阿含経を読む

摩羅

南伝 相応部経典23-1 摩
漢訳 雑阿含経6-10 摩
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ラーダ(羅陀)は、世尊のましますところに至り、世尊を拝して、その傍らに座した。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、摩羅(マーラ)、摩羅と仰せられますが、大徳よ、いったい、なにを摩羅となされるのでございますか」
「ラーダよ、色(肉体)があれば、そこに摩羅がある。殺す者があり、また死する者があるであろう。ラーダよ、だから、色を摩羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、あるいは、病なり、はれものなり、刺なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。そのように観ずれば、それが正しい観察というものである。
また、ラーダよ、もし受(感覚)があれば、・・・
また、ラーダよ、もし想(表象)があれば、・・・
また、ラーダよ、もし行(意志)があれば、・・・
また、ラーダよ、もし識(意識)があれば、そこに摩羅があり、殺す者があり、また死する者があるであろう。ラーダよ、だから、識を摩羅であると観じ、殺す者であると観じ、死する者であると観じ、あるいは、病なり、はれものなり、刺なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。そのように観ずれば、それが正しい観察というものである」
「大徳よ、では、いったい、なんのためにそのような正しい観察をするのでありましょうか」
「ラーダよ、厭い離れるために、正しい観察をするのである」
「大徳よ、では、いったい、なんのために厭い離れるのでありましょうか」
「ラーダよ、貪りを離れるために、厭い離れるのである」
「大徳よ、では、いったい、なんのために貪りを離れるのでありましょうか」
「ラーダよ、解脱するために、貪りを離れるのである」
「大徳よ、では、いったい、なんのために解脱するのでありましょうか」
「ラーダよ、それは、涅槃(ねはん)のために解脱するのである」
「大徳よ、では、いったい、なんのために涅槃するのでありましょうか」
「ラーダよ、それは問うことはなはだ過ぎたりというものである。そなたは問うに限界があるということを知らないらしい。ラーダよ、この清浄の行をいとなむ所以は、ひとえに涅槃にいたらんがためであり、涅槃こそはその究極であり、その尽くるところなのである」
注解
ラーダは、サーヴァッティー(舎衛城)の出身、婆羅門種であるが、年老いて出家し、釈尊の侍者をつとめたこともあったようである。彼がその師のまえに呈したる問いは率直をきわめ、それに対して与えられた釈尊の教示はまた簡明をきわめて、まことに珍重すべきものだる。さてこそ、ここに「羅陀相応」と呼ばれる集録も成立したものと思われる。
その第一経をなすものは、まず、「摩羅」(Mâra=the evil one)と題せられる経である。
その説処は、漢訳では「仏住摩拘羅山」と見え、また、「時有侍者比丘、名曰羅陀」とある。とすると、そのころ彼は、侍者であったらしい。
摩羅(Mâra=the evil one) 中国語の「摩」はこの音写のための作字である。"mâra"とは、もと「死」(death)を意味することば。よってもって、「悪しき者」すなわち悪魔を意味する。つづいて、「殺す者」「死する者」だというのは、その原意によるのである。
更新2007年5月20日