イエス伝

あとがき

イエスの宣教は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言することから始めている。またイエスはこの世の終わりを説明 している文脈のなかで、次のように断言している。

1330はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、 この時代は決して滅びない。31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。 (『マルコ伝』13:30-31)

しかし、イエスの生きた時代は滅びてしまったが、この世の終わりは来なかったのである。したがって天の国も来ていない。 この点に関しては、「わたしの言葉は決して滅びない」と言ったイエスの言葉は、まったく空手形になってしまったのである。

イエスの生涯は、その驚くべき自己犠牲の死によって、完璧なものになった。イエスの言動について、誰も何も指弾する ことはできない。そのためイエスの様々な機会における教えは全部生きてくるのである。特に山上の説教は、 地上に生きているものは、未だ、誰も、イエスを越えることはできない。イエスが天の国から持ってきた 言葉である。

福音書は、それぞれの記者が信仰を通して書いているので、どれがイエスの本当の言葉なのか、確定することは難しい。 読むものの資質によって、また時代によって、理解の仕方は違ってくるのである。今日の時代にあって、 私はただ私が理解する『イエス伝』を書いただけである。長い間気になっていたことを、改めて読み直し、整理して 文字にしたのである。もっと深い理解の仕方があるかもしれないが、これが今の自分の限界である。

イエスには自分はメシアだ、との自覚が明確にあったと思う。大祭司カイアファの前で「おまえはメシアか」と聞かれて、 イエスは沈黙を通したが、これに答えるとすれば、「そうだ」と言うしかなかったからです。 そのように答えることができないので、何故答えることができないのかは色々な説明があるでしょうが、 それでイエスは沈黙を通したのである。また、イエスがメシアの自覚を持っていたことは、洗礼者ヨハネとの関係において、 イエスが認識していたことによって明らかである。イエスは、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」 と言っている。そのように解釈し言い切ることができる者は、その後に来る者、預言者の次にくる者、預言者以上の者のみである。 しかしイエスの自覚していたメシアは、当時ユダヤの人々が待望していたメシアとはまったく違っていたのである。 それを説明するのは非常に難しかったのである。一方イエスはこの世の終わりが来ることは必然であると思っていた。 それは「天の国は近づいた」と宣言することと表裏一体であった。イエスは文字通りそれを実感で感じていたのである。

頁をめくる
次頁
頁をめくる
前頁

公開日2009年11月9日