阿含経を読む

阿含経を読んで

仏教は二度伝来した、と言う学者がいる。一度は飛鳥時代の538年に、百済から経典と仏像が欽明天皇(?)の世に伝えられた。二度目は明治維新以後西洋の仏教研究の成果が紹介され、パーリ語原典の経典(『パーリ五部』)がもたらされる。これは漢訳では『阿含経』と総称され、経典としてあったのであるが、中国でも日本でもほとんど顧みられることがなかった。スリランカや東南アジアの国々に今日まで伝えられている南伝仏教である。当時の釈迦の教えが、比較的原型に近い形で書かれており、また等身大の釈迦を彷彿させる経典である。

五月の一ヶ月をかけて、初めて『阿含経典』(増谷文雄訳選 6巻)を読んだ。自分の考えをなんとかまとめたい。仏典を読むのはこれが初めてなので、仏教のいろはから少しは勉強した。

釈迦は、なにかの世界観を提示したのではない。人間をこの世の苦から解脱する道を示したのである。そのための考え方を示しその方法を教えたのである。

出家について

いつの時代にあっても、人は国や地域社会の成員であったり、ある特定の組織や階層に属していたり、家族の一員であったりするわけであるが、その前に個人であり、生まれ老い病みそして死んでゆくひとりの人間である。誰かがその人に代わって生きることはできない。釈迦の時代にあっても、勿論そうであった。その人個人の生老病死である。現世を苦あるいは迷妄と見るならば、その人が修行を積み、そこから解脱しなければならない。そのためには、出家をしなければならない。出家して、一人山林に入り、修行するのである。食は托鉢によって得たものだけを、一日一回午前中(午前中に二回と説明する本もあった)に食する。このことは、すでにインドでは、出家修行者には、食を供養する習慣があったことになる。着るものは、糞掃衣(ふんぞうえ)といって、糞塵のなかに捨てられた弊衣を洗って、縫い合わせ、それを着る。住まいは、空き家、洞窟、岩陰、樹下等々自然の中で、自分を保護できるものに身を寄せることになる。こうしたインドの伝統は、独特なものであると言わねばならない。何を求めて出家するのだろう。世の中から離れ、自己を克服して、苦や迷妄から解脱し、心の平安のなかでなにか普遍的なるものを体得することによって、聖者になるのが理想なのである。また世間の人もそのような聖者に供養し、敬い大切にする伝統があった。

ジャンプカーダカ(閻浮車)という沙門が、釈迦の弟子中智慧第一といわれたサーリプッタ(舎利弗)に「この教え(ゴータマ仏陀の教え)では、何が難しいか」と問う場面がある。その時、サーリプッタは、まず第一に出家することが難しいと答えている。次に、出家したあとでは、それを楽しむということが難しいと答えている。 そして最後に、法にしたがって修行することが難しいと答えている。貴重な体験談である。出家者は、最小限の食を得、最小限の睡眠をとり、自然の脅威から最小限に身を守ることの他は、もっぱら修行に専念する。修行して、俗世の迷妄から解脱しようと努めるのである。

釈迦は、29歳の時、出家した。その原因は、だれでも人は生まれて成長して、やがて老い病みそして死ぬことを知り、この人生の有様は苦であると認識したことによるとされている。この感じ方は非常に感性的であり、また本質的であると同時に、個性的でもある思う。

釈迦は人が生きることは苦であると認識して出家したのであるが、このように認識したからといって、あるいは修行して覚醒を得たとしても、この現実を変えることができるわけではない。人が老いそして死ぬことは避けられない。なぜ人は老いそして死ぬのか、という問いを反芻しながら、苦の縁って起こる理の究明と、それからの離脱をめざして、六年間の苦行に励んだ。はげしい苦行のなかで、釈迦は気が付く、肉体を苦しめても認識主体としての自分が解脱することは出来ないと。肉体が衰弱するとともに思考力も弱ってゆく。

