阿含経を読む

ブンナ(富楼那)

南伝 相応部経典35-88 富楼那
漢訳 雑阿含経 13-8 富楼那
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ブンナ(富楼那)は、世尊に申し上げた。
「大徳よ、願わくば、わがために簡略に法を説きたまわんことを。わたしは、世尊よりその法を聞いて、ただひとり静処にいたって、放逸ならず、熱心に、専念して住したいと思います」
「ブンナよ、眼は色(肉体)を見る。その色は、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅惑的である。もし比丘が、それを喜び、それに心を奪われて、執著していると、やがて彼には、喜悦する心がおこる。そして、喜悦する心がおこると、ブンナよ、苦が生起するのだ、とわたしはいう。
ブンナよ、また、耳は声を聞く。・・・鼻は香を嗅ぐ。・・・舌は味をあじわう。・・・身は接触を感ずる。・・・
さらに、ブンナよ、意は法(観念)を感知する。その法には、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅惑的なものがある。だが、もし比丘が、それを喜び、それに心を奪われて、執著していると、やがて彼には、喜悦する心が生ずる。そして、喜悦する心が生ずると、ブンナよ、苦が生ずるのだ、とわたしはいう。
だが、ブンナよ、眼をもって色を見る。その色は、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅惑的であるが、もし比丘が、それを喜ばず、それに心を奪われず、執著することがなければ、いつしか彼には、喜悦する心が滅する。そして、喜悦する心が滅すると、ブンナよ、苦は滅する、とわたしはいう。
また、ブンナよ、耳は声を聞く。・・・鼻は香を嗅ぐ。・・・舌は味をあじわう。・・・身は接触を感ずる。・・・
さらに、ブンナよ、意は法(観念)を感知する。その法には、心地よく、愛すべく、心を浮きたたせ、その形もうるわしくして、魅惑的なものがある。だが、もし比丘が、それを喜ばず、それに心を奪われず、執著することがなければ、いつしか彼には、喜悦する心が滅する。そして、喜悦する心が滅すると、ブンナよ、苦もまた滅する、とわたしはいう。
ところで、ブンナよ、そなたは、わたしのこの簡略な法を聞いて、いったい、いずれの処に行こうとするのであるか」
「大徳よ、スナーパランタ(輪那鉢羅得迦)というところがございます。わたしは、そこに参りたいと思います」
「ブンナよ、スナーパランタの人々は激しやすい。ブンナよ、スナーパランタの人々は荒々しい。ブンナよ、もしスナーパランタの人が、そなたを嘲りののしったならば、ブンナよ、そなたはどうするのか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、わたしを嘲りののしったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。<まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったくこのスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを拳をもって打つにいたらない>と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝(ぜんさい)よ、その時には、そのように受け取ります」
「だがブンナよ、もし、スナーパランタの人が、その拳をもってそなたを打ったならば、ブンナよ、そなたはどうするか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、その拳をもってわたしを打ったならば、それを、わたしはこう。考えましょう。<まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを土塊をもって打つにいたらない>と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」
「だが、ブンナよ、もしスナーパランタの人が、土塊をもってそなたを打ったならば、ブンナよ、そなたはどうするであろうか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、土塊をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。<まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを杖をもって打つにいたらない>と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」
「だが、ブンナよ、もしスナーパランタの人が、その杖をもってそなたを打ったならば、ブンナよ、そなたは、どうするであろうか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、杖をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。<まったく、このスナーパランタの人は善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、わたしを刀剣をもって打つにはいたらない>と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」
「だが、ブンナよ、もしスナーパランタの人が、刀剣をもってそなたを打ったならば、ブンナよ、そなたは、どう考えるであろうか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、刀剣をもってわたしを打ったならば、それを、わたしは、こう考えましょう。<まったく、このスナーパランタの人は、善良である。まったく、このスナーパランタの人は素晴らしい。彼は、いまだ、鋭き刃をもってわたしの生命を奪うにはいたらない>と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取ります」
「だが、ブンナよ、もしスナーパランタの人が、鋭き刃をもってそなたの生命を奪うにいたったならば、ブンナよ、そなたは、それをどう考えるであろうか」
「大徳よ、もしスナーパランタの人が、鋭き刃をもってわたしの生命を奪ったならば、それを、わたしは、かように考えるでしょう。<かの世尊の弟子たちのなかには、その身、その命について、悩み、恥じ、厭うて、みずから刃をとらんとするものさえあるのに、いま、わたしは、求めずしてそれをうるのである>と。世尊よ、その時には、そのように考えます。善逝よ、その時には、そのように受け取るでありましょう」
「善いかな、善いかな、ブンナよ、汝はすでにかくのごとき自己調御を具有せり。汝は、スナーパランタの地に住することをうるであろう。ブンナよ、いまは、汝の思うままになすがよろしい」
その時、長老ブンナは、世尊のことばを喜び受け、心に喜びをいだいて、座より起ち、世尊を礼拝して、右繞(うにょう)し、座具をあさめ、衣鉢をたずさえて、スナーパランタの地に向って出発した。しだいに旅をかさねて、スナーパランタに地につくと、長老ブンナはその地に住した。
そして、長老ブンナは、そこで、その年のあいだに、五百の在家信者を法に導き、また、その年のあいだに三明(さんみょう)を実現し、また、そのおなじ年に完全なる涅槃に入った。
そこで、おおくの比丘たちは、世尊のましますところに到り、世尊を礼拝して、その傍らに座した。
傍らに座したそれらの比丘たちは、世尊に申しあげた。
「大徳よ、かのブンナと名づける良家の子は、世尊より簡略なる法を説きあたえられましたが、彼は、ついにその生を終わりました。彼が趣くところは、いずこでございましょう。また、彼のうくる来世はいかがなものでありましょうか」
「比丘たちよ、良家の子なるブンナは聡明であった。彼は法にあらがって、わたしを傷つけるようなことはしなかった。比丘たちよ、良家の子なるブンナは、完全な涅槃に入ったのである」
注解
この経題は「ブンナ」(Punηηa,富楼那)である。彼は、後世、仏十大弟子の一人として、説法第一と称せられる。彼もまた、釈尊を拝して、簡略の法を賜らんことを乞うた。彼が、スナーパランタへ趣く覚悟として師のまえに披瀝したことばは、まことに感銘ふかいものであった。
完全なる涅槃(parinibbâna) 漢訳では「般涅槃(はつねはん)」と音写した。入滅すなわち死を意味する。だが、この用法は初期の経には少ない。
更新2007年5月23日