阿含経を読む

老いて

南伝 相応部経典16-5 老
漢訳 雑阿含経41-23 極老
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、ラージャガワ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。
その時、長老マハー・カッサパ(摩訶迦葉)は、世尊のいますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに座した。
すると、世尊は、傍らに座したマハー・カッサパを顧みて仰せられた。
「カッサパよ、そなたも年をとった。そのような粗末な糞掃衣(ふんぞうえ)はもう着ないでもよい、重苦しいであろう。カッサパよ、そなたはもう家主たちの献じた衣を着け、供養の食をいただいて、わたしのそばにいるがよろしい」
「大徳よ、わたしは永年にわたりまして、山林曠野に住してまいりまして、それを讃嘆いたしております。また、托鉢で生きてまいりまして、托鉢を讃嘆いたしております。また、ずっと糞掃衣を着けてまいりまして、糞掃衣を讃嘆いたしておるのでございます」
「カッサパよ、では、そなたは、いかなる理由をもって、ながらく山林曠野に住して、それを讃嘆するのであろうか。また、ながらく托鉢によって生きてきて、托鉢を讃嘆するのであるか。あるいはまた、ながらく糞掃衣を着けていて、糞掃衣を礼賛するというのであろうか」
「大徳よ、わたしは二つの理由を見るがゆえに、それらのことを讃嘆するのであります。その一つには、現にそれらのことを行じて、わたしは心楽しく住することができるのであります。また一つには、いささかでも、後にいたる人々の参考にでもなればと思うのでございます。後にいたる人々はきっと思うでありましょう。<おお、彼ら仏弟子たりし方々は、ながい年月のあいだ、山林曠野に住して、それを讃嘆しておられた。また、ながい年月托鉢によって生き、托鉢を讃嘆しておられた。あるいはまた、ずっと糞掃衣を着していて、糞掃衣を礼賛しておられた>と。そして、彼らもまたその範にしたがうであろうが、これは彼らにとって、いつまでも利益、幸福となるでありましょう。
大徳よ、わたしは、これら二つの理由を見るがゆえに、永年にわたりまして、山林曠野に住し、かつそれを讃嘆いたします。また、ながいこと、托鉢で生きてまいりまして、托鉢を讃嘆いたすのでございます。また、ずっと糞掃衣を着けてまいりまして、糞掃衣を礼賛いたすのでございます」
「善いかな、善いかな、カッサパよ。まことに、そなたは、多くの人々のために行じ、多くの人々の幸福のため、世間の哀愍のため、生きとし生けるものの利益と幸福のために行じてきたのである。
さらば、カッサパよ、そなたは、これからもまた、粗末な糞掃衣をまとうがよく、托鉢を行ずるがよく、また、山林曠野に住するがよろしい」
注解
 ここに「老」(Jiηηa=decayed,old)というのは、カッサパのことである。かれが出家したのは、釈尊が伝道をはじめてからなお程遠からぬころのことであった。だから、釈尊と彼とは、さほど年齢はちがっていなかったであろう。そして、釈尊の晩年には、彼もまた晩年を迎えていたであろう。この経はその頃のこと。「そなたももう老いたのだから、もうそんな糞掃衣を着なくてもいいよ」と釈尊がいうと、彼は「永年これでまいりましたから、これがなによりでございます」といったという。カッサパの面目躍如というところである。
糞掃衣(pamsukûla=rags from a dust heap) 捨てられた布で造った衣である。
山林曠野に住む(araññaka=living in the forest) これを音訳して「阿蘭若住」と訳する。
人々の参考( ditthânugat=imitation of what one see) 人々が見てそれに随うというほどの意である。
更新2007年5月13日