阿含経を読む

法説

南伝 相応部経典12-1 法説
漢訳 雑阿含経12-16 法説義説
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にいました。
その時、世尊は、「比丘たちよ」と呼ばせたまい、彼らもろもろの比丘たちは、「大徳よ」と答えた。そこで、世尊は、仰せられた。
「比丘たちよ、わたしはいま汝らに縁起について説こうと思う。汝らはそれをよく聞いて、考えてみるがよろしい。では説こう」
「大徳よ、かしこまりました」
と、彼らもろもろの比丘たちは答えた。そこで世尊は説いていった。
「比丘たちよ、縁起とは何であろうか。比丘たちよ、無明(むみょう)によって行(ぎょう)がある。行によって識(しき)がある。識によって名色(みょうしき)がある。名色によって六処(ろくしょ)がある。六処によって触(そく)がある。触によって受(じゅ)がある。受によって愛がある。愛によって取(しゅ)がある。取によって有(う)がある。有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべての苦の集積のよって起こるところである。比丘たちよ、これを縁によって起こるとはいうのである。
比丘たちよ、また、無明を余すところなく離れ滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。識を滅することによって名色は滅する。名色を滅することによって六処は滅する。六処を滅することによって触は滅する。触の滅することによって受は滅する。受の滅することによって愛は滅する。愛の滅することによって取が滅する。取の滅することによって有が滅する。有の滅することによって生が滅する。生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。かかるものが、すべての苦の集積によって滅するところである」
世尊は、そのように説きたもうた。彼らもろもろの比丘たちは、世尊の説かせたもうたところを聞いて、みな歓喜して受納した。
注解
 法説(Desanâ=instruction)とは、法を説くこと、すなわち説法である。そして、ここでは、世尊は、縁起について説法をなされている。しかも、それは、縁起についての説法のもっとも基本的なものということをうるだろう。
縁起については、開題を参照されたい。その開題の説明―縁起(Paticca-samuppada) すでにいうがごとく、それは「縁り起こること」というほどのことばであって、それによって、一切の存在の関係性を表現するのである。正覚の内容を表現する術語としては、もっとも一般的であって、わたしもまた、この存在の法則を表現するには、たいてい、この術語によることを旨としておる。
無明・行・識・名色・六処・触・受・取・有・生・老死 これを十二因縁という。その各支の説明については。次の経「分別」を参照されたい。
更新2007年5月6日