阿含経を読む

草薪

南伝 相応部経典15-1 草薪
漢訳 雑阿含経34-1 土丸
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、「比丘たちよ」ともろもろの比丘たちによびかけたまい、「大徳よ」と彼ら比丘たちは答えた。
世尊はかように説いて仰せられた。
「比丘たちよ、輪廻はその始めなきものであって、生きとし生けるものが、無智におおわれ、食欲に縛せられて、流転し、輪廻したる始原は知ることを得ない。
比丘たちよ、たとえば、ここに人があって、この世界における草や芝や枝や小枝をきって、一箇処に集め四角の山積みをつくって、その一つずつを、<これはわたしの母である。これはわたしの母の母である>といって数えてゆくとするがよい。だが、比丘たちよ、その人は、まだその母を数え終わらないうちに、この世界の草や芝や枝や小枝は、尽きてしまうだろう。
それは、どうしてであろうか。比丘たちよ、この輪廻はその始めなきものであって、生きとし生けるものが、無智におおわれ、食欲に縛せられて、流転し、輪廻したるその始原は知ることを得ないのである。
比丘たちよ、そのようにして、ながいながい歳月にわたって、苦しみを受け、痛手を受け、災いを受け、ただ墳墓のみがいや増しにましてきたのである。だから、比丘たちよ、この世におけるもろもろの営みは厭うがよく、厭い離れるがよく、したがって、そこより解脱するのがよいというのである」
注解
 ここに挙げる数経の集録は、「無始相応」(Anamatagga-samyutta)と称せられる。「無始」(anamatagga=without beginning or end)とは、その始原を知ることを得ないというほどの言葉であるが、いま、釈尊は、それを、輪廻すなわち衆生の生死流転にあてて語るに、さまざまの譬喩をもって説いているのである。
その第一経においては、まず、「草薪」(tiηakattha=grass and firewood)と称せられるる譬喩をもって説いているのである。
輪廻(samsâra=transmigration) 衆生がさまざまの生をうけて、生死を繰返すこと車輪のごとくなるをいう。
更新2007年5月13日