阿含経を読む

南伝 相応部経典23-15 苦
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ラーダ(羅陀)は、世尊のましますところに至り、世尊を拝して、その傍らに座した。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、苦、苦と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを苦というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は苦である。受(感覚)は苦である。想(表象)は苦である。行(意志)は苦である。識(意識)は苦である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>と知ることができるのである」
注解
ここにまた「苦」(Dukka=suffering)と題する経がある。釈尊は、ラーダの問いに答えて、五蘊をゆびさして苦であると教示しておられる。
更新2007年5月20日