阿含経を読む

無常(2)

南伝 相応部経典22-46 無常(2)
漢訳 雑阿含経3-36 正観察
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊はもろもろの比丘たちに告げて、仰せられた。
「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはわが所有 ものにあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。
比丘たちよ、受(感覚)は無常である。・・・
比丘たちよ、想(表象)は無常である。・・・
比丘たちよ、行(意志)は無常である。・・・
比丘たちよ、識(意識)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
そのように、正しき智慧をもって如実に観察するならば、遠い過去をふり返ってああ思いこう思うこともない。遠い過去をふり返ってああ思いこう思うことがなければ、遠い未来を思いやってああ思いこう思うこともないであろう。遠い未来を思いやってああ思いこう思うことがなければ、しつこい執著もないであろう。もはやしつこい執著がなくなれば、その心は、色(肉体)において執するところなく、煩悩を離れて解脱し、・・・受(感覚)において、・・・想(表象)において、・・・行(意志)において、・・・また識(意識)において執するところなく、煩悩を離れて解脱するであろう。解脱するがゆえに、もはや動揺することなく、動揺せざるがゆえに充ち足り、充ち足りるがゆえに恐怖せず、恐怖せざるがゆえに、おのずからまったく涅槃して、<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、さらに迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである」
注解
 この経もまた「無常」(Aniccatâ =impermanence)と題する。ほぼ前経と同じ趣旨の所説であるが、ただ、遠き過去、遠き未来について思うことに言及している点が異なる。
更新2007年5月19日