五百結集
それはまず、その結集の動機として、つぎのようなエピソードを語る。
釈尊がクシナーラ(拘尸那羅)の郊外で亡くなられて間もなくのこと、釈尊の一行よりすこし遅れて旅していたマハー・カッサパ(摩訶迦葉)たちの一行は、むこうからやってくる一人の外道によって、釈尊の訃報を知った。彼らの驚きと悲しみは大きかった。しかるに、その一行のなかに一人の老いたる比丘があり、大声をあげて、思いもよらぬ暴言を吐いたという。
「友だちよ、憂うるなかれ、悲しむなかれ、われらはかの大沙問から脱することを得たのである。かの大沙問は、このことは汝らにふさわし、このことは汝らにふさわしからずと、われらを悩ましたのであったが、いまや、われらは、欲することはなし、欲せぬことはしないでもよいのだ」
そのとき、マハー・カッサパは、ただ黙ってそれを聞いていたが、やがて釈尊の遺骸のあと始末なども終わったとき、彼は、仲間の比丘たちに呼びかけていった。
「友だちよ、われらはよろしく、教法と戒律を結集して、非法おこりて正法おとろえ、非律おこりて正律おとろえ、非法を説くもの強く、正法を説くもの弱く、非律を説くもの強く、正律を説くもの弱くならん時に先んじようではないか」
そのいう意味はほかでもない。やがて、正しい教法がみだれ、正しい戒律がおとろえる時がくるにちがいない。われらは、それに先んじて正しい教法と戒律を結集しようではないかと提言したのである。彼らは、ただちにその提言に賛成した。
「しからば、大徳長老よ、結集のための比丘を選択したまえ」
結集のための比丘の指名がマハー・カッサパに委託されたのである。
・・・「結集」(sangaha)ということをすこし説明しておかなければならない。それは、現代の用語をもっていうならば、つまるところ、編集のための集会なのであるが、その編集の実際は、現代の編集の仕方とまったく異なっており、その内容は「合誦」(sangîti)にほかならなかった。だからこの第一結集は、またしばしば「第一合誦」と称せられるのである。では、その編集の集会、つまり合誦は、どのように運営せられたか。それもまた、その「律蔵」の記事によって、かなり詳しく知ることができる。
まず、マハー・カッサパによって選ばれた五百人の比丘たちは、ぞくぞくとマガダ(摩掲陀)の都ラージャガワ(王舎城)に集まってきた。そして、集会は、郊外のヴェーパーラ(毘婆羅)山腹の精舎においておこなわれた。
その集会では、マハー・カッサパが首座につき、まず二人の人物を選び出した。その一人はアーナンダ(阿難)であった。彼はながい間にわたって釈尊の侍者をつとめた人物であって、師がどこでどのような教法を説かれたかは、彼がいちばんよく知っているはずである。それで、教法の合誦については、彼がその誦出者として選ばれたのである。そして、もう一人はウパーリ(優波離)であった。彼は、戒律を持することにもっとも厳粛であって、戒律の合誦については、彼がその誦出者として選ばれたのであった。そして、その結集の仕事は、つぎのようにして始められた。
まず、首座についたマハー・カッサパが、つらなる五百人の比丘たちに語りかけていった。
「サンガ(僧伽)よ、聞きたまえ。もしサンガにして時よろしくば、われウパーリに律を問わん」
すると、一座は沈黙している。沈黙は承認を意味する。そこで、今度はウパーリが語りかける。
「サンガよ、聞きたまえ。もしサンガにして時よろしくば、われ長老マハー・カッサパの律を問うに答えん」
また、一座は沈黙している。そこで、マハー・カッサパがウパーリに問うていう。
「友ウパーリよ、第一のパーラージカ(重禁罪、pârâjika)は、いずこにおいて制せられたのであろうか」
「大徳よ、ヴェーサーリ(毘舎離)においてであります」
「誰にちなんでであるか」
「スディンナ・カランダプッタ(須提那迦蘭陀子)にちなんでであります」
「いかなる事についてであるか」
「不浄法」についてであります」
そのようにして、マハー・カッサパは、すべての律について問い、またウパーリはそれに随って答えた。
ついで、マハー・カッサパは、一座の比丘たちに語りかけていった。
「サンガよ、聞きたまえ。もしサンガにして時よろしくば、われアーナンダに法を問わん」
そして、マハー・カッサパがアーナンダに問うていう。
「友アーナンダよ、『梵網経(ぼんもうきょう)』(Brahmajâla-sutta)はいずこにおいて説かれたのであろうか」
「大徳よ、それはラージャガハ(王舎城)とナーランダ(那蘭陀)の中間なるアンバラッティカー(菴婆羅樹林)のなかの王の別邸においてであります」
「誰にちなんでであるか」
「遊行者スッピヤ(須卑)と、その弟子のブラフマダッタ(梵摩達)にちなんでであります」
そのようにして、マハー・カッサパはすべての法について問い、またアーナンダは、その問いにしたがって答えた。
そのような問いと答えとが、かわるがわる繰り返される。それを列座の比丘たちは、じっと聞き耳をたてて聞く。そして、それが正しいことが確認されると、今度は、それをもう一度、いや、もう二度、ウパーリが、また、アーナンダがリードしながら、みんなで合誦する。合誦することによって、みんながそれを同一の形式によって、また同一の内容を、おのおの自己の記憶のなかに、はっきりと刻みつけるのであった。かくて、この結集のいとなみは、またしばしば「合誦」と称されるのであり、また、そこに集まった比丘が五百人であったから、それを「五百結集」というのである。
