阿含経を読む

重担

南伝 相応部経典22-22 重担
漢訳 雑阿含経3-23 重担
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、「比丘たちよ」と仰せられた。彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。世尊はこのように説きたもうた。
「比丘たちよ、わたしは、いま、汝らのために、重き荷物を になえる者のこと、また、重き荷物を担うこと、重き荷物をおろすことについて説くであろう。よく聞くがよい。
では、比丘たちよ、重き荷物とはなんであろうか。生を構成する五つの要素(五取蘊)がそれである。その五つとはなんであるか。いわく、色(肉体)なる要素、受(感覚)なる要素、想(表象)なる要素、行(意志)なる要素、識(意識)なる要素である。比丘たちよ、これらを名づけて五つの重き荷物というのである。
比丘たちよ、では、重き荷物を担える者とはなんであろうか。人間がそれである。これこれの名、これこれの姓をもてる方々がそれである。比丘たちよ、これらを名づけて重き荷物を担える者というのである。
比丘たちよ、では、重き荷物を担うとは、どういうことであろうか。心に喜び、身を燃やして、あれやこれやに、わっとばかりに殺到する渇愛がそれであって、それが、さらに迷いの生(後有 ごう)をもたらすのである。すなわち、性欲のかたまり(欲愛)、生存欲のかたまり(有愛)、自己優越の欲望のかたまり(無有愛)である。比丘たちよ、これらを名づけて、重き荷物を担うとはいうのである。
比丘たちよ、では、重き荷物をおろすとは、どのようなことであろうか。それは、その渇愛を、まったく、余すところなく離れ滅することであり、放棄することであり、断念することであり、永断することであり、解脱して、執著なきにいたるのである。比丘たちよ、これらを名づけて、重き荷物をおろすというのである」
世尊は、そのように説きたもうた。そのように説いて、この素晴らしい師は、さらに説きたもうた。
「五蘊は重き荷物にして
これを担うものは人である
重きを担うは苦しくて
これを捨つれば安楽なり
すでに重荷を捨てたらば
さらに重荷を取るなかれ
かの渇愛を滅すれば
欲なく自由となりぬべし
注解
 この経題は「重担」(Bhâram=the burden)とある。その重き荷物とは、ふるい訳語をもっていえば「五取蘊 ごしゅうん」である。その「五取蘊」(paûcupâdâna-kkhandhâ=the factors of fivefold clinging to existence)とは、生がそれに依存している五つの要素、あるいは、生を構成する五つの要素というほどの意のことばであって、それは他でもない五蘊のことである。そして、いま釈尊は、それらに執著することがなければ安楽であろうと説いている。この経には偈がある。経の趣旨を要約したものであって、後の人の付したものであろう。
欲愛(kâmataηhâ=thirst after sensual pleasures) 性欲の激情である。漢訳はこれを「欲愛」と訳した。人間の自己拡大の激情である。
有愛(bhavataηhâ=craving for existence) 生存欲の激情である。漢訳はこれを「有愛」と訳した。人間の自己延長の渇愛である。
無有愛(vibhavatanhâ=craving for power, wealth, prosperity) 自己優越の欲望の激情である。漢訳はこれを「無有愛」と直訳した。人間の名誉欲などのたかぶりがそれである。
更新2007年5月16日