阿含経を読む

一切

南伝 相応部経典35-23 一切
漢訳 雑阿含経 13-17 生聞一切
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は「比丘たちよ」と呼ばせたまい、彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。そこで、世尊は、つぎのようの説いて仰せられた。
「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。
比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」
注解
この経題は「一切」(Sabba=whole,all)である。その語によって、釈尊がここにいうところのものは、存在一般であり、人間にとっての世界である。内と外の六処をあげて、そのほかの「一切は」考えられないとする釈尊は、まことにリアリスティックな思想家であったといわねばならない。
生聞一切 生聞(Janussoηî)なる婆羅門の質問に答えたものとするのである。
更新2007年5月21日