ある遍路日記  高野山へ 

2003年3月13日〜14日の日程で高野山に行ってきた。遍路だけで終わったのでは、画龍点睛を欠くと思ったからである。 しかし今度はもう遍路の延長ではなかった。歩くことがないのである。夜行バスで早朝大阪の梅田駅に着き、地下鉄御堂筋線に乗って 難波駅に行き、そこで南海電車に乗り換えて、高野山駅まで一直線であった。9時過ぎに着き、駅から約2kmで入口の大門に到着する。 大門から奥の院・弘法大師御廟まで約4kmの中に高野山のすべての寺院と街があった。一日ぶらぶらしていた。

西行桜
西行桜
御影堂
御影堂

壇上伽藍といわれるところに、庇の低い美しい建物がある。御影堂と呼ばれ空海の住まいであった。また小ぶりの西行桜というのがあり、 自ら植えたとされている。西行は30年余高野山に在住していたそうだ。一の橋から杉木立の道を奥の院まで行く両側に、大名から 庶民にいたるまで、沢山の墓がある。戻ってくる途中で、親鸞聖人の墓も見つけた。

無量寿院という寺に泊まる。高野山には旅館や民宿はなく、すべて宿坊である。精進料理が美味しい。若い修行僧が部屋に来て、 膳の上げ下げをやってくれ、また布団も敷いてくれた。ぎこちないが礼儀正しい応接をしてくれる。高校に通っているという。 色々な問題のある人が来ていると口ごもって言っていたが、本人は寺の跡継ぎではなく普通の家庭の子で、阿闍梨 (あじゃり)になるんだ、と自分で言っていた。

麓の梅 眼下は紀ノ川
麓の梅 眼下は紀ノ川
町石道と町石
町石道と町石

翌日、大門から九度山の慈尊院まで、町石道(ちょういしみち)を歩いて下った。昔からの高野山への 主要参道が山中にそっくり残っていた。遍路道沿いに180丁約20kmにわたって、高さ2mあまりの町石(ちょういし) (四国でいう丁石)が多分一本も欠けずに建っており、素晴らしい歴史遺産だと思った。全部で216本あるという。 文久7年(1270年)の日付のものが多かったから、鎌倉時代元寇の頃のものだ。