阿含経を読む

南伝 相応部経典12-20 縁
漢訳 雑阿含経12-14 因縁法
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、かように仰せられた。
「比丘たちよ、わたしは汝らのために縁起および縁生の法について説こうと思う。汝らは、それを聞いて、よく考えてみるがよろしい。では、わたしは説こう」
「大徳よ、かしこまりました」
と、彼ら比丘たちは世尊に答えた。世尊は、つぎのように説いた。
「比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。比丘たちよ、生によって老死がある、という。このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである。法として定まり、法として確立しているのである。それは相依性のものである。如来はこれを証(さと)り、これを知ったのである。これを証り、これを知って、これを教示し、宣布し、詳説し、開顕し、分別し、明らかにして、しこうして<汝らも、見よ>というのである。
比丘たちよ、生によって老死がある。比丘たちよ、有によって生がある。比丘たちよ、取によって有がある。比丘たちよ、愛によって取がある。比丘たちよ、受によって愛がある。比丘たちよ、触によって愛がある。比丘たちよ、六処によって触がある。比丘たちよ、名色によって六処がある。比丘たちよ、識によって六処がある。比丘たちよ、行によって識がある。比丘たちよ、無明によって行がある。このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである。法として定まり、法として確立しているのである。それは相依性のものである。如来はこれを証り、これを知ったのである。これを証り、これを知って、これを教示し、宣布し、詳説し、開顕し、分別し、明らかにして、しこうして<汝らも、見よ>というのである。
比丘たちよ、無明によって行がある。比丘たちよ、かようにこのあるがままなるもの、虚妄ならざるもの、あるがままに異ならざるもの、相依るもの、比丘たちよ、これを縁起というのである。
比丘たちよ、では、縁生の法というのはなんであろうか。比丘たちよ、老死は常ならざるもの、人のいとなみによるもの、条件によって生ずるもの、なくすることのできるもの、こわれてしまうもの、貪りを離るべきもの、そしてなくなるものである。
比丘たちよ、生は常ならざるもの、人のいとなみによるもの、条件によって生ずるもの、なくすることのできるもの、こわれてしまうもの、貪りを離るべきもの、そしてなくなるものである。
比丘たちよ、有は常ならざるもの、人のいとなみによるもの、条件によって生ずるもの、なくすることのできるもの、こわれてしまうもの、貪りを離るべきもの、そして、なくなるものなのである。
比丘たちよ、取は・・・、比丘たちよ、愛は・・・、比丘たちよ、触は・・・、比丘たちよ、六処は・・・、比丘たちよ、名色は・・・、比丘たちよ、識は・・・、比丘たちよ、行は・・・。
比丘たちよ、無明は常ならざるもの、人のいとなみによるもの、条件によって生ずるもの、なくすることのできるもの、こわれてしまうもの、貪りを離るべきもの、そして、なくなるものなのである。
比丘たちよ、聖なる弟子たちは、この縁起および縁生の法を、正しい智慧をもって、あるがままによく見る。だが彼らもまた過去世のことを想い起こすことがあるであろう。すなわち<わたしは過去世にあったであろうか。それとも、わたしは過去世にはなかったのであろうか。また、何がゆえに過去世にあったのであろうか。あるいは、過去世にはどうあったのであろうか。過去世にはどんな具合で、どうあったのであろうか>と。
また、かの聖なる弟子たちは、未来のことに想いを馳することもあるであろう。すなわち、<わたしは来世にもあるであろうか。それとも、わたしは来世にはないのであろうか。また、何がゆえに来世にあるのであろうか。あるいは、来世にはどのようにあるのであろうか。あるいはまた、わたしは来世にはどんな具合で、どうありたいのであろうか>と。
また、かの聖なる弟子たちは、この現世における自己について、いろいろと思い惑うこともあろう。すなわち、<われというものは、あるのであろうか、ないのであろうか。あるいは、何がゆえにわれがあるのであるか。われとはいったい、どのようにあるのであるか。あるいはまた、いったいこの人々はどこから来たのであろうか。また、彼らはいったいどこに赴くのであろうか>と。だが、彼らは、そのことわりは知らないのである。
そのゆえはなんであるか。比丘たちよ、かの聖なる弟子たちは、ただあるがままに、この縁起および縁生の法を、正しい智慧をもって見るのみであるからである。
注解
 この経の説処もまた、漢訳では竹林精舎、そして、南伝では祇園精舎とあると記されているが、ともあれ、この経における説くところは、わたしどもにとって、もっとも貴重なものの一つである。その説くところは、縁起および縁生の法についてであった。縁起とは、釈尊によって把握せられた存在の法則そのもの、そして、縁生とは、一切の存在はその法則によって存する所以を語っている。そこには、釈尊の思想の基本的性格がずばりと語り出されているのであって、このような説法は、数ある諸経のなかにも見ることは稀なのである。
相依性(idappaccayatâ=having its foundation in this; causally connected) ここに根拠があるというほどの語で、原因結果の関係によって結ばれていることを意味している。
更新2007年5月10日