このページは『真理のことば』(Dhammapada ダンマパダ 中村元訳 ワイド版岩波文庫)から、興味ある章句を選んだものです。なお、これは漢訳『法句経』に相当します。
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ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、―意識を失い、無用の木切れのように、投げ棄てられて。50
他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分したこととしなかったことだけを見よ。61
旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。62
「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。80
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯 め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。84
人々は多いが、彼岸 に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。87
賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行なえ。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独 のうちに、喜びを求めよ。127
大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪行から脱れることのできる場所は無い。128
大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。142
身の装いはどうあろうとも、行い静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行い正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。146
何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?―世間は常に燃え立っているのに―。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?157
もし人が自己を愛 しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうち一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。158
他人に教えるとおりに、自分でも行なえ―。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。160
自己こそ自己の主 である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。165
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄 まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。181
正しいさとりを開き、念 いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれらを羨む。183
すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、―これが諸の仏の教えである。210
愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人と会わないのは苦しい。また愛しない人と会うのも苦しい。260
頭髪が白くなったからとて、長老なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。277
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。278
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。279
「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。302
出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出てゆくと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。305
ひとり座し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。378
みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。380
実に自己は自分の主 である。自己は自分の帰趨 である。故に自分をととのえよ。―商人がよい馬を調教するように。