阿含経を読む

無常なるもの

南伝 相応部経典22-15 無常なるもの(1)
漢訳 雑阿含経1-9 無常
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は諸々の比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。「大徳よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はこのように説きたもうた。
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有 ものにあらず、わが にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
受(感覚)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
想(表象)は無常である。・・・
行(意志)は無常である。・・・
識(意識)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。
比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、そのように観て、識を厭い離れる。厭い離るれば貪欲を離れる。貪欲を離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの智が生じ、<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえ、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」
注解
 この経題に「無常なるもの」(Yad anicca=what is inpermanent)というのは、色・受・想・行・識の五蘊である。その一々を指して、釈尊はここに、「無常なるものは苦なり、苦なるものは無我なり。無我なるものは我所にあらず、我にあらず、我体にあらず」と説くのである。すなわち、無常・苦・無我の系列をもって、五蘊を無我の諦観に結ぶのである。
わが所有(mama=mine) 古来「我所」もしくは「我所有」と訳せられた。「わがもの」というほどの語である。
わが我(asmi=I am) 古来「我々」などと訳せられた。「これがわたしだ」というほどの意のことばである。
わが本体(atta=myself) 古来「我体」などと訳せられた。「わたし自身」もしくは「わが霊魂」と意味することばである。死後なお存する我などというのが、この考え方である。
更新2007年5月16日