阿含経を読む

無知

南伝 相応部経典33-1 無知
漢訳 雑阿含経 34-25 愚痴
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、ヴァッチャ(婆蹉)姓の遊行者があり、世尊のいますところに至り、世尊と友情に満ちた挨拶をかわし、丁寧なる言葉をまじえたるのち、その傍らに座した。
傍らに座した ヴァッチャ姓の遊行者は、世尊に申し上げた。
「友ゴータマ(瞿曇)よ、いったいぜんたい、なんの原因により、どんな条件によって、このようないろいろの見解が、この世間に生ずるのであろうか。いわく、あるいは、この世間は常住であるといい、あるいは、この世間は無常であるという。あるいは、この世間は有辺であるといい、あるいは、この世間は無辺であるという。あるいはまた、生命はすなわち身体であるといい、あるいは、生命と身体とは別であるという。また、あるいは、人間は死後にも存するといい、あるいは、人間は死後には存しないといい、あるいはまた、人間は死後には存して存せずといい、存するにもあらず、存せざるにもあらずなどという」
「ヴァッチャよ、それは、色(肉体)について無知であり、色の生起について無知であり、色の滅尽について無知であり、また、色の滅尽にいたる道について無知であるがゆえに、このようないろいろの見解が、この世間に生ずるのである。いわく、あるいは、この世間は常住であるといい、あるいは、この世間は無常であるという。・・・あるいは、また、人間は死後には存して存せず、存するにもあらず、存せざるにあらずなどという。
ヴァッチャよ、このような原因により、このような条件によって、このようないろいろの見解がこの世間に生ずるのである。いわく、あるいは、この世間は常住であるといい、あるいは、この世間は無常であるという。・・・あるいは、また、人間は死後には存して存せず、存するにもあらず、存せざるにもあらずなどという」
注解
ここに「婆蹉相応」(Vacchagotta-samyutta=kindred saying on Vacchagotta)と称する集録がある。ヴァッチャ(婆蹉)姓の遊行者にちなむ経が集められている。その経数五十五に及ぶが、いまは、そのなかから一経のみを取り上げる。
その経は「無知」(Aññâηâ=through ignorance)と題せられる。「無知なるがゆえに」というほどの意である。ヴァッチャの問いになかには、当時の思想界の様子をみえて興味深い。なお、この経はやがて増大されて、『中部経典』72、「婆蹉術多火喩経」(Aggi-Vacchagotta-suttant)となった。
更新2007年5月20日