阿含経を読む

女人をどうする

南伝 増支部経典4,245
漢訳 増一阿含経36,3
1
「世尊よ、わたしどもは、女人をどのようにすべきものでありましょうか」
「アーナンダ(阿難)よ、見ないがよろしい」
「世尊よ、見た時には、どうすればよいでありましょうか」
「アーナンダよ、話をしないがよろしい」
「だが、世尊よ、話しかけられた時には、どうすればよいでありましょうか」
「その時は、アーナンダよ、用心するがよろしい」

― 以下2,3とあるが、省略 ―

管理人より
この経は、「造塔を造るに値する」と題され、この1章のみアーナンダの女性に関する質問があり、これに続く2,3章は、釈迦の死後のこと、遺身(死後の処理)をどうしたらよいか、アーナンダの問いに釈迦が答えている。
この会話がなされたのは、釈迦80歳、アーナンダは25年釈迦の侍者を務めたから、おそらく50歳頃であろうか。年老いた修行者が、女性についてこのような会話をしているとは、実に面白い。
釈迦の出家前の妃は、ヤショーダラ(耶輸陀羅)といい、大変な美人だったという。妃が子を生んでまもなく釈迦は出家したのであるが、その子が生まれた時、釈迦は『ラーフラが生まれた。束縛が生じた』と言ったという。子はラーフラ(羅?羅)といい、後に少年僧見習いとして出家し、シャーリープットラ(舎利弗)に預けられて修行し、のちに十大弟子の一人に数えられた。
釈迦の母マーヤ(摩耶)夫人は、釈迦を生んで七日後になくなった。夫人の妹のマハーパジャパティ(摩訶波闍波提)が、養母となって釈迦を育てた。後日、釈迦が成道し、仏陀となってから、マハーパジャパティは何人かの女性を連れて出家し、釈迦の弟子になろうとしたが、釈迦はなかなか許可しない。「養母ではありませんか」とのアーナンダの説得で、釈迦はようやく許可したという。比丘尼の第一号である。マハーパジャパティはおそらく60歳前後であったろうか。またその時、ヤショーダラも一緒だったという。釈迦は当初、女性が出家することを考えていなかったのであろう。また、女性の出家者が、安心して修行に打ち込める環境にもなかったかと思われる。そもそも女性は、比丘が厭い離れるべき対象であったのであるから。
更新2007年6月22日