釈迦は苦行を止め、マガダ国のウルヴェーラーの村におりてきて、村を流れるネーランジャラー河の岸辺で身体を洗い、後世いうところの菩提樹の下で、禅定に入った。通りかかった村人が、座布用に干草を供養し、スジャータという名の村娘が、乳粥を供養したと伝えられている。このあたりの情景は、釈迦の生涯のなかでもいちばん美しい場面であろう。そこで釈迦は、遂に覚醒を得た。その喜びは七日間続いたという。契機となったのは、縁起の法を感得することによって悟りを得たといわれている。釈迦35歳の時である。釈尊の覚醒の機縁となった縁起の法とは、なんだろうか。

縁起の法

縁起の法は、最初はきわめて素朴な形で、
これあるがゆえにこれがあり、これ生ずるがゆえにこれが生ずるのであり、これなきがゆえにこれがないのであり、これ滅するがゆえにこれが滅するのである (南伝 相応部経典12-37 汝のものにあらず )
と説かれている。また、それは相依性であるとも説かれている。これは事物と表象つまりこの世に存在するものすべて、形のあるものも形のないものも、単独で自立して、すなわちそれ自身で存在しているものはないという意味である。サーリプッタ(舎利弗)は、『藁束』という経のなかで、マハー・コッティアの問いに対して次のように答えている。
「友サーリプッタよ、老死は自作(じさ)であろうか、それとも、他作(たさ)であろうか。あるいは、老死は自作にしてかつ他作であろうか。それともまた、自作にもあらず、他作にもあらず、因なくして生ずるものであろうか」
「友コッティアよ、老死は自作ではない。また、老死は他作でもない。あるいは、老死は自作にしてかつ他作なのでもない。あるいはまた、自作にもあらず、他作にもあらず、因なくして生ずるものでもない。ただ、生あるによって老死があるのである・・・友よ、それは、たとうれば、二つの藁束は相依って立つであろう、ということである。・・・もしそれらの藁束のうち、そのいずれか一つを取り去ったならば、他の一つは倒れるであろう。・・・(南伝 相応部経典12-67 藁束) 
ここで言われている自作とは、それ自身で単独で在るあるいは生じるという意味であろうし、他作とはまったく他のものによってその存在があるいは事象が成り立っているというほどの意味であろう。老死が確実にくるという事実は、自作でもなく、他作でもなく、また因なくして成立するということでもなく、そのどれでもなくて、ただ二つの藁束のように、相依って存在している一方のものであり、一つを取り去れば他の一つも倒れるという関係にある。これがまた、相依性といわれる関係である。藁束の一つに老死があり、相依っているもう一つに生がある。つまり生まれてきたから、老死がくるといっているのである。これは、自然の摂理をそのまま辿っているのである。
釈迦の覚醒した縁起の法とは、人が老いて死ぬのはなぜか、それは生まれてきたからである。生まれてこなければ老死もない、ということから始まる。では人はなぜ生まれてきたのであろうか。人は何のために生きるのかという問いなら、これから生きるために沢山の人が問いかけるが、なぜ生まれてきたかその原因を逆に辿る人は、科学者のような姿勢である。ここから後に十二縁起と呼ばれる連鎖が想起され、辿られる。それは、分析につぐ分析によって辿られるのである。まさに釈迦自身が想起した分析である、つまり釈迦の個性がここも現れてくるのである。釈迦は次のように説いている。
比丘たちよ、縁起とはなんであろうか。比丘たちよ、生によって老死がある、という。このことは、如来が世に出ようとも、また出まいとも、定まっているのである。法として定まり、法として確立しているのである。それは相依性のものである。如来はこれを証(さと)り、これを知ったのである。これを証り、これを知って、これを教示し、宣布し、詳説し、開顕し、分別し、明らかにして、しこうして<汝らも、見よ>というのである。(南伝 相応部経典12-20 縁)
非常に簡潔な表現である。そしてこれは普遍的な法であると述べている、つまり人間の関与する余地のない自然の摂理である―これが無我説だと思うのであるが。ここで、如来というのは釈迦自身のことである。

