阿含経を読む

三昧

南伝 相応部経典22-5 三昧
漢訳 雑阿含経3-7.8 受
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。「比丘たちよ」と。「大徳よ」と、彼ら比丘たちは世尊に答えた。そこで、世尊は、このように説かれた。
「比丘たちよ、三昧(さんまい)を修習するがよい。比丘たちよ、三昧を身につけた比丘は、如実に知ることをうるであろう。
では、何を如実に知るのであろうか。いわく しき(肉体)の生起と消滅である。 じゅ(感覚)の生起と消滅である。 そう(表象)の生起と消滅である。 ぎょう(意志)の生起と消滅である。 しき識の生起と消滅である。
では、比丘たちよ、色の生起とは何であろうか。受の生起とは何であろうか。想の生起とは何であろうか。行の生起とは何であろうか。識の生起とは何であろうか。
比丘たちよ、そこに、人は、歓喜し、歓びの声をあげて、縛りつけられるのである。では、何に歓喜し、歓びの声をあげて、縛りつけられるのであるか。
色に歓喜し、歓びの声をあげて、縛りつけられるのである。色に歓喜し、歓びの声をあげて、縛りつけられるので、彼には喜心が生ずる。色における喜びは、それは しゅ(取著)である。取あるによって彼には (存在)が生ずる。有あるによって生が生ずる。生があるによって老死が生じ、愁・悲・憂・悩が生ずる。かくのごときが、すべてこの苦の集積のよって生ずるところである。
受に歓喜し、・・・
想に歓喜し、・・・
行に歓喜し、・・・
また、識に歓喜し、歓びの声をあげて、縛りつけられるのである。識に歓喜し、歓びの声をあげ、縛りつけられるので、彼には喜心が生ずる。識における喜心は、それは取である。取あるによって、彼には有が生ずる。有あるによって生が生ずる。生があるによって老死が生じ、愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、すべてこの苦の集積のよって生ずるところである。
比丘たちよ、これが色の生起である。これが受の生起である。それが想の生起である。これが行の生起である。また、これが識の生起である。
では、比丘たちよ、色の消滅とは何であろうか。受の消滅とは何であろうか。想の消滅とは何であろうか。行の消滅とは何であろうか。また、識の消滅とは何であろうか。
比丘たちよ、ここでは、人は、歓喜せず、歓びの声をあげず、結縛せられずして住する。では、何に歓喜せず、歓びの声をあげず、結縛せられずして住するのであろうか。
色、に歓喜せず、歓びの声をあげず、結縛せられることがないのである。色に歓喜せず、歓びの声をあげず結縛せられることがないから、彼には色にたいする喜心は消滅する。喜心が消滅するがゆえに、彼には取が消滅する。取が消滅するがゆえに、有が消滅する。有が消滅するがゆえに、生が消滅する。そして、生が消滅するがゆえに、老死が消滅し、愁・悲・苦・憂・悩が消滅する。かくのごときが、この苦の集積のことごとく滅するところである。
受に歓喜せず、・・・
想に歓喜せず、・・・
行に歓喜せず、・・・
また、識に歓喜せず、歓びの声をあげず、結縛せられることがないのである。識に歓喜せず、喜びの声をあげず、結縛せられることがないから、彼には識にたいする喜心は消滅する。喜心が消滅するがゆえに、彼には取が消滅する。取が消滅するがゆえに、有が消滅する。有が消滅するがゆえに、生が消滅する。そして、生が消滅するがゆえに、老死が消滅し、愁・悲・苦・憂・悩が消滅する。かくのごときが、この苦の集積のことごとく滅するところである。
比丘たちよ、これが色の消滅である。これが受の消滅である。これが想の消滅である。これが行の消滅である。また、これが識の消滅である。
注解
 「蘊相応」は、もと『相応部経典』第三巻、蘊篇の大部分を占め、158経を集録する。それらは、さらに大きく分かって、「根本五十経」(その実数は五ニ経)、「中五十経」および、「後五十経」(その実数は五六経)の三つのセクションより成る。すべて五蘊に関する経を集録したものである。
そのなかにおいて、「根本五十経」は、五蘊に関するもっとも基本的な経を集録した重要な経典群である。したがって、それらの経はたいてい、原初的な風格をとどめている。
ただ、その冒頭に配せられた数経は、例によって、新しく成立した経を存置しているようである。それらは、サーリプッタ(舎利弗)やマハー・カッチャーヤナ(摩迦迦旃延)など、弟子所説の様式のものであって、原初的な経とは看做しがたいので、ここにそれらの経を採りあげることは躊躇せざるをえなかった。だが、それ以下の諸経は、重複するものなどを除いて、ほぼ全経を訳出しておいた。
三昧(samâdhi=concentration) 心を一処集中することである。漢訳はこれを「方便禅思」と訳している。
如実に知る(yathâbhûtam pajânâti=to know as it really is) 古来からいうところに「如実知見」である。
取(upâdâna=grasping) 十二縁起の一支であり、以下、有・生・老死・・・とつづく。その各支については「分別」を参照されたい。
更新2007年5月16日