族とかユダヤ国家の運命に関する興味はなかったようです。 そのことにはついては、イエスは一言も言っていないのである。


✽1『ヨハネ福』4:45。
✽2『マタイ伝』19:26、『マルコ伝』 10:27、『ルカ伝』 18:27。
✽3『列王記上』5:5。
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公開日2009年10月20日
更新2010年1月2日