縁起の十二支は、初めからあったわけではないようである。三支、五支、六支、八支等々色々あったようである。釈迦自身が実際にどこまで説いたかは分からない。「すなわち整備された現存の阿含経においてすら、ついに縁起説の統一は完成しなかった。まして、口伝の時代には、さらに種々なる縁起説が入り乱れて行なわれていたであろうことは、想像にかたくない。(『バウッダ・仏教・』中村元・三枝充悳著 小学館 p148)」と書かれている。十二支までゆくと、大変わかりずらくなってくる。ここまで分析してそれぞれの支を立てる必要があるのかと思ってしまう。またこの十二支は、世界の成り立ち等の要因をあげているのではなく、人間の有様を分析しているだけであることがわかる。ここにも釈迦の特徴があると思う。あくまでも生きている人間の側から、個人の解脱のために必要とされるものである。ここは一通りの紹介だけします。

老死ろうししょうしゅあいじゅそく六処ろくしょ名色みょうしきしきぎょう無明むみょう
生は、仏教においては、常に「生じる、生まれる」の意であって、「生きる」の意味はない。

また十二縁起は、どこか整合性に欠けた処があるように思われる。たとえば、老死→生(生まれる)とくれば、その先は前世になってしまう。また生きている人間を想定して無明からはじめると、やはり生で来世になってしまう。釈迦が前世や来世を前提にして縁起をたどったとは、とても考えられない。なぜなら、釈迦は知らないことは説かなかったからだ。また、ここに輪廻の思想の残滓が混じっているような気がする。

一切皆苦

縁起の十二支のなかに苦の因はないが、釈迦が経を説くたびに、苦は主調音となって聞こえてくるようである。生きていることはどうしてこのように苦なのか、妻子や王子の地位を捨てて出家したのも、苦から出離するためであり、その後何人かの師を尋ねて学んだのも苦の原因を知るためであり、6年間のはげしい苦行に励んだのも、苦から解脱するためであったと言えよう。縁起の法も、人間の全体を感覚に還元する六処の説(眼・耳・鼻・舌・身・意)も、人間の存在を定義する五蘊(色・受・想・行・識)の説もすべて、苦の問題解決のために考え出されたものの様に思われる。

釈迦は修行している比丘たちを励ますために、大地と爪の先にのせたひとつまみの土を喩えて、滅し尽くした苦の量はまだ残っている苦の量に比べ、百千倍も多いと説いている。また、合流する大河の水と掌にすくった水の量を比べ、すでに滅尽した苦は圧倒的に多く、残っている苦はわずかであると説いている。苦に対する釈迦の思わくは、大変深いのである。

無常・苦・無我

また、無常も苦の原因として説明されているし、無我も苦から出離するための理由として説かれている。
比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、わが我 (が)にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。(南伝相応部経典22-15 無常なるもの(1))
このフレーズは常套句として、リフレインのように繰り返し繰り返し出てくる。受は・・・、想は・・・、行は・・・、識は無常である。無常(anicca)なるものは苦(dukkha)である。苦なるものは無我(anattan)である。無我なるものは、わが所有 にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず、と。ここで、パーリ語をふったのは、無我(anattan)は我(attan サンスクリットでâtmanアートマン)に否定の接頭語anが付いた形であることを確認するためである。

これは漢訳で、諸行無常・一切皆苦・諸法無我といわれるもので、上座部(南伝仏教)ではこれを三法印として、釈迦の教えの要諦としている。しかし、中国に渡った北伝仏教では、三法印といえば諸行無常・諸法無我・涅槃寂静といい、肝心の一切皆苦が欠落している。中国人は<苦>を基本にすえるのを嫌ったのであろうか。しかしさすがに釈迦の根本の動因を抜きにして聖句とするのは問題ありと思ったのであろう、のちに三句めに一切皆苦を加えて四法印としたとされている。この変遷は大変面白い。

