阿含経を読む

カッチャーヤナ(迦旃延)

南伝 相応部経典12-5 迦旃延氏
漢訳 雑阿含経12-19 迦旃延
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にいました。
その時、尊者カッチャーヤナ(迦旃延)は、世尊のましますところにいたり、世尊を礼拝して、その傍らに座した。
その傍らに座した尊者カッチャーヤナは、世尊に申しあげた。
「大徳よ、正見、正見と申しますが、大徳よ、正見とはいったい、どういうことでございましょうか」
「カッチャーシャよ、この世間の人々は、たいてい、有か無かの二つの極端に片寄っている。
カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。また、カッチャーシャよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、この世間には有というものはない。
カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。だが、聖なる弟子たるものは、その心の依拠に取著し、振りまわされて、<これがわたしの我(が)なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。これは一つの極端である。また、<すべては無である>という。これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、中(ちゅう)によって法を説くのである。
無明によって行がある。・・・かくのごときが、このすべての苦の集積よりてなる原因である。また、無明を余すところなく滅することによって行の滅がある。行が滅するがゆえに識の滅がある。・・・かくのごときが、このすべての苦の集積の滅である。
注解
 カッチャーヤナ(Kaccâyana)とは、この経における質問者の名をもって経題としたものである。ウジェーニー(烏惹迩)の出身、後年仏十大弟子の一に数えられ、論議第一と称せられた。この経における彼の質問は「正見」であって、釈尊はそれに答うるに、二辺を離れ、中によりて立ち、縁起の法則によって見るべきことを教えている。・・・
正見(sammâditthi=right view) いわゆる八正道の第一項目であり、その基体であると称せられる。
更新2007年5月8日