ともあれ、そのようにして、釈尊の説きのこされた教法と戒律とは、その滅後第一年において合誦され、確立された。それが釈尊ののこした弟子たちの最初の事業であって、その教法の結集されたものが、かの「五部」であるというのである。・・・
すでにいうごとく、いまや、それらの経典の集録が、かの「第一結集」に由来するものであることは疑いをいれる余地がない。これらの経典の集録こそ、まさしく「アーガマ」(Âgama、阿含)すなわち「伝来の経」である。だが、翻っていえば、かの時に結集され成立したものが、そのまま、今日みるがごとき厖大なる経典群をなしたものとはとうてい考えられない。かの時において編集されたものは、あくまでも、現形のこの経典群の基体をなすものであって、その間には、いくたの変化があり、増大があり、付加があり、あるいは再編集があって、現にみるごとき「漢訳四阿含」となり、あるいは、「パーリ五部」となったものと考える。
たとえば、すでに、さきに表をもって示したごとく、「漢訳四阿含」が包蔵する経数は、2479経に達する。また、「パーリ五部」が包有する経数は、『小部経典』の15文を除いても、じつに17505経の多きに及んでいる。しかるに、かの「第一結集」はおよそ七ヶ月にして終わったという。その期間において、他方においては、律の合誦をおこないながら、また、教法を誦出し、吟味し、そして合誦することを得た経数は、いったい、幾経に及んだであろうか。わたしは、いろいろの場合を想定しながら計算してみるのであるが、どうしてもそのような厖大な経数をはじき出すことはできないのである。そこには、どうしても、その間にいくたの変化、増大、付加、あるいは、再編集のおこなわれたことを想定するのほかはないのである。
経とは何であろうか。あるいは経の数はどのように数えるのであろうか。それを説明する文を読んだことがない。仏教者には常識なのであろうが、素人にはわからない。思うに経のはじめは漢訳で「如是我聞」(かようにわたしは聞いた)からはじまる。わたしは直接ゴータマ仏陀からこのように聞いた、という意味である。これが経であり、如是我聞の数が経の数であろう。そのいきさつは以下の通りである。
如是我聞
・・・かの第一結集における最初誦出の経について、つぎのような叙述をこころみている。それは、さきにいうところの「漢訳四律」のうちの『十誦律』に記すところであるが、そこには、修妬路(しゅとろ sutta)すなわち経の誦出の消息がこんな具合に語られている。
摩伽迦葉が阿難に問うていった。
「仏の説法は、そのはじめ、何処で説かれたか」
阿難は答えていった。
「かようにわたしは聞いた。ある時、仏は波羅奈(はらな)(Bârânasî)なる仙人住処鹿林(Isipatana Migadâya)中にましました」
阿難がこの語を説いた時、五百の比丘はみな下地(げじ)し、胡跪(こき)し、涕零(ていれい)して言った。
「わたしが仏に従って、面受し見法するところ、今にしてすでに聞けり」
摩伽迦葉が阿難に語っていった。
「今日より、一切の修妬路(経)、一切の毘尼(びに 律)、一切の阿毘曇(あびどん 論)、初めにみな、<かようにわたしは聞いた。ある時>(如是我聞、一時)と称せん」
阿難も、「しかるべし」といった。
そして、それから、かの初転法輪の大様が、かなりくわしくアーナンダによって述べられ、それが、また、かのアンニャ・コーンダンニャ(阿若橋陳如)などによって、「そのとおりである」と証明され、それが比丘たちによって誦出されたという。わたしは、第一結集の情景をイメージに描くときには、いつもこの『十誦律』の描写をもってすることをつねとしている。
阿含経典は口誦伝承の経である。このことは、「第一結集」もしくは「第一合誦」と称せられる仏滅第一年に行なわれた編集の会議の消息において明らかである。したがって、阿含経典の文学形式は、とうぜん、口誦文学としての文学形式であって、今日わたしどもがつねに接する文字文学の形式とは、いろいろな点において大いに異なっている。その異なりのなかでも、もっとも際立ったちがいは、口誦文学における冗長であり、文字文学における簡略である。わたしは、近代文学の一つの特色は省略であると思っているが、それに対して、口誦文学においては繰返しが際立っておおいのである。それについて、わたしは、本居宣長の『玉勝間』のなかの「仏経の文」という短い一文を思い出す。こういっておるのである。
「すべて仏経は、文のいとつたなきものなり。一つに短くいひとらるゝ事を、くだくだしく同じことを長々といへるなど、天竺国の物いひにてもあるべけれど、いとわづらわしうつたなし」
むろん、本居宣長は、阿含経典をゆびさしてこのような批評をしているわけではあるまいが、この批評のことばは、なによりも、阿含経典にぴったりと当て嵌まる。そして、また、その伝統のもとに出来(しゅつらい)したおおくの大乗経典にも該当するであろう。だが、わたしどもは知らねばならない。口誦文学としての文学形式をもって成った阿含経典には、また、そのような繰返しのおおい冗長な文体が必要であったし、それがまた、人々をして「よく法を把握せしめる」とともに、「長夜(ちょうや)の利益(りやく)と安楽とに人々を導く」ものとなったのである。なんとなれば、彼らは、暗誦によってこの法を持するものであったからである。その暗誦は、一定の<きまり文句>(peyyâla=formula)を繰返しすることによってよく確立するものであるからであり、暗誦によってわがうちに確立することをえた<きまり文句>は、よくその人を「長夜の利益と安楽」とに導くであろうからである。
