阿含経を読む

ヴァッチャ(婆蹉)

南伝 相応部経典44-8 婆蹉
漢訳 雑阿含経 34-22 未曾有
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、ラージャガワ(王舎城)のヴェールヴァナ(竹林)なる栗鼠養餌所にましました。
その時、一人のヴァッチャ(婆蹉)姓の遊行者が、世尊のましますところに到り、会釈をかわし、親愛にみちた慇懃なる談話をまじえたのち、その傍らに座した。
傍らに座したヴァッチャ姓の遊行者は、世尊に申しあげた。
「友ゴータマよ、世間は常恒でありましょうか」
「ヴァッチャよ、<世間は常恒である>とは、わたしは言わない」
「しからば、友ゴータマよ、世間は無常でありましょうか」
「ヴァッチャよ、<世間は無常である>とは、わたしは言わない」
「しからば、友ゴータマよ、世間は有限でありましょうか」
「ヴァッチャよ、<世間は有限である>とは、わたしは言わない」
「しからば、友ゴータマよ、世間は無限でありましょうか」
「ヴァッチャよ、<世間は無限である>とは、わたしは言わない」
「しからば、友ゴータマよ、霊と身とは同一でありましょうか」
「ヴァッチャよ、<霊と身とは同一である>とは、わたしは言わない」
「しからば、友ゴータマよ、霊と身とは別々でありましょうか」
「ヴァッチャよ、<霊と身とは別々である>とは、わたしは言わない」
「では、友ゴータマよ、人は死後もなお存するでありましょうか」
「ヴァッチャよ、<人は死後もなお存する>とは、わたしは言わない」
「しからば、友ゴータマよ、人は死後はもはや存しないでありましょうか」
「ヴァッチャよ、<人は死後はもはや存しない>とは、わたしは言わない」
「しからば、友ゴータマよ、人は死してのち、なお存し、また、もはや存しないでありましょうか」
「ヴァッチャよ、<人は死してのち、なお存し、また、もはや存しない>とは、わたしは言わない」
「しからば、友ゴータマよ、人は死してのち、存在せず、また、存在せざるにもあらぬのでありましょうか」
「ヴァッチャよ、<人は死してのち、存在せず、また、存在せざるにもあらぬ>とは、わたしは言わない」
「友ゴータマよ、あなたは、そのように問われて、それをことごとく否定なさるのは、いったい、いかなる因(理由)により、いかなる縁(条件)によるのでありましょうか」
「ヴァッチャよ、外道の遊行者たちは、色(肉体)を我(が)と見る。あるいは、われは色を有すと思い、あるいは、われに色ありと思い、あるいはまた、色に我ありと思う。また、彼らは、受(感覚)を我と思う。・・・想(表象)を我と思う。・・・行(意志)を我と思う。・・・識(意識)を我と思う。・・・だからして彼らは、そのように問われると、あるいは<世間は常恒である>とか、<世間は無常である>とか、・・・あるいは<人は死してのち、存在せず、また、存在せざるにもあらぬ>などと答えるのである。
だが、ヴァッチャよ、わたしは、色(肉体)を我と見ない。あるいは、われは色を有すとも思わず、あるいは、われに色ありとも思わず、あるいはまた、色に我ありとも思わない。また、わたしは、受(感覚)を我と思わない。・・・想(表象)を我と思わない。・・・行(意志)を我と思わない。・・・識(意識)を我と思わない。・・・だからして、わたしは、そのように問われても、あるいは、<世間は常恒である>とか、・・・あるいは、<人は死してのち、存在せず、また、存在せざるにもあらず>などとも答えないのである」
そこで、ヴァッチャ姓の遊行者は、その座より起って、長老マハー・モッガラーナ(摩訶 目連)のところに到り、会釈をかわし、親愛にみちた慇懃なる談話をまじえたのち、その傍らに座した。
傍らに座したヴァッチャ姓の遊行者は、長老マハー・モッガラーナに語りかけた。
「友モッガラーナよ、世間は常恒であろうか」
「ヴァッチャよ、<世間は常恒である>とは、世尊の説きたまわぬところである」
「しからば、友モッガラーナよ、世間は無常であろうか」
「ヴァッチャよ、<世間は無常である>とは、世尊の説きたまわぬところである」
「しからば、友モッガラーナよ、世間は有限であろうか」
「ヴァッチャよ、<世間は有限である>とは、世尊の説きたまわぬところである」
・・・
「しからば、友モッガラーナよ、人は死してのち、存在せず、また、存在せざるにもあらぬのであろうか」
「ヴァッチャよ、<人は死して後、存在せず、また、存在せざるにもあらず>とは、世尊の説きたまわぬところである」
「では、友モッガラーナよ、世尊がそのように問われて、それをことごとく否定なさるのは、いったい、いかなる因により、いかなる縁によるのであろうか」
「ヴァッチャよ、外道の遊行者たちは、色を我と見る。あるいは、われは色を有すと思う。あるいは、われに色ありと思い、あるいはまた、色に我ありと思う。また、彼らは、受を我であると思う。・・・想を我であると思う。・・・行を我であると思う。・・・識を我であると思う。・・・だからして、彼らは、そのように問われると、あるいは<世間は常恒である>とか、<世間は無常である>とか、・・・あるいは<人は死して後、存在せず、また、存在せざるにもあらず>などと答えるのである。
しかるに、ヴァッチャよ、世尊は、色を我であると見ない。あるいは、われは色を有すと思わない。あるいは、われに色ありとも思わず、あるいはまた、色に我にありとも思わない。また、世尊は、受を我である思わない。・・・想を我であると思わない。・・・行を我であると思わない。・・・識を我であるとも思わない。・・・だからして、世尊は、そのように問われても、あるいは、<世間は常恒である>とか、・・・あるいは、<世間は無常である>とか、・・・あるいは、<人は死して後、存在せず、また、存在せざるにもあらず>などとも答えないのである」
「素晴らしいかな、友モッガラーナよ、素晴らしいかな、友モッガラーナよ、師と弟子と、その説くところが、その義においても、その語においても、たがいに相一致し、相調和して、まったく欠くるところなく、すなわち、その第一義においてぴったり合致しているとは、まことに素晴らしいことである。
友モッガラーナよ、さきほど、わたしは、沙門ゴータマのところに参って、このことについて問うたのであるが、沙門ゴータマもまた、友モッガラーナと、まったくおなじ語、おなじ句をもって、このことを説き明かしたもうた。素晴らしいかな、友モッガラーナよ、素晴らしいかな、友モッガラーナよ、師と弟子と、その説くところが、その義においても、その語においても、たがいに相一致し、相調和して、まったく欠くるところなく、すなわち、その第一義においてぴったり合致しているとは、まことに素晴らしいことである」
注解
ここでも「無記説相応」(Avyâkata-samyutta)のなかから、ただ一経のみを取り上げる。「無記説」(avyâkata=the unrevealed)とは、釈尊が、世界の常・無常とか、人間の死後の存在の問題について、明言しなかったことをいうことばであって、ここには、このような問題に関する経が、十一経あつめられている。ここに取り上げた一経は、「ヴァッチャ(Vaccha,婆蹉)と題されている。そのヴァッチャとは、一人の外道の遊行者の姓であって、彼もまた、そのような問題について、釈尊ならびにモッガラーナ(目 連)に問い、いずれも明言を得られなかった。この経もまた、古形のままではないように思われる。
更新2007年5月26日