この連鎖のなかで、真ん中の苦のみは生きている人間の実感に基づいたものであり、あとの二つは自然の摂理ともいうべきものである。苦の原因をたどれば、諸行無常であるからであり、苦から厭い離れることができるのは、諸法無我だからであると考えられる。しかしこの連鎖は、すんなりと理解できるものではない。なぜこの世は苦に満ちているのか。この世で変わらないものはなく、すべては変化し、壊れてゆくから、つまり無常だから、それゆえに苦なのである。まずこの論理はすんなりとはつながらない。永遠の命が欲しいわけではなく、不死の薬が欲しいわけでもない。また永遠に変わらない世界は、退屈だろう、それこそ永遠の忍耐が必要だろう。次の段階の、苦なるものは無我であるというつながりは、さらに理解が難しい。

無我について

「無我は自己を否定するという意味ではない」(平川彰著作集第1巻p335)と碩学の一文をまず引いておく。釈迦は、自己と法を依りどころとせよと説いている。それは自帰依・法帰依の教えとして知られている。無我を理解するのはかなり難しい。なぜ、苦なるがゆえに無我であると続くのかは、次の『五比丘』という経が手がかりになると思われる。
比丘たちよ、色(肉体)は無我である。比丘たちよ、もし色が我であるならば、色が病に捲きこまれるようなことはあるまい。あるいは、その色について、<わたしの色はかくあるがよい、わたしの色はかくあってはならない>ということができるはずである。
だが、比丘たちよ、色は我ではないからして、色が病に捲きこまれることもある。あるいは、その色について、<わたしの色はかくあるがよい、わたしに色はかくあってはならぬ>ということはできないのである。(南伝 相応部経典22-59 五比丘)
色に続いて、受・想・行・識も同じように説かれ、そして人間を構成するすべての要素は、自分の自由にはならない、自分の思い通りにはならない、したがって自分のものではない、すなわち無我であると説かれている。自分のものであれば、自分の自由になるだろう、自分の意のままになるだろう、という前提がある。それが我(アートマン)である。しかしそうではないので、無我だというのである。苦を自分のものだと欲する人は、人間の本性からしていない。だから無我なのである、といっているようである。

また、『爪頂』という経のなかで、「ほんのすこしの色(肉体)でも(また受・想・行・識のそれぞれにおいて)、常住し、恒存し、永住して、変化することのないもの、永遠にわたってまさしく存するものはないでありましょうか」と問う比丘にたいして、こう答えている。

その時、世尊は、一つまみの塵をつまんで、爪のうえにのせて、その比丘にいった。
「比丘よ、たったこれっぽちの色だって、常住し、恒存し、永住して、変化することのないもの、永遠にわたってまさしく存するものはない。
比丘よ、もし、たったこれっぽちの色だって、常住し、恒存し、永住して、変化することのないようなものがあらば、この清浄の行を修して、よく、まさしく苦を滅し尽くすことはできないであろう。だが、比丘よ、たったこれっぽちの色だって、常住し、恒存し、永住して、変化することのないようなものはないがゆえに、よく清浄の行を修して、まさしく苦を滅し尽くすことができるのである。(南伝 相応部経典22-97 爪頂)

人間の存在において、永遠に存するものはない、変わらないものはない、だから修行して苦を滅することができるのだと答えている。苦も永遠のものではなく、変わる、人間の本性からして、苦は厭い離れるべきもの、だから修行により滅することが出来るとの論理であろうか。この無常→苦→無我の連鎖のなかで、無常だから苦である、苦であるから無我である、また無常だから苦を滅することができると繰り返し説かれている。世のあらゆる存在と現象は、人間の真に係わるべきものではない、執着すべきものではない、なぜならそれは解脱に益するものがないから、またそれは自然の法則(摂理)だから、というのが無我説であろうか?このあたりのことは、わたしにはよくわからない。