「縁起」(paticca-samuppâda)とは、申すまでもなく、釈尊の正覚の内容をいう術語である。釈尊がブッダ(Buddha,覚者)と称せられるにふさわしい者となったのは、その正覚を成就したその時からのことであり、その正覚を源泉として、そこから、仏教と称せられるもののことごとくが流れ出てくるのである。では、その「縁起」とはどのようなことであろうか。
「縁起」とは、おもしろい言葉である。それは、「縁りて」(paticca=grounded on)ということばと、「起ること」(samuppâda=arising)ということばとが結合して成った言葉である。つまり、なんらかの先行する条件があって生起すること、というほどの言葉であって、それを翻訳して中国の訳経者たちは、「縁起」なる語を造成したのである。詮ずるところ、それは、一切の存在を関係性によって生成もしくは消滅するものとして捉える存在論である。
ここに十二縁起を「南伝 相応部経典12-2 分別」から列挙します。
老死
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生 この世に生まれること 人生とか生きてゆく意味ではない
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有 三つの存在 欲界・色界・無色界の存在
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取 四つの取著 執着すること 欲・所見・戒・我に対する執著
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愛 六つの渇愛 本能的欲望 色(物)・声・香・味・触・法(観念)に対する欲望
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受 六つの感覚 眼・耳・鼻・舌・身・意(六処)の感覚で感受する
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触 六つの接触 眼・耳・鼻・舌・身・意(六処)での接触
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六処 眼・耳・鼻・舌・身・意の認識
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名色 五蘊 色・受・想・行・識 人の肉体と精神の動き
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識 六つの識 眼・耳・鼻・舌・身・意(六処)での識
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行 三つの行 身・口・意の活動
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無明 無智 苦・集・滅・道(四諦)の無知
「五蘊」(khandhâ=factors)とは、釈尊が人間を分析して取り出した五つの要素をいうことばである。・・・釈尊がその人間分析にあたって挙げたのは、つぎの五つの要素であった。
- 色(rûpa=material quality) 物質的要素。 人間を構成する物質的要素は、すなわち肉体である。
- 受(vedanâ=feeling, sensation) これより以下は、人間のいわゆる精神的要素であって、まずその第一には感覚である。感覚は受動的なものであるから、漢訳では、受をもって訳したものと思われる。
- 想(saññâ=perception) 人間の精神的要素の第二には表象である。与えられたる感覚によって表象を構成する過程がそれである。
- 行(sankhâra=preparation, a purposive state of mind) わたしはこれを意志(will)もしくは意思(intention)と訳する。人間の精神はここから対象に対して能動的に転ずる。
- 識(viññâna=consciousness, a mental quality as constituent of individuality)対象の認識を基礎とし、判断を通して得られる主観の心所である。
このように列挙してみると、これらの五つの要素は、まず、人間を分析して、その肉体的要素と精神的要素とにわかち、さらに、その精神的要素を、受・想・行・識にわかったものであることが、容易に観取せられる。
六処(salâyatana=the six organs of sense and six objects)とは、人間のもつ六つの感官(根)、つまり、眼・耳・鼻・舌・身・意と、その対象をなす六つの対境、すなわち、色・声・香・味・触(感触)・法(観念)をゆびさしている言葉である。それを中国の訳経者たちは、あるいは六処(新訳)と訳し、あるいは六入(旧訳)と訳した。思うに、六処の「処」というは所依の義であって、そこにおいて六根と六境とは六識を生ずるがゆえに「処」としたのであり、また、六入の「入」は渉入の義であって、そこにおいて六根と六境とが相交渉して六識を生ずるのゆえをもって「入」としたものと考えられる。つまり、今日の用語をもっていうなれば、六つの感官とその対象が相関係して認識の成立するを「六処」ということばをもって表現したのである。つまり、わたしどもの認識の成立するためには、内なる感官と外なる対象とがなくてはならぬのである。