阿含経を読む

五取蘊の四転

南伝 相応部経典22-56 取転
漢訳 雑阿含経2-9 五転
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて説きたもうた。
「比丘たちよ、生に五つの要素(五取蘊)がある。その五つとはなんであろうか。いわく、色(肉体)なる要素、受(感覚)なる要素、想(表象)なる要素、行(意志)なる要素、識(意識)なる要素がそれである。
比丘たちよ、わたしは、この生に取著する五つの要素の四つの変化の相を、まだ、あるがままに、じゅうぶんに証知するにいたらない間は、比丘たちよ、わたしは、なお、天神・悪魔・梵天のすむ天界、および、沙門・婆羅門、その他、あらゆる人界のすむ世界において、最高の正等覚を実現したとは称さなかった。
だがしかし、比丘たちよ、わたしは、この生に取著する五つの要素の四つの変化の相を、すでに、あるがままに、じゅうぶんに証知することをえた。だからして、比丘たちよ、わたしは、この天神・悪魔・梵天のすむ天界、ならびに、沙門・婆羅門、その他、あらゆる人界のすむ世界において、最高の正等覚を実現したと称するのである。
では、その四つの変化の相というのはなんであろうか。
わたしは、色を証知した。色の生起を証知した。色の滅尽を証知した。そして、色の滅尽にいたる道を証知した。また、わたしは、受を証知した。・・・想を証知した。・・・行を証知した。・・・識を証知した。識の生起を証知した。識の滅尽を証知した。そして、識の滅尽にいたる道を証知したのである。
では、比丘たちよ、色とはなんであろうか。比丘たちよ、四つの元素(地・水・火・風)と、四つの要素によって造られる物、これを名づけて色となす。それを養うものがあって色の生起がある。それを養うものがなくなって色の滅尽がある。また、その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門が、このように色を証知し、このように色の生起を証知し、このように色の滅尽を証知し、そして、このように色の滅尽にいたる道を証知して、よく色を厭い離れ、よく貪りを離れ、よくその滅尽に向うならば、それはよくその道に順うものである。よくその道に順うものは、確乎としてこの法と律のなかに立つものである。
また、比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように色を証知し、このように色の生起を証知し、このように色の滅尽を証知し、そして、このように色の滅尽にいたる道を証知して、よく色を厭い離れ、よく貪りを離れ、よくその滅尽に向うならば、彼はもはや取著なきによりて自由となり、よく解脱せるものとなる。そして、よく解脱すれば、その人はすでに完成したのであり、完成すれば、その時もはや輪廻などどいうものはありえないのである。
では、比丘たちよ、受とはなんであろうか。比丘たちよ、六つの感受する器官のはたらきである。いわく、眼の触れて生ずる感覚、耳の触れて生ずる感覚、鼻の触れて生ずる感覚、舌の触れて生ずる感覚、身の触れて生ずる感覚、意の触れて生ずる感覚である。比丘たちよ、これらを名づけて受となす。そこでは、接触があって受の生起がある。接触がなくなって受の滅尽がある。そして、その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように受を証知し、・・・その時もはや輪廻などということはありえないのである。
では、比丘たちよ、想とはなんであろうか。比丘たちよ、六つの表象する作用である。いわく、色の表象、声の表象、香の表象、味の表象、感触の表象、および、観念の表象である。これらを名づけて想という。そこでも、接触があって想の生起があり、接触がなくなって想の滅尽がある。そして、その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように想を証知し、・・・その時もはや輪廻などということはありえないのである。
では、比丘たちよ、行とはなんであろうか。比丘たちよ、六つの意志するいとなみである。いわく、色への意志、声への意志、香への意志、味への意志、感触への意志、観念への意志である。これらを名づけて行という。そこでも、接触があって行の生起があり、接触がなくなれば行の滅尽がある。そして、その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように行を証知し、・・・その時もはや輪廻などということはありえないのである。
では、比丘たちよ、識とはなんであろうか。比丘たちよ、六つの意識するいとなみである。いわく、色の意識、声の意識、香の意識、味の意識、感触の意識、観念の意識である。これらを名づけて識という。そこでは、名と色があるによりて識の生起がある。名がなく色がなくなって識の滅尽がある。そして、その滅尽にいたる道とは八支の聖道である。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように識を証知し、このように識の生起を証知し、このように識の滅尽を証知し、そして、このように識の滅尽にいたる道を証知して、よく識を厭い離れ、よく貪りを離れ、よくその滅尽に向うならば、それはよくその道に順うものである。よくその道に順うものは、確乎としてこの法と律のなかに立つものである。
比丘たちよ、もろもろの沙門・婆羅門にして、よくこのように識を証知し、このように識の生起を証知し、このように識の滅尽を証知し、そして、このように識の滅尽にいたる道を証知して、よく識を厭い離れ、よく貪りを離れ、よくその滅尽に向うならば、彼はもはや、取著なきによりて自由となり、よく解脱せるものとなる。そして、よく解脱すれば、その人はすでに完成したのであり、完成すれば、その時、もはや輪廻などということはありえないのである」
注解
 ここに「取転」(Upâdânam parivattam=the fourfold series of the five grasping group)と題する経がある。五取蘊すなわち生に取著せしめる五つの要素における、四転すなわち四つの変化のすがたを語る説法というほどの意であって、釈尊は、ここに、色・受・想・行・識の五蘊につき、それぞれの当体とその生起とその滅尽と、そして、その滅尽にいたる道を、くわしく分析して説いておられるのである。
四つの変化(catuparivatta=fourfold circle) ここでは、それを当体・生起・滅尽およびその実践の観点から見るのである。
四つの元素(cattâro mahâbhûtâ=the four great elements) 古来は「四大」と訳した。地・水・火・風がそれである。
輪廻(vatta=round) 「転」と訳すべきことばである。ここでは輪廻転生(round of existence)の意である。
名と色(nâmarûpa=mind and body) 名は姓名、色は肉体、それらによって「心身」すなわち個人格をあらわすのである。
更新2007年5月20日