諸法無我というのは、少し難しい解説がある。我(アートマン 常一主宰)というのはウパニッシャド哲学において、永遠なる存在の自己の本質とされており、それが宇宙の本質である梵(ブラーフマン)と一つになって梵我一如を形成しており、したがってこの世の現象はすべて、この本質から派生した幻影であるという。その我を否定しているのが無我で、それによって諸法は本質ではなく、変化し壊れるものになり、したがって自分のものではなくなる、自分とかかわりはなくなる。どうしても分からないところだ。

釈迦が説かなかったこと

釈迦が説かなかった事柄がある。以下の問いについては、釈迦は態度を保留し、決して答えようとしなかった。「無記」といわれている事柄である。
a この世界は時間的に無限であるか、有限であるか。
b この世界は空間的に有限であるか、無限であるか。
c 霊魂と身体は同一であるか、各別であるか。
e 人間は死後なお存するか、存せざるか。
その理由について、あるときは、そのような見方をする人々は、色・受・想・行・識のそれぞれに、つまり世界の現象と人間の存在について、我(永久不変のもの、事物の本質)があると見ているからそのような意識が生ずるのであり、それぞれに我がない(壊れる、変化する、仮象である、つまり無常である)という見方からすれば、答える必要がないのである。 また別の場合には、
世界は常住なりとの見解の存する時にも、あるいは、世界は無常なりとの見解が存する時にも、やっぱり、生はあり、老はあり、死はあり、愁・悲・苦・憂・悩はある。そして、わたしは、いまこの現生においてそれを克服することを教える。(南伝 中部経典63)
と答えている。そして清浄の行を修するに、役立たないから説かないのだ、と答えている。この姿勢は、非常に現実的である。釈迦のすべての関心は、この世の人間を解脱させることに向いているのである。つまり人間の現実から、最優先課題のみ取り上げ、それの解決が一切であると説いている。それは、出家をし、修行をつみ、現実をありのままに観ることによって、縁起の法を理解し、解脱することである。解脱することによって、苦を離れ、生・老・病・死から解脱する(これがどのような意味であろうとも)ことができるとするのである。

まとめ

釈迦は、何らかの世界観を提示したわけではない。現世の人々の有様をみて、これは苦であると観じ、それからの解脱を教えた人である。したがって、釈迦の対象は、一人一人の個人である。それをどう受け止めるのかも、一人一人の問題である。苦を感じる心は、その人の感性にかかわっている。釈迦は感性豊かな人であったから、苦と認識したのである。生きてゆくのは苦であると認識しない人は、仏教の入口で躓く。縁起の法や五蘊や六処の説、また四諦や八正道の説は、その人にとってはただ説として興味がある他は、無縁となる。これらは、苦からの解脱のために考え出されたものだからである。

また釈迦は、自分の発見した法はいつの世にも存在する真理であるとしている。これは縁起の法について言及している箇所で述べられている。これは自然の摂理と言い換えてもいいものである。それはその通りである。ただその分析の細かさ煩雑さは、釈迦独特のものである。分析的で論理的なことは、釈迦の特徴だろう。

また人間の救済を説いていることからして、当然ではあるが、分析の視点も説の立て方もすべて人間の存在のあり方心の動き方から見ているのである。つまり人間の視点から、その解脱の視点から見ているのである。現代のように科学が発達し、その知識が一般人にまで浸透し、宇宙の初めや原子の構造や生物のDNAの時間的連鎖が話題になる時代には、この人間的視点は改めて思い起こす必要があるのである。

わたしは、一切皆苦が釈迦の出発点である、との視点を得た。そこからすべてが始まってそして終わっていると考えている。ここからの解脱は一人一人の人間個人の問題である。この問題で、人間を集団で扱うことは出来ない。では修行もせず、取り残されてこの解脱に与らない人々はどうなるのであろうか、救済されないままなのか。これは後に釈迦の教えから発展したもうひとつの仏教の課題である。中国を経て日本に伝来したいわゆる大乗仏教(北伝仏教)である。

更新2007年6月3日
最終更新6月18日