捨棄
南伝 相応部経典35-24 捨棄
漢訳 雑阿含経 8-45 捨棄
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は比丘たちに告げて仰せられた。
「比丘たちよ、わたしは汝らのために一切を捨棄することについての教えを説こうと思う。それを聞くがよい。
比丘たちよ、では、いったい、一切を捨棄する教えとはなんであろうか。
比丘たちよ、眼は捨棄するがよく、色(肉体)は捨棄するがよく、眼の認識は捨棄するがよく、眼の接触は捨棄するがよい。また、すべてこの眼の接触を縁として生ずるところの受(感覚)の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものを、これを捨棄するがよいのである。
また、耳は捨棄するがよく、・・・鼻は捨棄するがよく、・・・舌は捨棄するがよく、・・・身は捨棄するがよく、・・・意は捨棄するがよく、・・・法(観念)は捨棄するがよく、意の認識は捨棄するがよく、意の接触は捨棄するがよく、また、すべてこの意の接触を縁として生ずるところの受の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものをも、これを捨棄するのがよいのである。
比丘たちよ、これが一切を捨棄する教えである」
注解
この経題は「捨棄」(Pahana=abandoning)である。一切の欲法はまさに捨棄すべきであるが、それには六根・六境の接触を捨棄するのがよいとするのである。無欲恬淡のおしえである。