阿含経を読む

箭(や)によりて

南伝 相応部経典36-6 箭
漢訳 雑阿含経 17-15 箭
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、ラージャガワ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて仰せられた。
「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫も、楽しい受(感覚)を感じ、苦しい受を感じ、また、苦しくもなく楽しくもない受を感ずる。
比丘たちよ、またわたの教えを聞いた聖なる弟子も、楽しい受を感じ、苦しい受を感じ、また、苦しくもなく楽しくもない受をも感ずる。
そこで、比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、なにを特異点となし、なにを特質となし、また、なにを相違とするであろうか」
「大徳よ、われらの法は、世尊を根本となし、世尊を眼目となし、世尊を依拠となすのであります。願わくは、そのことについて、われらのために説きたまわんことを」
「比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。
比丘たちよ、それは、たとえば、第一の箭をもって人を射て、さらに、また、第二の箭をもってその人を射るようなものである。比丘たちよ、そのようにすると、その人は、二つの箭の受を感ずるであろう。それとおなじように、比丘たちよ、まだわたしの教えを聞かない凡夫は、苦なる受に触れられると、泣き、悲しみ、声をあげて叫び、胸を打ち、心狂乱するにいたる。けだし、彼は二重の受を感ずるのである。すなわち、身における受と、心における受とである。
すなわち、苦なる受に触れられると、彼は、そこで瞋恚(いかり)を感ずる。苦なる受にたいして瞋恚を感ずると、眠れる瞋恚の素質が彼を捉える。また、彼は、苦なる受に触れられると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。比丘たちよ、おろかなる凡夫は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知らないからではないか。そして、欲楽を欣求すると、眠れる貪欲の素質が彼を捉える。彼は、また、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、ほんとうには知ってはいない。それらのことをよく知らないからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えることとなる。
つまり、彼は、もし楽受を感ずれば、それに繋縛せられ、もし苦受を感ずれば、それに繋縛せられ、また、非苦非楽なる受を感ずれば、それえに繋縛せられる。比丘たちよ、このようなおろかなる凡夫は、<生により、死により、憂いにより、悲しみにより、苦しみにより、嘆きにより、絶望により繋縛せられている。詮ずるところ、苦によって繋縛せられている>とわたしはいう。
しかるに、比丘たちよ、すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。
比丘たちよ、それはたとえば、人が第一の箭をもって射られたが、第二の箭は受けなかったようなものである。比丘たちよ、そのようだとすると、その人は、ただ一つの箭の受を感ずるのみであろう。それとおなじように、比丘たちよ、すでにわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、苦なる受に触れられても、泣かず、悲しまず、声をあげて叫ばず、胸を打たず、心狂乱するにいたらない。けだし、彼はただ一つの受を感ずるのみである。すなわち、それは、身における受であって、心における受ではないのである。
だから、彼は、苦なる受に触れられても、そこで瞋恚(いかり)を感じない。苦なる受にたいして瞋恚を感じないから、眠れる瞋恚の素質が彼を捉えない。また、彼は、苦なる受に触れられても、欲楽を求めない。なぜであろうか。比丘たちよ、わたしの教えをきいた弟子は、欲楽をほかにしては、苦受から逃れる方法を知っているからではないか。そして、欲楽を願わないから、眠れる貪欲の素質が彼を捉えないのである。また、彼は、それらの受の生起も滅尽も、あるいは、その味わいも禍いも、あるいはまた、それからの脱出の仕方も、よくよく知っている。それらのことをよく知っているからして、苦でもない楽でもない受から、眠れる無智の素質が彼を捉えるようなことはない。
つまり、彼は、楽受を感じても、繋縛せられることなく、もし苦受を感じても、繋縛せられることなくしてそれを感ずるのである。比丘たちよ、このようなわたしの教えを聞いた聖なる弟子は、<生によっても、死によっても、憂いよっても、悲しみによっても、苦しみによっても、嘆きによっても、また絶望によっても繋縛せられないのである。詮ずるところ、苦によって繋縛せられない>とわたしいう。
比丘たちよ、わたしの教えを聞いた聖なる弟子と、まだわたしの教えを聞かない凡夫とは、これを特異点となし、これを特質となし、また、これを相違となすのである。

賢き者は受によりて動かず
智ある者は苦楽に揺るがず
賢者を凡夫にくらべなば
天地霄壌(しょうじょう)の差異のあるなり

法をさとりて智慧ふかく
この世かの世を知りつくし
快楽に心をまよわさず
苦難に心ひるむことなし

心にそうも、そわざるも
みなことごとく消えはてて
清浄無垢の道を行き
彼の岸にこそ立てるなれ 」

注解
つづいて、「受相応」(Vedanâ-samyutta)のなかから二つの経を取り上げる。南伝の「受相応」のなかにはニ十九経が集録されているが、それらは後代の変化を受けたものがおおい。そのなかから、よく古形を保てる一経と、きわめて興味ふかい一経とを取り上げたのである。
まず、最初の経は、その経題を「箭によりて」(Sallattena=by the arrow)という。有聞の聖弟子も、無聞の凡夫も、「楽受を感じ、苦受を感じ、また非苦非楽受をも感ずる」のだが、どこが違うのであるか。そのことについて、釈尊はここに「箭」の喩えをもって説いておられるのである。
素質(anusaya=predisposition) 漢訳はこれをでは「随眠」と訳した。眠れる煩悩の種子というほどの意である。
更新2007年5月25日